礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年1月8日  「神に従うか、人に従うか」

聖書箇所:使徒言行録4章13〜22節
13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。
14 しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。
15 そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、
16 言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。
17 しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」
18 そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。
19 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。
20 わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」
21 議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。
22 このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

1.救うことができるのはこの方だけ
(1)議会に引き出されるペトロとヨハネ

 エルサレム議会の取り調べを受けるペトロとヨハネの二人ついての物語から今日も続けて学びます。エルサレム神殿の美しの門の前で起こった生まれつき足の不自由な人の癒しの出来事、その出来事に驚いて集まった人々がペトロの説教に耳を傾けました。そして、その説教を聞いた多くの人々が彼の話に心動かされて、その話を信じることになりました。ここまではイエスの弟子たちにとって、また教会にとってたいへん好ましい出来事が続いたと言うことができます。ペトロとヨハネの働きを通して主イエスの福音が多くの人々に伝えられ、またまたそれを信じる人が多く現れたからです。イエスが十字架にかけられたときにはその僅かな弟子さえも逃げ出してしまったのに、ペンテコステの出来事以後、教会に送られた聖霊の力を受けて初代教会の群れは成長し始めたのです。
 ところが、教会が成長しようとするとき、またそれを通して神の国の勢力がこの地上に拡大しようとするときに、必ずそれを阻もうとする敵対勢力が立ちはだかります。このときにペトロとヨハネを捕え牢屋に入れ、また彼らを裁判にかけようとしたのは、イエスを十字架にかけたエルサレムの宗教指導者たちでした。ペトロとヨハネは彼らによって議会に引き出され、そこで二人は自らのなした行動についての弁明を求められたのです。ところがかつてはこのエルサレムの指導者たちの力におびえて、イエスの前から逃げ出した弟子たちが、ここでは一転して大胆になってその指導者たちに語りかけます。

(2)恐れを知らない大胆な発言

 二人はこの美しの門に於ける出来事が三日目に死者の中から甦ったイエスの御業の結果であることと、そのイエスをエルサレムの指導者たちが十字架につけて殺してしまったことをここで語っています。その上でこのイエスこそ、神から遣わされたまことのメシア=救い主であり、誰も彼を通してしか救いを受けることができないことをはっきりと断言しているのです(4章8節から)。

 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(12節)。

 このように語ったペトロの言葉は、言い換えれば「あなたたちによっては誰も救われることができない」と言うエルサレムの指導者たちの役割を全面否定する言葉にも成りかねません。なぜならば、エルサレムの指導者たちは「自分たちに従いなさい。自分たちの言う通りにすれば、あなたたちは救われる」と民衆に教え、彼らは支配し続けてきたからです。この言葉を議員たちが聞いたなら、ただではすまされないような爆弾発言を彼らはしているのです。ですからこのペトロの発言は誰をも恐れることのない本当に大胆な発言であったと言えるのです。

2.弁明の準備は無用
(1)聖書の証言に基づくすばらしい弁明の言葉

 このペトロとヨハネの発言を耳にした議員たちの反応から今日の箇所は始まっています。

「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」(13節)。

 彼らもまたペトロとヨハネの何者をも恐れないような大胆な発言を聞いて驚いています。おそらく、彼らはペトロとヨハネを議場に引き出した際、彼らの身の上を詳しく調査したのかも知れません。彼らが驚いたのは二人がガリラヤ出身の漁師、つまり聖書や信仰について全くの素人であると言うことでした。聖書や信仰についての知識ではプロ集団である議会のメンバーに向けて、ペトロはこのとき旧約聖書の言葉を通してイエス・キリストについての証しを語っていたからです。彼らはペトロとヨハネにどうしてこのような証しができるのかと疑問を抱いたのです。なぜならばペトロとヨハネはここで決して自分の勝手な考えを披露していたわけではないからです。
「自分は神についてこう考える、イエスについてこう考える」。私たちもまた自分の限られた知識や経験に基づいて自分で考え出した勝手な意見を語ることはできます。しかし、それはあくまで一個人の意見であり、その考えには何の権威も力もありません。もし、ペトロたちがこのとき語った言葉がそのようなものであったなら議員たちも驚きもせず、「彼らは勝手なことを言っている」と言うことで片付けることができたかもしれません。しかし、ペトロたちはこのとき旧約聖書の証言に基づいて、救い主イエスの復活と勝利を大胆に語っているのです。
 かつてイエスは弟子たちに次のような預言の言葉を語ったことがあります。ルカによる福音書21章12〜15節にイエスの語られた次のような言葉が記されています。

