1.誰の信仰が癒したのか?
(1)誰の信仰
今日の箇所は私たちが前々回の礼拝で学びましたエルサレム神殿の「美しの門」の前で起こった足の不自由な人の癒しの物語の続きです。
「彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた」(10節)。
この足の不自由な人は神殿の前で、「美しの門」を通り過ぎていく人に向かって毎日物乞いをしていまいた。ですから、そこを通る多くの人々が彼の足が不自由であったことを知っていたはずです。その男が「躍り上がって立ち、歩きだした」(8節)のですから人々は驚いたに違いありません。聖書は彼らが「我を忘れるほど驚いた」と記しています。そこで彼らはこの驚きの原因を突き止めるためにその神殿の中の「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいたペトロとヨハネの元におしかけました。そこで始まるのがペトロの説教です。ペトロはここで起こった出来事にどのような意味があるのかをその説教の中で人々に語り出すのです。
ところで、今日の聖書箇所の最後の言葉にこのときペトロが語った次のような言葉が記されています。
「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)。
この男の足が癒されたのは「イエスの名を信じる信仰によるものだ」とペトロは語っています。確かにイエスを信じる信仰が人を癒すと言う言葉に疑問を挟む必要は私たちもないと思います。しかし、それではここで語られている「イエスの名を信じる信仰」とはいったい誰の信仰のことを言っているのでしょうか。いったい、この男性の癒しは誰の信仰によって起こったと言うのでしょうか。
まず、考えることができるのはこの足の不自由だった男性自身の信仰です。しかし、ペトロとヨハネが彼に声をかけたとき彼は「何かもらえると思って二人を見つめていた」と書かれています。彼はこのとき自分の癒しを二人に求めていなかったのです。強いて言えば、ペトロが「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)と語りかけられた時に、それに応答して彼が立ち上がったことが、彼の信仰であったと言うこともできるかもしれません。しかし、聖書は彼が立ち上がるに際してもペトロたちが「右手を取って彼を立ち上がらせた」(7節)と言っています。この男はペトロとヨハネの働きかけに終始受け身に対応するだけで、積極的な自分の信仰を示していないのです。
(2)わたしたちを見つめるな
そうなると考えることができるのはこの信仰はこの男の信仰でなく、この男を癒したペトロとヨハネの信仰であると言う可能性です。確かにペトロとヨハネがイエスの名によって驚くべきことが起こると信じて、彼に声をかけなければこの出来事は起こってはいませんでした。ですから、この二人のすばらしい信仰に応答して、イエスがその力を発揮されたと考えるのが一番妥当な考えかもしれません。しかし、そのようにこの二人の信仰を賞賛しようとする者たちに対して、当の二人はこのように抗議しているのです。
「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」(11節)。
「わたしたちがまるで自分の立派な信仰によって、この人を歩かせたかのように」考えるのか。それは間違いであるとペトロは語ります。そうなるといったい誰の信仰がここで働いているのか、やはり私たちは迷ってしまうのではないでしょうか。
宗教改革者のカルヴァンはこのペトロの言葉を借りて、当時のヨーロッパで盛んであった聖人崇拝の誤りを批判しています。当時の人々は聖人の信仰はすばらしい、聖人たちはそのすばらしい信仰によってたくさんのご褒美を神様から受け取っている。自分では使い切れないほどのご褒美を彼らは神から受けているのだから、その一部を自分たちにも分けて貰いたい。そう考えてその聖人たちに助けを求めることが当時の教会で盛んだった「聖人崇拝」の正体です。しかし、ここでペトロははっきりと「わたしたちの信仰がこの男の足を癒したのではない」と語っているのですからこの言葉に従えば聖人たちの信仰も同じように私たちを癒すことはできないと言うことになります。
私たちは「信仰」をいつの間にか自分の持っている能力の一つであるかのように誤解してしまっているのではないでしょうか。だから、私の信仰はほかの人たちより小さいといっては嘆き、あるいは「あの人たちよりもまし」と考えて高慢になってしまうのです。しかし、ペトロが語るようにイエスの名を信じる信仰が人を強め、また癒すのです。ですからそのイエスの名を信じる信仰には大きいも小さいもありません。もし、それがあればやはりその信仰の持ち主に賞賛が与えられるはずです。しかし、ペトロはここでは誰もその賞賛を受けるに価する人はいないと言っているのです。
2.アブラハム、イサク、ヤコブの神
(1)驚く必要はない
そこでペトロは人々に「自分たちを見つめてはならない」と語ります。そして見つめるべき相手は誰でなければならないかを人々に語ったのです。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました」(13節)。
最近、「サプライズ」と言う言葉をよく耳にすることがあります。総理大臣が新しい内閣を組織するとき、意外な人物を抜擢するときに「サプライズ人事」と言う表現が使われます。レコード大賞を受賞したAKB48のコンサートでは必ずサプライズ企画があると言います。「サプライズ」、それは人々の思ってもいなかったことをしたり、見せたりすることを言います。エルサレム神殿で起こった出来事は人々にとって「サプライズ」であったと言えるのです。
