礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年1月29日  「主の力が宿る信仰生活」

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二12章9節(新P.339)
5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。
6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、
7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。
9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

1.年間テーマと年間聖句を度々思い起こすために

 2012年が始まって早くも今日で第五週目の日曜日を迎えました。そして今日は午後に私たちの教会の本年度の会員総会が開催されます。そこでこの礼拝では会員総会に提案されている本年度の教会の活動計画のまず最初に登場する年間テーマと年間聖句について皆さんにお話したいと考えています。
 まずその前に、私の反省点としてはこの年間テーマと年間聖句を礼拝堂の前に掲示するだけで終わってしまうのではなく、ことあるごとに何らかの形でこのテーマと聖句を思い起こせるような機会がいままでなかったと言うことです。ですから是非今年はそのような機会を持ちたいと思っているのです。
 私は南越谷コイノニア教会の代理牧師を古川先生の召天後2008年6月から昨年の7月まで約三年間勤めることができました。この南越谷コイノニア教会では毎週の礼拝の最後にその年の年間テーマと年間聖句を出席者一同で声を合わせて読み上げます。もちろん、声を出して読むことだけがいいこと言う訳ではありません。しかし、一年の活動の間、このテーマと聖句を忘れないように心がける一つの努力としてはこれはよいものだと私は思いました。この件に関しては小会の皆さんとまだ十分に検討していませんので、まずそこで相談した上で、何らかの形でこの年間テーマと聖句を何度か思い起こせるような試みをしたいと思っています。

2.「弱さ」が大切
(1)ローズンゲン2012年の聖句

 それではまず、この年間テーマと年間聖句を私が小会で提案するに至ったきっかけについて少し皆さんにお話したいと思います。まず、第一に年間聖句の方からお話したいと思います。この聖句は私が毎日読んでいる「日々の聖句 ローズンゲン」と言う書物の2012年の聖句として選ばれているものです。以前もお話したように、このローズンゲンはドイツの大変敬虔な信徒の集まりから生まれたものです。そしてこの「ローズンゲン」には「合い言葉」と言う意味があると言われています。戦場で敵味方が入り乱れて戦い合う中で、兵士が自分の見方を見分けるために大切になってくるものがこの「合い言葉」です。そこでキリストの兵士としてこの地上に遣わされるキリスト者がお互いキリストにある仲間同士であると言うことを判別する合い言葉として、このローズンゲンと言う書物は作られていると言うのです。具体的にはこのローズンゲンに毎日、とても短い旧約聖書と新約聖書の聖句が選ばれていて、それを読者は一日、覚えながら世の生活に励むようにされます。つまり、ローズンゲンを使っている世界の読者は皆、同じ日に同じ聖句を口ずさみ、また心に蓄えながら生きていくのです。もちろん、この合い言葉は自分の味方を見分けるだけではなく、自分が今、キリストの兵士としてここに遣わされていると言うことを覚えるためにもなるのです。
 どんな国でも兵士の士気を高めるために勇敢なスローガンや歌が使われています。ところがこのローズンゲンの選ぶ聖句はそのようなものではありません。それはこの2012年の年間聖句についても同じです。ローズンゲンには「イエス・キリストは言われる。「わたしの力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とこの年間聖句の言葉が紹介されています。つまり、このローズンゲンが今年、これを読むキリストの兵士たちに紹介しているのは勇敢な兵士には縁遠い「弱さ」と言う言葉なのです。しかも、この聖句はその「弱さを一生懸命になってあなたは克服しなさい」と言っているのではありません。むしろ、「あなたにとってその弱さこそ大切である」と語っているのです。この年間聖句についてローズンゲンの巻頭に次のような解説が記されています。

