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2012年1月8日 「わたしたちが救われるべき名」
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聖書箇所:使徒言行録4章1~12節
1 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。
2 二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、
3 二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。
4 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。
5 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。
6 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。
7 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。
8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、
9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、
10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
11 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
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1.逮捕されたペトロとヨハネ
(1)祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派
今日の箇所ではペトロとヨハネの二人が神殿で逮捕され、エルサレムの議会の場で裁きを受けた出来事が語られています。エルサレム神殿の美しの門の前でペトロとヨハネが生まれつき足の不自由だった人の足を癒したことから、ソロモンの回廊にたくさんの人々が集まりました。この出来事に好奇心を持って集まった人々にペトロはこの出来事が起こった本当の意味と、この男を癒した方が誰であるかをそこで語ったのです。今日の箇所によればこのときペトロとヨハネから話を聞いた5千人ほどの人々がその話を信じた(4節)と言われています。二人の話がたくさんの人の心を捕えるような、影響力を示したのです。こうなると二人をそのままにはしておけないと登場するのは当時のエルサレムに君臨していた宗教的指導者たちです。
「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た」(1節)。
ここに「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派」と言う三つの名前が登場しますが、祭司も神殿守衛長もこのエルサレム神殿で働く人々でした。そしてサドカイ派というのはエルサレムの祭司たちが中心となって形成されていた宗教グループのことです。つまりここに記されている人々はすべてサドカイ派に属し、そのサドカイ派の主張を信じていた人々であると考えることができます。聖書はここで彼らがペトロとヨハネの語る言葉の中で何を問題視していたかを記しています。そして彼らが問題視していた発言こそ、サドカイ派の主張と相反するものであったと言うことができます
(2)死者の復活
「二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだ(った)」(2節)。
彼らが問題視したのは「イエスが死者の中から復活した」と言うペトロたちの発言です。なぜならならば彼らは「死者の復活」と言う教えを強く否定していたグループだったからです。もしイエスの復活が事実であると認めるなら彼らの主張は根本から揺らいでしまいます。だから彼らはこの二人を黙らせるために捕え、牢に入れたのです。サドカイ派が死者の復活を否定したのはその教えが聖書に記されていないからだと考えたようです。彼らは聖書の中で自分たちに都合のいい教えだけを受け入れ、そうでなものを拒否しました。そのため、彼らは聖書が証言し続けた救い主イエスを受け入れることができます、その復活の事実も認めることができなかったのです。
私たちが私たちの持っている知識や理性の力で、聖書の語る真理を測り、「これは真実、これは作り話」と判定していったならどうなるでしょうか。確かにその上で残された内容は私たちの知恵でも納得のいくものになるかもしれません。しかし、そこに残るの教えは世の知識と全く変らないものとなり、結局は私たちを救いうるものとはなり得ないのです。そのような意味で、私たちもサドカイ派と同じような過ちを犯すことがないよう気をつける必要があります。
2.宗教議会でのペトロたちの弁明
(1)誰の権威によるのか
サドカイ派の人々によって捕えられ、牢に入れられたペトロとヨハネは、その結果、イエス・キリストを裁き、彼に無罪の罪をなすりつけ、死に追いやったエルサレムの宗教議会で同じように裁かれることになりました。
「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった」(5〜6節)。
ペトロとヨハネの二人のためにエルサレムの宗教議会がわざわざ招集されたのは、彼らがイエス・キリストの弟子であったからです。エルサレムの宗教指導者たちはイエスを十字架にかけて殺すことによってこの問題はすべて解決したと考えていました。ところがこんどはその弟子たちが問題を起こし始めたのです。彼らが民衆に影響力を示すようになったからです。そこで彼らはあわてて集まり、この問題を早急に解決しなければならないと考えたのです。
「そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した」(7節)。
ここでペトロたちに問われているのは権威の問題です。簡単に言えばペトロとヨハネは誰の許可を得てこんなことをしているのかと言うことです。エルサレム神殿だけではなく、イスラエルの民を指導する権威を持っているのは自分たちだけであるとエルサレムの宗教指導者たちは考えていました。ですから、彼らは自分たちの許可も得ずに、勝手なことをするのは許されないとペトロとヨハネを責め立てたのです。
ここで微妙なのはペトロとヨハネの逮捕時の理由と、宗教議会での裁きの理由は微妙に変って来ていることです。それはこの宗教議会のメンバーに「死者の復活」を信じるファリサイ派のメンバーが加わっていたからだと考えることができます。なぜならば、ここに登場する「律法学者」のほとんどはファリサイ派のメンバーであり、彼らは最後の日に死者が復活すると言う教理を信じていたのです。
