1.心を一つにして祈る
(1)解放されたペトロとヨハネ
ユダヤの最高議会において「決して、イエスの名によって話したり、教えたりしないように」(18節)と命じられ、脅しを受けたペトロとヨハネについての話を前々回の礼拝で学びました。今日はその続きを学びます。このような命令と脅しに対してペトロとヨハネは「神に従わないであなたがたに従うようなことができるはずがない」ときっぱりと答えました(19節)。この大胆な答え語った二人に対して、民衆を恐れていたユダヤの宗教的指導者たちは彼らを脅した上で解放せざるを得ませんでした。この彼らの脅しが決して言葉だけではないことはこの後に教会に加えられた迫害と、ステファノをはじめとする殉教者の出現によって理解できます。
「イエスの名によって話したり、教えたりしない」と言うことはキリスト教会に対して一切の伝道活動が禁止されたと言うことになります。生まれたばかりの教会はその第一歩から大きな障害にぶつかってしまったと言うわけです。
そこでペトロとヨハネの二人はこのことが彼ら自身の問題ではなく、キリスト教会全体の問題であることを悟り、釈放されるとすぐに教会の仲間のところに行って、彼らが最高議会でどのような取り調べを受け、またその彼らの指図に対してどのように答えたかを詳細を話しました(23節)。
(2)教会の主人公は神
ここで興味深いことは彼らがそこで集まって、弾圧下での今後の教会活動について話し合ったと言うのではなく、まず神に祈ったと言う点です。
「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」(23節)。
私達は自分の力ではどうにもならないような問題に出会うとき、どうしても神に祈らざるをえないと言うことになります。言葉を換えれば、私達はこのような深刻な問題にぶつからない限り、神に助けを求めることをしない傾向があると言うことになります。この点でカルヴァンは様々な問題を用いて神は私達の心を神に向かわせるようにすると語っています。確かに私達は何も問題のない人生こそが私達にとって一番よい人生だと考えることがあります。しかし、その結果、私達は神に祈ることもせずに、その心は神からどんどんと離れて行ってしまとしたらどうでしょうか。ですから、神はそのような私達をご自身に立ち戻らせるために様々な問題を用いられるとも考えてよいのかもしれません。
ただ、このときの教会の態度は「万策尽きて、どうにもならず。神に祈ることにした」と言うものではなかったのです。彼らはまず心を一つにして神に祈ったと言うところが特徴的なのです。このことについてある説教者は初代教会のメンバーが教会の活動の主人公が神ご自身であり、自分たちはその神の働きを人々に証しするために選ばれた証人たちであることを知っていたと言っています。もし、教会の活動の中心がそこに集められた人間たちであるとしたらどうなるでしょうか。そうなると、教会の主人公は私達人間ですから、神はその活動を助ける脇役のような存在になってしまいます。つまり、神は人間が困ったときだけに登場すればよいと言うことになりかねないのです。初代教会の人々はそのように考えてはいなかったのです。だから、まず心を一つに合わせて神に祈ったと言うのです。ペトロとヨハネ、そして教会全体が遭遇したこの出来事、つまりユダヤの宗教指導者たちの教会の伝道活動に対する妨害は神に対して向けられたものであると彼らは理解したのです。それならば、まず何よりも神と相談しなければなりません。
さらに大切なことは初代教会の人々は神がこの出来事をどのように受け止め、これから何をされようとされるのかに関心を持ったと言う点です。なぜなら、彼らがそこで献げた祈りの内容は、自分たちの願いを語ることに中心がおかれているのではなく、神様の御心を探り、その御心に従うべきことを願っているからです。
2.聖書に耳を傾ける
(1)信仰告白から始まる祈り
「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」(24節)。
そこで彼らの祈りの最初には彼らがこの世界とそこに起こるできごとについてどのように理解しているかをまず語ることから始まります。天地万物を創造された、その世界を今も統べ治めておられる方が私達の神です。つまり、この世界に起こる出来事の一切はこの神の支配の下にあり、その出来事のすべてはこの神の御心が実現されるために起こると言うことを彼らは祈りの最初に確認しているのです。
私達の思いを遙かに超えた出来事が私達の人生には起こります。私達の心はそのたびに揺れ動かされ、恐れや不安を感じるのです。しかし、もしそれらの出来事を通しても神の御心が実現しようとしているのなら、私達がなすべきことは何でしょうか。神の御心に信頼しつつ、しかも、その御心が何であるかを神に訪ね求めることではないでしょうか。それらの出来事の本当の意味を私達が自分の知識や知恵を用いてでどんなに考えても理解することはできません。しかし、その答えはすでに聖書の中に豊かに示されているのです。神が私達を通して何をされようとしているかを、聖書の言葉は私達に教えているのです。ですから彼らの祈りの言葉は、次に聖書に示された神の御心に向けられて行きます。
(2)危機的な出来事を通して深められた確信
「あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました」(25節)。
ユダヤ人たちは旧約聖書の詩編のすべてがダビデによって書かれたものだと考えていました。神が聖霊の働きを通してダビデに書かせたものが詩編の言葉だと信じたのです。そして初代教会の人々は自分たちが遭遇した問題についての神の答えを、詩編の言葉の中に発見したのです。