 「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」。

 このイエスの言葉は終末を前にしてこの地上に起こる様々な現象が語られているところです。つまり、神の救いの御業がこの地上に完全に実現する前に、それに敵対するような動きがこの地上で起こることが預言されているのです。この言葉と同じ状況がこのときペトロとヨハネが遭遇していた出来事であったと言うことができます。イエスはこのときこそ福音を「証しをする機会となる」と語られています。しかもそのときに、イエスの弟子に求められていることは「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」ということだと言うのです。ここで「弁明の準備は無用である」とイエスは語っています。なぜなら弁明の言葉をイエス自らが弟子たちにそのとき与えてくださると約束されているからです。この言葉によって考えるなら、ペトロとヨハネはこのとき、聖霊に満たされて(8節)、イエスが与えてくださる言葉を語ったのです。だから二人の発言の大胆さは、かつてイエスがこの神殿で語ったときと同じように力と権威に満ちたものだったのです。

(2)迫害のための特別な準備は無用

 ただ、私たちはこのイエスの言葉を「私たちは何もしなくてよい」と教えていると誤解しないようにしたいと思います。イエスがここで「準備しなくてもよい」と言ったのは迫害にあったときのための特別な準備であって、私たちの通常の信仰生活、つまり聖書を読み、熱心に神に祈るような行動を否定している訳ではないからです。
 私たちは聖書を読んで心配になることはないでしょうか。「初代教会の人々が受けたような迫害に会ったなら、自分ははたしてそれに耐えられるだろうか?そのとき、自分は命がけで信仰を守ることがでるだろうか?」と心配になるのです。しかし、イエスはそんな心配をあなたたちは今、しなくてよいとここで教えているのです。なぜならば、そのときになって私たちを守ってくださるのはイエスご自身だからです。だからイエスは私たちに安心しなさいと言っているのです。私たちはそのときのための特別な準備を今、する必要はありません。そんな心配のために今を無駄に過ごしてしまうのではなく、私たちに日々、神に従い、聖書の言葉に耳を傾け、祈りを献げればよいと教えているのです。
 確かにペトロとヨハネは議員たちから見れば無学な人たちであったかもしれません。しかし、彼ら弟子たちは今まで聖書についての最高の教師であるイエスに訓練されてきていた人たちでした。このイエスに教えられていたからこそ、ペトロは旧約聖書の言葉を使ってこのとき大胆に証しすることができたのです。ですから大切なのは、将来の迫害を心配しすることではなく、今日、私たちが最善を尽くして主イエスに従っていくことだと言えるのです。そしてイエスはそのような私たちを守ってくださると約束してくださっているのです。

3.三番目の証人=神に癒された人

 さて議会の議員たちは自分たちに対して語られるペトロとヨハネの言葉に「一言も言い返せなかった」と聖書は記しています。いつもなら雄弁に語る彼らがなぜこのとき二人に何も言い返すことができなかったのでしょうか。その理由が次のように語られています。

「しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった」(14節)。

 このとき足をいやしてもらった人本人がペトロとヨハネと一緒にそこにいたのです。議会での彼の言葉は一切ここには記録されていません。なぜなら、彼は何も語らなくても、その存在自身で神の御業を豊かに証しすることができたからです。

 かつてイエスによって甦らされたラザロと言う人物は、彼がそこにいるだけでイエスの力の素晴らしさを証しすることになりました。ですからラザロの存在を恐れたユダヤ人たちは彼を殺そうとまで考えたと聖書は記しています(ヨハネ12章10節参照)。

 私たちは自分には主イエスの証し人としての十分な能力がないと言ったような心配を抱くことがあるかもしれません。しかし、聖書は病気になって死ぬことしかできなかったラザロが、そして人の力を借りなければ歩くこともできず、毎日物乞いをして暮らしていた男性がイエスの御業を証しする証人となったことを教えています。神はこれと同じようにして救われた私たちをも「証し人」にしようとされています。何よりも私たちが主イエスの証人として生きようとするときに大切なのは神に救われた私たちを飾ることなく人々に示すことが必要であることをこれらの物語は示しているのではないでしょうか。