(2)無学なペトロの発言の秘密
「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(8〜10節)。
ペトロは宗教議会の場でエルサレムの宗教指導者たちを前にして大胆に自分たちの弁明を始めます。この後の14節に「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚(いた)」と記されています。もともとガリラヤの漁師でしかなかったペトロとヨハネの二人がここで話した内容は、彼らには簡単に話せる内容ではないことがこの言葉で示されています。
聖書はその秘密をまず最初に明らかにしています。「ペトロは聖霊に満たされて言った」のです。ペトロはイエスが送ってくださる聖霊に満たされ、その助けを受けてこの言葉を語ったのです。つまり、このペトロの言葉はイエス自身の言葉でもあると言う意味にもなります。もしペトロとヨハネがエルサレムの宗教指導者と同じような学識を持った人たちなら、彼らの発言は当然の内容と誰からも考えられたことでしょう。そうなると、彼らの元に聖霊が下り、イエスが彼らを通して働かれていることがわからくなってしまいます。イエスが自分の弟子たちをガリラヤの漁師のような無学な者から選ばれた秘密は、彼らの背後にイエスが働いておられることを私たちにはっきりとわからせるためであったと考えてもいいのではないでしょうか。
パウロはコリントの信徒への手紙一の中でこう語ります。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」(1章27節)。
同じように私たちもイエス・キリストの働きを世に示すために、神に選ばれていることをここで覚えたいと思います。ですから私たちは自分の力や知識の無さを嘆くのではなく、キリストが私たちを通して働かれることに喜びと希望を持ちたいのです。
3.イエスは隅の親石
(1)恐れを知らない発言
ペトロは「何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と言うエルサレムの宗教指導者たちの尋問に対して、はっきりと次のように答えています。
「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(10節)。
彼を癒したのはナザレ人イエス、エルサレムの宗教的指導者たちが十字架につけて殺してしまった方が、復活して、今も生きて働いておられると語ったのです。この発言はきわめてリスクの高い発言であることが分かります。無実の罪でイエスを十字架につけて殺したその張本人たちを前に、その罪状をペトロは語ったのですから。こんな発言をしてただで済まされるはずがないことを彼は理解していたはずです。しかし、ペトロは大胆になって発言しています。かつては、大祭司の館の中庭で恐怖のあまり、「イエスを知らない」と叫んだペトロの姿とここでの彼の姿は全く違います(ルカ22章54〜62節)。このペトロの変化自身がキリストの復活なしには証明できない事実だと言えるのです。彼はかつては自分の力に頼って、イエスに従おうとしました。しかし、だからこそ彼は肝心なときにイエスに従うことができなかったのです。しかし、今はそうではありません。彼はイエスの力によって、イエスの送ってくださる聖霊の力によって大胆に発言しているのです。
(2)この方の上に救いの計画は立てられた
「この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(11〜12節)。
ペトロはここで旧約聖書の詩編118編の言葉を引用しています。この言葉はエルサレム神殿の建設中に起こった実話に基づいて歌われていると考えられています。エルサレム神殿の建設のためにたくさんの資材が集められました。建築家たちはその資材を吟味して、どれが神殿建設のために最適な材料かを調べました。そうすると、「これはどうにもならない、何も使うことができない」と言うような資材も中には現れます。彼らはそのようなものを選んでは棄てていったのです。ところが、神殿を建てるために大切な「隅の親石」、つまり神殿の大切な土台となるような石にふさわしい材料がどうしても見つかりません。どうしたらよいものかと考えていたときに、何とかつて自分たちが「これは何の役にも立たない」と見切りをつけて棄ててしまった石の中からその「隅の親石」にもっともふさわしいとされるような石を発見したのです。そしてエルサレム神殿はこの「隅の親石」の上に建てられ、完成したのです。
これは神の救いの計画が、私たちの人間の考えを遙かに超えたものであることを示す物語です。私たちは簡単に「何も役にもたたない」と判断して棄ててしまうものがあります。また、「こんなことがどうして起こるのだろうか」と疑問に思うような出来事が起こります。しかし、神の計画の内には不必要に棄てられるものはありません。すべてが大切な目的のために用いられるのです。
イエス・キリストはそのような存在の代表です。当時の宗教指導者も民衆も口をそろえてイエスを必要ないと決めつけました。そして十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのキリストを復活させ、その方によって私たちの救いを成し遂げられたのです。
さらにこの方が「隅の親石」と言う言葉には、すべての神の計画がこのイエスの上に成り立っていると言う意味も含まれています。ですからすべてのもの、そして事柄はこの方を通してその存在の意味が分かってくるのです。どうして「美しの門」の前に座っていた人は生まれつき足が不自由だったのでしょうか。どうしてペトロはかつてイエス逮捕の出来事を前にして自分の弱さのために逃げ出さざるを得なかったのでしょうか。それだけでは意味の分からない出来事が、このイエスの働きを通して始めて理解されていくのです。
このように私たちの人生の本当の意味を理解するためには、私たちが謎に思っている出来事の本当の意味を理解するためには、この救い主イエスを受け入れ、その御業に目を向ける必要があります。なぜなら、ペトロがここで語っているように、イエスこそ私たちの救いのために選ばれた「隅の親石」だからです。
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【祈祷】
天の父なる神様あなたのたてられた救いの計画の中に私達一人一人が確かに招かれていることを教えてくださり感謝します。御子イエスが十字架を通して実現した完全な救いによって、私達は本来あるべき場所に、神の御許に安らうことができることを感謝します。私達がこのあなたの提供してくださった救いのすばらしさを日々、知っていくことで、私達が日ごとに真の悔い改めをなし、あなたに自分の人生を委ねていくことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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