1.心も思いも一つにする群れ
(1)持ち物の共有
今日の聖書箇所は普段よりも少し長めに選んでいます。使徒言行録を説教した人の説教集を読むと4章の後半部分の内容と、5章の前半に記される出来事を別々に取り扱うものもあります。しかしたとえば、東京恩寵教会の前牧師の榊原先生などもその一人ですが、これを切り離すことなく、一つの話として説明している人もかなりたくさんいるようです。なぜなら、その方がここに書かれた内容を正しく理解できると考えているからです。
既に学びましたように初代教会の人々はその第一歩からユダヤ人の指導者たちが下した「イエスの名によって話したり、教えたりするな」と言う宣教禁止命令に遭遇します。そしてこの5章の後半(17節以下)ではユダヤ人の指導者たちとの対立が続けて語られています。そこで教会に向けられていく外部からの様々な迫害を前にして教会は一致して立ち向かう必要がありました。ですから使徒言行録は今日取り上げている部分で教会の内部がどのようにして一致して行ったのか、その内部事情について語ろうとしているのです。まず、その当時の教会の状況について使徒言行録は次のように報告しています。
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」(32〜33節)。
初代教会の人々は信仰によって「心と思いが一つにされていた」と聖書は語っています。そしてその彼らの思いが具体的に形として表れたものが「持ち物の共有」と言うことだったと言うのです。この出来事についてどの聖書解説者も注意深く説明をしています。なぜなら、この聖書の箇所が人々に大きな誤解を与えることがあったからです。まず聖書がここで強調しているのは当時の信仰者たちが「心と思いを一つにしていた」と言う点です。その思いの結果、人々は自らの持ち物を単に自分のためだけに使うのではなく、今、それを必要としている人に分け与えることができたと言っているのです。つまり、ここで行われている持ち物の共有は何かの決まりがあって、誰も「それに従わないといけない」と言うような強制的なものではなく、すべて信仰者の自発的行為によって行われていたのです。ですから、この部分を誤解している人は初代教会の当時には持ち物を共有する制度があったが、その制度はそのあと廃止されたと説明するのです。しかし、この信仰者の自発的な共有の行為は教会において廃止されたことはありませんでした。私たちの行う献金はまさに自ら所有しているものの一部を今、必要としている人や活動に献げるものですから、この初代教会の人々が行っていた行為と全く同じことを意味しているのです。そして聖書はこの献金は私たちの心と思いが一つにされるときに表されるものであり、もしそうでなければ本当の意味を表さないと教えているのです。
(2)必要を満たすために献げられたもの
「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」(34〜35節)。
「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と言う言葉は決して「皆、金持ちだった」と言っているわけではありません。それは美しの門の前で物乞いをしていた足の不自由な人にペトロとヨハネが語った言葉、「わたしには金や銀はない…」(3章6節)からもわかります。彼らは通常は人に分け与えることのできる余分な金銭を持っていなかったのです。この言葉は「貧しさの故に一人で困り込む者がいなかった」と言うような意味を表しています。そしてその理由を使徒言行録は財産のある者が自発的にその持ち物を売って金銭に換え、それを教会に献げたためであると説明するのです。そして教会はその献げられた金銭を、必要としている人に分配したと言うのです。
教会は営利団体ではありませんから、教会自体が金銭を作り出すことはできません。神はその事業に必要な金銭をそこに集う人々を通して与えてくださるのです。そして教会に集う人々はその必要に応じて献金を献げるのです。その上で教会はその集められた献金を必要としている人に与えたり、また必要としている事業に支出するのです。
初代教会の群れ、特にエルサレム教会の人々が決して裕福ではなかったことは、この使徒言行録の後半に登場するパウロの伝道旅行の報告を読んでも明らかです。海外宣教に従事したパウロの勤めはキリストの福音を宣べ伝えるだけではなく、貧しいエルサレム教会の人々のために各地で献金を集めるためでもあったからです。