(2)体験によって証明されている御言葉

 「この一年間、わたしたちと共にある御言葉は刺激的です。この世に御力は、メディアに出没する権力者や有名人を通してではなく、わたしたちが見逃しやすい弱者、病者、障がい者などを通して現れると言うのです。それは非現実的で、統計的な調査で証明することではありません。にもかかわらず、弱い人間が御名によって驚くべき業を成し遂げたことをわたしたちは知っています。ドイツでは各層の人々の平和の祈りとローソクの灯でもって、東西ヨーロッパ間の壁を崩壊に至らしめたのは忘れられぬ体験です。
 福音を世界中にもたらすその最初にも、弱い、病いを持ち、暗い過去を持った男がありました。使徒パウロは、自らの経験から語ります。彼は、その弱い内面に御力が強く働くのを体験していました。そのパウロと同様に、その後、多くの人々が自分は弱く、無力であると思っていたのに、御力によって思いがけない事を成し遂げる体験をし続けています」。
 ローズンゲンはこの聖書の言葉が真実であることをパウロの体験が、またそれに続く数え切れないキリスト者の体験が証明していると言っているのです。

3.自分の「弱さ」を誇ったパウロ
(1)「弱さ」を「誇る」

 さて今、申しましたようにこの聖書の言葉は使徒パウロの信仰体験に基づく言葉として彼の記したコリントの信徒への手紙二に収録されています。このコリントの信徒への手紙二の構成は少し複雑で、聖書学者の見解によればパウロの記したいくつかの手紙がここに一つにまとめられているのではないかと考えられています。この手紙の編集者はパウロの書いたいくつかの手紙を一つの手紙とするために手を入れることなく、そのままパウロの言葉をここに収録したのです。ですからそのためにこの手紙の論理的展開においては不自然な構成内容になっているとコリントの信徒への手紙二を説明することができるのかもしれません。しかし、そういう意味ではこの手紙にはパウロの生の声が残されていると言ってもいいのかもしれません。
 たとえば今日の言葉を記した箇所には何度も「誇り」という言葉が登場します。たとえば「わたしは誇らずにいられません」(1節)とパウロは言ってみたり、「このような人のことをわたしは誇りましょう」(5節)と言っています。ところが、その上でパウロは「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(5節)と言い出すのです。そして6節では「だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし」とも言っているのです。そして今年の年間聖句である9節の言葉の後半では「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言っているのです。
 おそらくパウロがこのように何度も「誇り」と言う言葉を口に出すのには深い理由があったはずです。人間は互いに自分の優れた部分を相手に示すことで優位に立とうとするところがあります。「誇る」と言う行為の背後には人間のそんな目的が隠されているのかもしれません。おそらく、ここでパウロに反対する人々は自らの信仰体験を語り、「自分にはこんなにすばらしい体験がある。ところがパウロにはそんなものは無いに違いない」と言っていたようです。だからパウロは、この部分の最初にそんな体験よりももっと優れた体験をしている人を自分は知っていると言い出しているのです。「誇る」と言うのなら、もっと素晴らしい体験をしたそんな人を誇るべきではなかと語るのです。その人は「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです」(2節)とか、「彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(4節)からと言うのです。実はこの貴重な体験をしたのはパウロ自身であったであろうと言うのが聖書解釈者たちの定説となっています。つまりパウロは誰も体験することができないような素晴らしい神秘的体験をしていたと言うのです。パウロはですから「私の体験した神秘的体験の記録」と言った題名の書物を書いて、自分を他の人々よりも優位に立たせることができたのです。しかし、パウロは「それを誇るつもりはない」と語り、さらに「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(5節)とまで言っているのです。

(2)キリストの力

 それではどうしてパウロは自分の弱さを誇るとここで言っているのでしょうか。そもそもパウロにはどんな弱さがあったと言うのでしょうか。パウロはこの同じ聖書箇所の7〜8節でそのことについて次のように語っています。
 「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」。

 この言葉からわかるのは彼の弱さは彼の「身」に、つまり彼の体に与えられた一つの「とげ」、障害のようなものであったと推測されます。彼は、この障害がなくなるように熱心に主に祈り願ったと言うのです。ここに書かれている「三度」と言う言葉は祈りの回数を数えているのではありません。聖書では「三」は完全数ですから、「自分は完全に祈り尽くした」と言ったような意味になるのです。
 「これがなければ自分はもっと自由に生きられる」、あるいは「これがなかったら自分の人生の目標をもっと簡単に実現できる」と思えるような障害がパウロの体にあったと考えることができるのです。もちろんパウロの人生の目標はキリストの福音を宣べ伝えることでしたから、その働きに邪魔になるような障害が彼の体にあったと言うことになります。しかし、パウロの「自分のとげを取り除いてください」という祈りに対する主イエスの答えは次のようなものだったと言うのです。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)。

