聖書箇所:使徒言行録5章12〜16節(新P.221) 12 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、 13 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。 14 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。 15 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。 16 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。
1.祈りへの答え (1)弾圧のきっかけ 今日の箇所ではエルサレムにおけるキリスト教会の活動の姿が短く紹介されています。実はこの文章は次に記されるエルサレムの宗教指導者たちのキリスト教会に対する迫害の出来事とつながっています。ペトロとヨハネに「イエスの名で今後一切教えても、話してもいけない」と命じたエルサレムの宗教指導者たちでした。しかしキリスト教会はその命令に反して、イエス・キリストの福音をこの後も大胆に宣べ伝えます。やがて彼らの影響力がエルサレムの民衆の中でも広がり、教会の勢力もますます拡大していくことなりました。そこでエルサレムの宗教的指導者たちのキリスト教会に対する迫害が再び始まります。今日の箇所の教会の姿がエルサレムの宗教的指導者たちの心にねたみの思いを抱かせるたのです(17節)。 もし使徒たちが教会に外部からの迫害の手が伸びることを恐れて、伝道をしなかったなら、エルサレムの宗教的指導者たちも黙って見過ごしていたかもしれません。しかし、教会の使命は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け(なさい)」(マタイ28章19節)と言うイエスの大宣教命令に答えることです。そしてこの使徒言行録の記事を見ても分かるように、教会がこの主イエスの命令に従って宣教活動に励めば励むほど、それを拒む勢力の力が立ちはだかり、新たな問題が起ります。しかし、教会はその迫害の中でも神の豊かなみ業が働かれていることを体験していくのです。教会が主イエスの大宣教命令に忠実に答えるときに、神もまたそこに働き、私達に豊かな祝福を与えてくださることをこの初代教会の人々の姿から学ぶことができるのです。 (2)大胆にみ言葉を語るために ところで今日の箇所の出来事は突然に思いもかけずに起ったものではなかったようです。なぜなら以前、ペトロとヨハネがエルサレムの宗教指導者に捕らえられ、議会で自らの信仰を弁明することになった後、釈放された彼らを迎えたキリスト教会の仲間たちは神にすぐに祈りを献げたからです(4章23〜31節)。そしてそのときの彼らの祈りの中に登場する言葉にこのようなものがありました。 「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(29〜30節)。 実はここに描かれている教会の姿は、このとき教会の人々が献げた祈りの言葉がその通り、ここで実現していると考えることができるのです。つまり、この出来事は彼らの祈りに対する神の答えてあったと言うことができるのです 2.恐れと畏れ (1)神を信じる人々 教会の祈りに答えられる形で、神は使徒たちに働き、その結果使徒たちは多くのしるしと不思議な業を民衆の間で行うことができました。またその一方で教会の人々は「ソロモンの回廊に集まりました」。これは以前にもお話したと思いますが、新しいメンバーがたくさん加わった教会の人々が一同に会して集まる場所が必要になりました。そしてそれに一番相応しかったのがエルサレム神殿のソロモンの回廊と言う場所だったようです。教会のメンバーは毎日そこに集まり祈りを献げ、キリストの福音をそこに集まる人々に証しし続けたのです。キリスト教信仰の特徴は神に救われた者が共に集まり、礼拝を捧げると言うところにあります。この集会こそが個人の信仰成長の秘訣ともなり、また伝道活動の大きな手段となっているのです。 ところでここで聖書には少し不思議な叙述が語られています。 「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」(13〜14節)。 この言葉の前半部分では誰も教会の仲間に、つまりイエスを信じて教会のメンバーになろうとはしなかったと言うことを語っています。ところがそのすぐ後ではたくさんの男女が主を信じ、教会のメンバーが増えていったと言っているのです。とても矛盾した言葉です。それではいったいこの記述は私達に何を教えているのでしょうか。 (2)福音によって新たにされる関係 「神様のような方がおられることは分かる」と言う人が私達の周りにもたくさんいます。それでも積極的に教会に来て、聖書を読んだり、求道生活をしたいと願う人はごくわずかでしかありません。このとき使徒たちの手によって、多くのしるしや不思議な業が行われました。たぶん、それを目撃した人々はその背後に人間の力ではない、何らかの存在があることに気づいたはずです。おそらく、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた」(13節)と言う言葉はこのような人々の姿を語っているのかもしれません。神の存在は信じても、積極的に信仰について考えることのできない人々です。 神の存在を信じたとしても、その神と私達はどのような関係があるのか、それが分からなければ私達はその本当に意味で神を信じることはできません。なぜならば「神を信じる」とは「神と共に生きる」と言う言葉でも置き換えられる私達の意志が伴う主体的な行為だからです。そして神と共に生きると言う決心ができる人は教会の仲間に加わりたいと願います。しかし、それができない人は、神と自分との関係が理解できない者であり、使徒たちを賞賛するが、その仲間には入らない人たちであると言えるのです。 むかし、椎名臨三と言うクリスチャン作家の書いた「私の聖書物語」と言う本を読んだことがあります。その中でお見合いをする人が相手と履歴書を交換することを例に出してこう彼が言っていたことを思い出します。