2.聖霊を欺いたアナニア
(1)バルナバの表した信仰的な行為
ところでこのパウロととても関係の深い人物の名前が聖書のこの箇所で登場しています。それはバルナバと呼ばれる人物です。
「たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」(36〜37節)。
このバルナバはかつて教会を迫害する側にいたパウロを教会の仲間に紹介した人物であり、パウロの宣教旅行の初期の協力者でした。この記事によれば「バルナバ=慰めの子」と言う名前は教会の人々が彼につけたあだ名であって、本名はヨセフと言う人物であったことがわかります。ヨセフと言う名前は当時の人々としてとてもありふれた名前だったので彼は「キプロス島生まれのヨセフ」と呼ばれていたのでしょう。たぶん彼は教会に集う多くの人にキリストを紹介することで「慰める」ことができたからでしょうか、彼は人々から「バルナバ」と呼ばれるようになったのです。
バルナバは教会の必要を満たすために自発的に自分の持っていた畑を売り、その代金を教会に献げたのです。もしかしたらこのバルナバの行為は希に見る特筆すべきものであったからこそ、使徒言行録はここにわざわざ取り上げたのかもしれません。ですからバルナバのこの行為に多くの人の注目が集ったはずです。しかし、聖書はこのバルナバの行為に特別な賞賛の言葉を付け足すことはしていません。なぜなら、それはバルナバの信仰から生み出された行為であり、神のみ業の結果、実現したものだからです。そしてもちろん、バルナバも人の賞賛を求めて財産を献げたのではわけではないのです。
(2)計画的な犯罪
ところがこのバルナバの行為に別の意味で目をとめ、関心を持った人物が次に登場します。それがアナニアとサフィラと言う一組の夫婦です。この二人はバルナバと同じように自分たちの土地を売り、その代金を教会に献げようとしたと言うのです。この点では彼らはバルナバと同じ行為をしようとしていますから、むしろ彼らがバルナバに影響されていたと推測すうことができます。しかし、彼らがバルナバと違う点は、この行為を信仰から、つまり神に対する熱心な思いからしたのではなく、ある意味で人々の賞賛を受けるためにしようとした点にあります。カルヴァンはこの使徒言行録の解説の中でこの夫婦の行為を何度も「偽善」と言う言葉で表現しています。
聖書を読むと、この夫婦の行為は最初から「相談して…、承知の上でごまかした」と記されています。つまり彼らは前言を翻して、「後になって惜しくなったから、献金の額を減らした」と言うのではなかったのです。これは最初から計画的に行われた行為でした。もし、彼らが信仰的な動機でこれを行ったとしたら、「土地を売った代金の一部を教会に献げます」と教会に言えばよかったのです。しかし、それを彼らが言わなかったのは外面上はバルナバと同じことをして、あわよくばバルナバが人々から受けた賞賛を自分たちも受けたいと願ったのです。
(3)神を欺いたアナニア
なぜこの二人の計画をペトロが知っていたのか、聖書はその説明をしていません。しかし、ペトロはアナニアに向かって次のように語っています。
「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(3〜4節)。
この言葉からも当時の教会が持ち物を共有していたと言う事情は決して何かの決まりによって強制的に行われていた行為ではなく、全く自由な自発的な行為であったことがわかります。ですからアナニアは自分の財産を自由に取り扱うことができたのです。しかし、彼が誤ってしまったのは、その財産を教会や貧しい人々のために使うのではなく、神を欺くために使ったという点です。だからここではその罪が厳しく追及されているのです。
それではどうしてこのアナニアの行為は「神を欺く」ものだったと言えるのでしょうか。なぜなら、もしアナニアが心から神を思い、「神は何でもご存じである」と信じていたのなら、こんなことはできなかったからです。彼が金銭をごまかすことができると考えたのは、神をそのような方として信じていなかったからです。また、彼が教会を単なる人間の集りと考えていたならば、その人の目など簡単にだませると考えたのは当然のことではないでしょうか。つまり、彼は教会が神のものであり、神の御手によって支配されていることを信じていのです。その点で彼はまさに全能の神を侮っており、その教会も侮っていたのです。だからこそ彼は神を欺くと言う大胆な計画をここで立てることができたのです。