しかし、ペトロは先ほどの言葉の中で「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか」(12節)と語ります。つまり、ペトロはこの出来事は「サプライズ」ではないし、決して意外な結果起こったことではないと言っているのです。なぜなら、この出来事はイスラエルの民がよく知っているはずの「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神」、つまり聖書を通してご自身を明らかにされている神のみ業であるからです。ですから、聖書に正しく耳を傾けているならば、人々はサプライズする必要はなかったのです。むしろ「なるほど、聖書に書かれていることが確かに実現したのだ」と理解ができたと言っているのです。
彼らがよく知っている「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神」は、イスラエルの民を必ず救い出すと約束されていました。そしてその約束を実現するために神はイエス・キリストを遣わしてくださったのです。こんなに昔から知らされていた出来事だったのにイスラエルの民はどうしてここでサプライズしているのでしょうか。結局、彼らは聖書の語る言葉を誤解し、その言葉に正しく耳を傾けることをしなかったからです。
つまり、彼らが聖書に正しく耳を傾けているなら、今起こっている出来事がどうして起こったのか。またこの出来事が何を教えようとしているのかが分かるはずだったとペトロは語っているのです。
(2)僕イエス
そしてペトロはイスラエルの民が聖書の語る神の約束に正しく耳を傾けることができなかったことによって起こった悲劇を次のように続けて語ります。
「ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました…」(13〜15節)。
彼らの過ちの故に、イエスは無実でありながら罪人として裁かれ十字架にかけられて殺されたのです。彼が無実であることはその裁き手であったローマの役人ピラトも認めていたところなのに、あなたたちはそれを拒んだ。そのことは聖なる正しい方を拒み、命の導き手である方を殺したことになるとペトロは語っています。「命の導き手」とはつまりこのイエスこそ、あなたたちを命へと救い出すために神から遣わされた救い主であると言うことです。
しかし、出来事はここで終わりません。ペトロは続けて語ります。
「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(16節)。そして、その復活されたイエスが今も生きて働いておられ、足の不自由な人の足を癒し、彼を歩けるようにさせたと語っているのです。
ペトロの説教はペンテコステの後に語られたものでも同じですが、自分たちの体験している出来事はすべてイエスが救い主であり、そのイエスが今も生きて働いてくださっていることを示すことに重点が置かれています。
ところで、ここでペトロはイエスを「僕イエス」と紹介しています。この「僕」は「奴隷」と言う意味ではなく、むしろ旧約聖書では特別な人物について語られるときに用いられる言葉です。それはイザヤ書53章が語る「苦難の僕」を呼ぶ言葉です。神の約束では、この苦難の僕が人々の罪の咎を背負って苦しむことで、人々を癒すと語られています。つまり、ペトロはイエスが無実の罪で十字架にかけられ殺されたことが、このイザヤの預言の成就であったことをこの言葉を使って証ししているのです。
3.イエスの名が強くする
ペトロはなぜ足の不自由な人が癒されたのか。その明確な答えを語ります。つまり、彼の足を癒したのは神が遣わされた救い主イエスのみ業であること、なぜならイエスは人々の罪の咎を自ら背負って苦しみ、十字架で死なれたからこそ、私たちすべてを癒す力を持っているからです。
ここでの足の不自由な人の癒しの出来事は私たちに、私たちの人生を罪から解放し、癒しを与え、命を与えてくださるのがこのイエスであることを示しているのです。だから、このイエスの名を信じる信仰が「完全にこの人をいやす」ことができたとペトロは語ったのです。
イエスの名を信じる信仰とは私たちが持っている能力ではありません。その信仰に力があるのは、私たちの救い主が私たちのために十字架にかかられて死なれたからなのです。私たちに与えられている信仰は、このイエスによって私たちにもたらされたものだと言えるのです。
神殿に集まった人々はここで起こった出来事は誰によってなされたものか、誰にそんな力があるのかに好奇心を抱きました。しかし、ペトロはそのような人々に「見つめているところが違う」と言ったのです。
私たちはどうでしょうか。「自分の信仰は…」と私たちはすぐに口にします。また「あの人の信仰は…」と言って、お互いの信仰比べをすぐに始めます。しかし、イエスの「名を信じる信仰」とは私たちの側に一切の根拠を置かない信仰です。私たちの救い主が、私たちのために苦しんでくださった、私たちのために命を捧げてくださったのです。だから私たちはこのイエスの力によって完全に「癒され」また、命の道へと導かれるのです。私たちもまた、人を見つめるのでも、自分を見つめるのでもなく、私たちのために苦しんでくださった「僕イエス」を見つめることに心を傾けたいと思います。そうすれば、私たちもまたイエスが今も生きて働き、私たちの人生に豊に働いてくださっていることが分かってくるはずなのです。
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