4.証人たちに与えられている自由
(1)復活のイエスによって変えられた生き方

 さて、ペトロとヨハネの証しに対して、また実際にイエスによってその足を癒していただいた男の無言の証しに対して議会の議員たちは何の反論もすることができません。そこで彼らは二人を議会から退場させた上で相談しあいます。

「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」(16〜17節)。

 彼らの結論は二人を「脅す」と言うことでした。なぜなら、このとき二人に手をかけるなら、民衆がどんな反応をするかを分からなかったからです。二人に対して好意的な民衆が自分たちに向かって牙をむくかも知れないと彼らは考え、恐れたのです。その上で、彼らは二人を「脅して」おけば、彼らは簡単に黙るだろうとも考えていたのかもしれません。しかし、ペトロとヨハネはこの彼らの予想とは全く違った反応を示します。二人は「その命令には従えない」とはっきりと答えたのです。

 「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(19〜20節)。

 「神に従うのか、それとも人に従うのか」。議員の命令はペトロとヨハネにそのような決断を迫るものだと言うのです。そしてその際に、神に従うことこそが正しいのは当たり前ではないかと彼らは語っているのです。かつて、ペトロとヨハネはこの当たり前のことができなかったのです。イエスを十字架にかけた人々を恐れて、彼らはそのとき逃げるほかに何もできませんでした。ですから彼らのこの変化を説明するために、何度も語るようですが、イエスの復活の勝利を抜きにしては考えることができません。つまり、イエスは復活されたご自身の姿を弟子たちに示すことにより彼らの生き方自身を変えてしまったと言うことができるのです。

(2)恐れからの解放と真の自由は

 「人を恐れる」こと、つまりそれは人間に支配されているということになります。私たちは様々なものに恐れを抱いて生きています。それは私たちは様々なものに支配されて生きていること言うことになる訳です。その恐れから、その支配から私たちを解放して下さる方が、復活されたイエスであると言うことをこの物語は明確に教えているのです。
 私たちは様々な恐れから、また私たちを支配する様々なものから自由になりたいと願って生きています。しかし、そのために私たちがどんな努力をしても、私たちはそのたびに敗北し、さらなる恐れに捕らわれて、不自由な生活を送らざるを得なくなります。ペトロとヨハネから私たちが学べることは、私たちの決断や努力だけでは私たちは様々な恐れや、私たちを支配するものから自由になることはできないと言うことです。ですから私たちが恐れから解放され、自由になりたいのなら私たちの目を復活されたイエスに向けることです。なぜなら、イエスは私たちを守り、私たちを自由にしてくださること約束してくださっているからです。
 どうしてペトロとヨハネはこんなに大胆に生きることができたのか。別の観点から考えるなら、それは彼らがイエスを証しする証人として生きようと決断したからではないかとも考えることができます。私たちの目的は自分が様々な恐れから解放され、自由に生きることだと考えてしまいますが。そしてカウンセリングや世の様々な宗教はそれを目的に様々な方法を教えています。しかし実はそうではありません。私たちの人生の目的はこのイエスを証しすることにあるのです。そしてイエスはその使命を私たちが全うできるようにと、私たちを様々なものから守り、自由にしてくださるのです。ペトロとヨハネの大胆さは、そして彼らの持っていた自由は、キリストの証人として生きる者に与えられる祝福であることを私たちはこの物語から覚えたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様
エルサレム議会で大胆にイエスを証ししたペトロとヨハネの姿から、あなたの約束に目を向けることができて感謝します。困難の中で私たちを守り、様々な恐れから私たちを解放し、自由を与えてくださるのはあなたご自身です。あなたを信頼して、与えられた証し人と使命を全うすることができるように導いてください。ペトロとヨハネに適切な弁明の言葉を与えてくださったように私たちにもあなたの言葉を与えてください。あなたに癒されて議会で無言の証言をすることできた男性のように、あなたによって救われた私たちの姿を飾ることなく人々に示すことによってその使命を成し遂げることができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。