3.神への恐れによって強められた教会
(1)霊的な死をもたらす罪
「この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた」(5節)。このお話の結末は大変にショッキングなものです。そしてこの後、三時間後に何も知らないでやってきたアナニアの妻サフィラも同じように神を欺くことで「彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた」(10節)と語られています。神を欺いた二人にすぐに死が訪れたと言うのです。ここでは大変厳しい神の裁きが下ったとも考えることができます。
それでは私たちはこの出来事から何を学ぶ必要があるのでしょうか。安心していいというとおかしいのかもしれませんが、この後、教会でこのアナニアとサフィラの夫婦のようにその罪の故にその場で神に裁かれ、すぐに死に襲われたと言う人はいないようです。また教会の歴史の中でも、この出来事はたいへんに珍しいことだと言ってもよいのです。その点でこの出来事は新約聖書を私たちに書き残すために神が行った特別な奇跡的出来事であったと言うことができるのかもしれません。
しかし、同じような出来事が今、私たちの周りに起こらないとしても、この出来事は私たちに大切なことを教えるために神が起こされたと言うことを忘れてはいけません。つまり、私たち人間は決して神を欺くことはできないと言うこと、そして「神を欺く」と言う罪は私たちにとっても死に値するものであると言うことを学ぶことができるのです。なぜなら、「神を欺く」と言う行為は決して真の信仰からは生まれてはこないからです。真の信仰がなければ誰も永遠の命を神から受け継ぐことはできません。つまりそれは私たちにとって「霊的な死」を意味するのです。
(2)新たにされた神への信頼
この出来事を体験した人々に共通して起こったのは「恐れ」(5節、11節)であったと聖書は語っています。そしてこれはとても大切なことだと思います。この出来事を経験した当時の人々が抱いた「恐れ」とは人に対する「恐れ」ではなく、神に対する恐れです。イエスはこの神に対する恐れについてこのような貴重な言葉を残しています。
「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」(ルカによる福音書12章4〜5節)。
神に対しての正しい恐れを知り、その恐れを抱く者は、それ以外のものに対する恐れから自由にされるとイエスは語っているのです。ですからユダヤ人の指導者たちの脅しの前で、教会が学ぶ必要があったのはこの神に対する恐れでした。イエスはこの神に対する正しい恐れを語ったあとで、次のような言葉を続けて残されています。
「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(6〜7節)。
神を欺くことは誰にもできません。私たちは神の御前で何も隠すことができないのです。しかし、だからこそ私たちはこの神を信頼することができるのではないでしょうか。エルサレム教会の人々の一致とこの神に対する信頼から生み出されたものであり、彼らの行った持ち物の共有はこの神への信仰を示すものだったのです。
誰も生活に余裕があるから教会に献金をしているのではありません。「それを献げてしまったら、これからの自分の生活はどうなるのだろうか」。そんな不安を誰もが抱かざるをえない現実が私たちの信仰生活には存在するのです。この点では初代教会の人々も同じであったはずです。そしてそのときに、彼らが明確にしたのは、自分の明日を支えてくださるのは神であると言うことです。この神は私たちのことをすべて知っていてくださり、必ず私たちにふさわしい助けを与えてくださるのです。また彼らはその自分たちの命を守るために自分の命をも惜しまずに献げてくださったイエスを知っていました。ですから教会がそのイエスのみ言葉を大胆に語ることができるようにと考え、自発的な献金をし、その活動を支えたのです。この物語は確かに初代教会の人々の信仰を理解するために重要な箇所だと言えるのです。
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