『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、/諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して、/主とそのメシアに逆らう』(25〜26節)。
私達の持っている新共同訳の旧約聖書の詩編2編の2節には次のように記されています。
「なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」。
初代教会の人々の祈りの中に登場する「メシア」と言う言葉の本来の意味は「油注がれた者」と言う意味です。古代イスラエルでは神より特別の使命を委ねられた者がその職務に任命されるとき、その頭に油が注がれる儀式がありました。たとえばそれは王であったり、預言者であったり、祭司であったりするわけですが、その使命に選ばれた者たちを「油注がれた者」と呼んだのです。そこでこの2編の言葉は元々、神によって選ばれ油注がれたダビデ王に加えられた様々な妨害と、それにも関わらず彼に与えられた神の約束が語られているとも考えられてきました。
そしてユダヤ人たちはこのダビデに与えられた約束を完全に実現する者が来たるべき「メシア」=救い主であるとも考えていたのです。初代教会の人々はこの約束が救い主イエス・キリストの上に実現したと考えたのです。つまり、世の指導者たちが一致団結してイエス・キリストの教会に逆らおうとしている事実をこの聖書の言葉の成就であると理解したのです。
「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」(27〜28節。
聖書に記されているように神の御心に従ってすべてのことが今、自分たちの目の前で起こっていると彼らは理解しました。ガリラヤの領主ヘロデやローマ帝国の総督ポンティオ・ピラト、さらにはイスラエルの宗教的な指導者たちの働きによってイエス・キリストが十字架につけられたことも、また、今、そのイエス・キリストの教会に加えられている迫害も、それらのことが「実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行った」に過ぎないと言うのです。
ですから彼らは自分たちの上に起こったある意味で危機的な出来事を通して、さらに自分たちの信仰的な確信を深めることができたのです。
3.大胆に御言葉を語ることができるように
(1)自分たちの願い
このような確信を深めることができた初代教会の人々はここではじめて自分たちの願いを祈り始めます。
「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(29〜30節)。
彼らが願い出たことは自分たちが「大胆に御言葉を語ることができるように」と言うものでした。これに付け加えられた後の部分の「聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」と言う祈りは、エルサレム神殿の美しの門の前で生まれつき足の不自由な人の足が癒されたような出来事が再度起こるようにという願いです。私達が先に学んだように、この出来事によってペトロとヨハネは神殿に集まった人々にキリストについての福音を大胆に宣べ伝えることができました。また、その後逮捕された彼らは最高議会の席場でも大胆にイエス・キリストのみ業について証言することができたのです。つまり、これらの願いの目的は「大胆に御言葉を語ることができるように」という願いが具体的に実現する方法であったと言えるのです。
(2)与えられた使命が実現されるために
かつて若くして父ダビデ王の後を継いで王位についたソロモンは神に対してこう祈りました。 「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」(列王記上3章9節)。
ソロモンは自分に委ねられた王としての使命を遂行できる能力を与えてくださいとまず神に祈ったのです。すると神はソロモンにこう答えられました。
「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない」(同3章11〜12節)。
神から与えられた自分の使命を全うしようとだけ願い求めたソロモンに神はその他の富も栄光も約束してくださったと言うのです。私達の祈りはどうでしょうか。神に祝福を求めることは大切なことです。しかし、それらのものを私達は何のために神に求めているのでしょうか。私達が神様から委ねられた使命、それを全うすることができるために神は私達に様々な祝福を与えてくださるのです。そこで大切になってくるのは、私達が自分に与えられた使命を悟り、その使命を遂行するために神に祈っているかどうかだと言えます。
初代教会の人々はその使命をはっきりと自覚し、その使命を遂行できるように神に祈りました。私達の教会にも今、様々な課題が与えられています。しかし、忘れてはならないのは私達は何のためにそれらの課題が実現することを神に願っているのかと言うことです。私達もまた「大胆に御言葉を語り、主イエスの福音を語り伝えるため」にここに集められているのです。私達がその使命を果たすことをまず第一に願うときに、神は私達に与えられている一つ一つの課題を実現してくださることをこの初代教会の人々の祈りの姿を通して学びたいと思います。
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