 この言葉からわかるのは、パウロがここで自らの「弱さ」に注目しているのは、そこでこそイエスの力が十分に発揮されるからだと彼が考えていたからです。つまり、ここでパウロが注目しようとしているのは自分の力ではなく、自分を通して働かれるイエス・キリストの力であったと言うことが分かるのです。

(3)弱さを通してキリストの力が働く

 私が小さい頃、よく見たテレビドラマの中にアメリカで作られたスーパーマンと言う番組がありました。スーパーマンは何でもできます。ときには地球の自転でさえその力で変えてしまうことができるのです。私も子供心に「自分もスーパーマンのような力を得たならどんなにすばらしいことか」と思ったことがありました。しかし、このような願いを抱くのは子供だけではないかもしれません。大人でも「自分が思い通りに生きられるような力がほしい」と願うことはよくあるはずです。つまり、誰もがスーパーマンになりたいと言う願いを持って生きているのです。
 しかし、パウロは私たちに「スーパーマンになる必要はない」とここで語っているのです。むしろ、わたしたちがスーパーマンのように完璧ではないことに大きな意味があると彼は言うのです。なぜなら、わたしたちの持っている弱さを通して、イエス・キリストの力が豊かに表されるからです。パウロはこの後で、自分の弱さについて次のように結論づけています。

「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(10節)。

 「弱さ」の後に続く「侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」とは、わたしたちがもっとも自分の弱さを痛感せざるを得ない状況のことであると言えます。こんな状況に出会うと、わたしたちは思わず「どうして、自分はこんなに弱いのだろう、もっと自分が強かったらこんな事で困らなかったはずだ」と考えてしまうのです。しかし、パウロはこんなことになっても「自分はキリストのために満足している」と語ります。なぜなら、彼にとって大切だったのは自分の力が明らかになることではなく、今も生きて働いてくださるキリストの力が人々の前で明らかにされることだったからです。

3.私たちの希望と関心

 この年間聖句に基づいて、今年の教会の年間テーマを「キリストの力が宿る信仰生活」としました。なぜならわたしたちもまたわたしたちの信仰生活を通して今も生きて働いてくださるキリストの力が表されることを望んでいるからです。そしてこのキリストの力を私たちを通して世に示すことが私たちに与えられている使命でもあるからです。わたしたちの教会は開拓伝道を始めてから今年で18年目、そして教会設立を行ってから3年目を迎えようとしています。教会に集う私たちはそれぞれ「弱さ」を持っています。また、私たちの教会にも様々な「弱さ」があります。しかし、イエス・キリストは私たちの「弱さ」を通して働いてくださるのです。私たちはこの言葉が真実であることをこの教会の今までの歩みを通しても知らされてきました。そして私たちはこの新しい一年もこのイエス・キリストの力を体験しながら生きてと願っているのです。

 私たちは自分の抱える「弱さ」のゆえに卑屈になる必要はありません。しかし、その逆に自分の「弱さ」に開き直って、誰からか同情を引き出そうとするのも誤りです。なぜならそこには、キリストの力は働くことができないからです。私たちは現在、礼拝で使徒言行録の学びを続けています。初代教会は決して完璧な人間だけが集まったエリート集団ではなく、様々な弱さを抱える人々の集まりであり、キリストの力がその人たちを通して働かれることを学ぶことができるからです。
 その他の私たちの教会の活動でも私たちは「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」の中でどのようにキリストの力が現れるかに関心を向け、またそこで豊かに現れるキリストのみ業を見逃すことがないようにしたいと願っています。キリストの力が私たちの「弱さ」を通して豊かに現れるように祈り願いたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
「わたしの力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。あなたがパウロに語ってくださった同じ言葉を、あなたは私たちにも語りかけてくださいます。世の人々は権力者や能力者にのみ感心を向けようとします。いえ、私たちもまたそのような人々にいつも目を向けてしまいます。しかし、私たちがそのようなところに目を向けている限り、生きて今も働かれるキリストの力を知ることができません。私たちの関心を私たちの弱さに、また様々な弱さをもつ人々に向けさせてください。そして、それらのものを通して働かれる主の力を知ることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。