礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年2月26日  「命の言葉を残らず伝えよ」

聖書箇所:使徒言行録5章17〜32節(新P.222)
17 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、
18 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。
19 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、
20 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。
21 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。
22 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。23 「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」24 この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。
25 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。
26 そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。
27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。
28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

1.使徒たちの逮捕

 先日の礼拝で学びましたようにエルサレムに集うイエスの弟子たちの群には新たにたくさんのメンバーが加わりました。またそのメンバーには加わることのなかった一般の民衆からも弟子たちは好意を持たれるようになっていたことも学びました。このようにエルサレムにおけるキリスト教会の影響力が大きくなっていったのです。しかし、教会の勢力が増大すればするほど、エルサレムを支配する既成の宗教家たちのグループはそれを快く思うことはできません。今日の聖書の箇所は彼らのその反応から始まっています。

「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて…」(17節)。

 ここでは彼らが 「ねたみに燃えた」と言われています。聖書はここから始まるエルサレムの宗教指導者たちのキリスト教会に対する迫害の動機が彼らの「ねたみ」から出たことを記しています。つまり、この迫害はキリスト教会側が違法なことをしたからではなく、キリスト教会の発展を快く思わない人々の「ねたみ」によって起こされたことが説明されているのです。
 かつて、同じようにペトロとヨハネがこのエルサレムの宗教指導者たちによって逮捕された記事を学びました。このときも彼らを逮捕したのは「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々」(4章1節)であったと記されています。そしてここでも「ねたみに燃えた」のは「大祭司とその仲間のサドカイ派の人々」(17節)と言われているのです。この後、使徒たちはエルサレムの宗教議会に引き出されることになりますが、そこで集まった人の中には「律法の教師」と言う人々が登場します。そこではガマリエルと言う律法の教師も登場しています。このガマリエルをはじめとする「律法の教師」と呼ばれる一群はサドカイ派ではなく、ファリサイ派と呼ばれるグループに属する者たちでした。福音書の中でイエスと律法の解釈についての論争をよくしているのがこのファリサイ派の人々です。
 それに対して、ここでキリスト教会の活動に「ねたみを燃やした」人々が祭司やサドカイ派の人々であったと言うことは興味深いことです。どうして、彼らサドカイ派の人々は使徒たちの働きに「ねたみを燃やす」ことになったのでしょうか。このサドカイ派と言う人々は神殿の儀式を司る祭司たちによって構成されていました。ですから、紀元70年頃に起ったローマ軍によるエルサレム神殿の破壊の出来事以後はこのグループの存在は歴史上から消えてしまいます。つまり、彼らの存在はエルサレム神殿の存在、特にそこで献げられている宗教儀式と結びついていて、それがなくなっしまえば、このグループも消滅せざるを得なかったのです。
 彼らがキリスト教会の教えに対して「ねたみを燃やす」ことになったのはそのあたりに理由があったのかもしれません。なぜなら、キリスト教会では旧約聖書の時代、長い間神殿で献げたれてきた儀式はキリストを指し示す「予型」であると考えたからです。特に彼らが神殿で献げていた動物犠牲の儀式は、キリストの十字架による贖いを指し示すものと考えることができます。つまり罪の赦しを得るために旧約聖書の信仰者たちが献げて来た動物犠牲の血は、それ自身が効力罪の赦しに効力があるのではありません。そうではなく、その動物犠牲が示しているキリストの十字架の犠牲こそが、すべての人の罪を赦すことのできる力を持っているのです。ですから、旧約の時代、神殿で自分の罪が赦されるために動物犠牲を献げた人々は、その動物犠牲の行為を通して、その本体であるイエス・キリストの贖いの救いについての信仰を言い表していたと考えることができるのです。
 ですから、これらのエルサレム神殿で献げられていた犠牲はその本体であるイエス・キリストが出現し、その命を十字架で献げらたことによってもはや意味がなくなってしまったのです。今や、すべての人々はエルサレム神殿で動物犠牲を献げる必要はなくなりました。なぜなら、十字架でその命を献げられたイエスを信じることによってすべての人の罪は赦されるからです。
 サドカイ派の人々は紀元70年のエルサレム神殿の破壊の出来事を待たずして、このキリストの福音によってもはやその存在理由を失っていたと考えることができるのです。だからこそ、特にこのサドカイ派の人々は教会の人々をねたみ、またその活動を徹底的に弾圧しようとしたのではないでしょうか。ところが彼らがねたみの心からキリスト教会を迫害する決心をつけとしても、彼らもまたエルサレムの宗教議会の決定なしにはその計画を実行することは何一つできなかったのです。ですから彼らは使徒たちに議会の裁きを受けさせるために一時的に彼らを牢に閉じ込めたのです。