お見合いの前に渡される相手の履歴書にはその人についての様々なデーターが記されています。しかし、履歴書を読んだだけではその相手に関心を持ったとしても、決して愛情を抱くことはないと言うのです。そして彼は、相手に対して愛情を抱くことができるのは、実際に相手と会ってみて、いろいろと一緒に話し合ったり、お互いに向き合ったりすることによって生まれてくると言っているのです。 そういう意味ではこの言葉の前半に登場する人々は履歴書を読んで終わりと言うような人であったのかもしれません。自分と神との関係を理解できない人がまず最初に記されているのです。 3.奇跡と福音 (1)福音を証しするための手段としての奇跡 それではそのような人々がたくさんいたにも関わらず、さらに「そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」と聖書は言っているのでしょうか。彼らが信仰の仲間に入ったることができたのはどうしてなのでしょうか。それは彼らが神と自分との関係を理解することができたからです。彼らは単なる漠然とした神の存在を信じたのではなく、自分と神との関係を理解し、それを受入れることできたのです。それではそのような変化が起ったと言えるのです。 その一番の原因はその人々の上に聖霊なる神が働いたことです。彼らの心に聖霊なる神が働くことによって、彼らは自分と神との関係を知り、その神と共に生きる決心をすることができたのです。それではその聖霊が働くきっかけになったこととはどう言うことでしょうか。もっとも大切なことは彼らが使徒たちを通してキリストの福音を聞いたからではないでしょうか。なぜなら、キリストの福音こそが私達と神との関係を明らかにするものだからです。神がおられると言うことを漠然と信じても、その神が私達にどのように接してくださるか理解することはできません。そうなると私達はただその神の不思議な力の前に恐怖心を抱くだけになってしまいます。不思議な出来事を目撃しただけではアナニアとサフィラの上に起った出来事が自分たちの上にも起るのではないかと言う恐れが生じるだけなのです。 しかし、福音はその神が私達一人一人に関心を持ち、キリストを私達に送ってくださるほどに私達を愛してくださっていることを明らかに示します。天地万物を造り、それを治めておさめておられる方が、私を愛し、私のためにひとり子イエスを遣わしてくださったことが分かるのです。そしてこの真理が福音によって明らかにされたからこそ、私達はその神を信頼し、愛し、また共に生きる決心ができるのです。 「そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」。ここに語られている人々は、使徒たちの手を通して行われたしるしや不思議な業だけではなく、使徒たちによって語られたキリストの福音を耳にすることができた人々だと言えるのです。 (2)奇跡の業が意味するもの この聖書の箇所を読むとき私達は初代教会の成長の鍵がどこにあるのかを学びたいと多くの人は考えるはずです。そのような観点から言えば、初代教会の人々がイエスの語られた宣教命令に忠実に生きようとたこと、また、彼らはいつも一つに集まって「み言葉を大胆に語れるように」と祈ったこと、そして人々に実際にキリストの福音を語り伝えたことなどを学ぶことができると思います。 ただ、私達がこの記事の中で使徒たちと同じようにできないところがあります。それは「しるしや不思議なわざ」、「病人を癒すこと」と言ったある意味で超自然的な行為は私達にはまねができないのではないでしょうか。もちろんこれらのことも、私達ができる「社会事業」とか「福祉」と言うことに置き換えて考えることも可能でしょう。 しかし、私は「こんなことは私達にはできない」と言うところこそ意味があると思うのです。つまり、これらのみ業が人間にはコントロールできない神のみ業であったと言うところに意味があると思えるのです。「しるしや不思議なわざ」は人間が自由に自分の意志で使えるものではありません。もし、そうなってしまったら、それは単なる「魔術」のようなものになってしまいます。しかし、教会は「魔術」によってではなく、神の行う「しるしと不思議なみわざ」によって成長して言ったのです。 昔、何人かの牧師の集まりで、一人の若い牧師が「どうしたら教会にたくさんの人が来るようになるのでしょうか」と質問したことがあります。そのとき、私が信徒の時代に信仰生活を送った教会の牧師がこう答えたことを忘れることがありません。「伝道と言うのは不思議なことに、一所懸命にいろいろなことをしても教会員はちっとも増えることがないときがある。それなのに、その逆に「どうしてかな」と思うくらい、人が教会に集まってくるときもある」。そんな答えが返ってきたのです。この答えの意味することは、私達は何をしてもだめだと言っているのではないのです。むしろその牧師は伝道は神の業だと言うことを自分の経験を通しても知ったと言っているのです。初代教会の人々はこの点に対して、明確な確信を持っていたのだと思います。教会を成長させるのは人間の行う魔術ではなく、神のみ業ですを献げました。その上で自分たちに委ねられた神を福音を人々に大胆に宣べ伝えたのです。 私達はこの使徒言行録の箇所から、初代教会の人々が持っていた確信を知ることができます。神のみ業を私達がコントロールすることは不可能です。むしろ、私達が神のみ業の手段として用いたいただこうと考え、行動するとき、神は私達の教会を通して豊かに働いてくださることを覚えたいと思います。
【祈祷】 天の父なる神様 教会に加えられた外部からの迫害の手にも屈せず、内部で起ったアナニアとサフィラの事件を通しても臆することなく主の与えてくださった使命に生きた初代教会の人々の姿から学びました。主はその使命に生きようとし、祈り、また福音を大胆に宣べ伝える信仰者の群を通してそのみ業を表わしてくださりいます。どうか私達にも聖霊を遣わして、初代教会の人々と同じように主のために生きることができるように助けてください。私達が教会に与えられている様々な課題に誠実に取り組むことで、私達があなたのみ業を豊かに経験できるようにしてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。