2.天使による解放
(1)天使に助けられた使徒たち

 しかしここで聖書は不思議な出来事が彼らの上に起ったことを告げています。

 「ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った」」(19〜20節)。

 牢に閉じ込められていた使徒たちを主の天使たちが助け出したと言うのです。この後で牢に遣わされた下役たちが「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした」(23節)と報告している言葉が記されています。つまり、使徒たちはしっかり鍵のかけられた牢の中から、しかも戸の前に立つ番兵たちに気づかれないで外に出ることができたのです。使徒たちは天使たちの超自然的な働きかけによって牢の中から解放されたのです。そして彼らは天使たちの「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言う言葉に従い、夜明け頃に神殿の境内に入り、神のみ言葉をそこに集まる人々に語りだしたのです。そのために、彼らは再びそこに遣わされた神殿の守衛長や下役たちによって捕らえられ、議会に連れて行かれることになります。せっかく牢屋から解放された使徒たちは再び囚われの身に逆戻りにしてしまいます。神殿でそんなことをすればすぐにまた捕まってしまうと言うことは彼らにも分かったはずです。それなのにどうして天使たちは使徒たちは使徒たちを牢から助け出し、彼らにそのような命令を下したのでしょうか。

(1)明らかにされた神の思い

 それは天使たちが使徒たちに告げた「命の言葉を残らず告げる」と言う言葉が神がキリスト教会に求めておられることだと言うことをすべてに人々に明らかにするためです。教会は自分たちの勢力が拡大し、力をつけるために熱心に伝道したのではありません。そうではなく、彼らは「命の言葉を残らず告げなさい」という神の命令に忠実に答えるために行動したのです。確かにこの命令に従うなら、「イエスの名によって話したり、教えたりしてはならない」(4章18節)と厳しく彼らに命じた宗教議会の人々の意に反することになり、彼らから迫害を受けることなると言う予想が彼らにもついたはずです。しかし、彼らそれでも福音を人々に伝えることをやめませんでした。だからこの後、ペトロは「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」とはっきりと自分たちの行動の動機を語っているのです。

 教会は自らの利益を求めて活動したのではなく、「命の言葉を残らず告げなさい」と言う神の命令に従って行動していたことがことがここからも分かるのです。そして教会がその神の与えてくださった使命に忠実なとき、神ご自身がその教会の働きを導いてくださることをこの天使たちの出現の出来事は私たちに教えているのです。

3.再逮捕と尋問
(1)使徒たちの弁明

 さて、天使たちの言葉に従って神殿で教え始めた使徒たちは、すぐに彼らが牢屋から脱出し、神殿にいることを知った祭司やその手下たちによって捕らえられてしまいます。そして彼らは「最高法院」つまりユダヤの宗教議会に出廷させられ、そこで尋問を受けることになります。

 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」(28節)。

 エルサレムの宗教指導者たちが問題としている点は、まず使徒たちが先に彼らに下された宗教議会の「イエスの名によって話したり、教えたりしてはならない」と言う命令を無視して行動したことです。そして、さらには彼らが問題にしたのはイエスが十字架につけられたのは宗教議会の人々の計略によるものであり、その責任は彼らにあると使徒たちと教えていることだと言うのです。
 この二つの点についてペトロと他の使徒たちは次のように弁明しています。第一に彼らがどうして宗教議会の命令に背いたかについては、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(29節)と答えています。これは以前、宗教議会がこの命令をペトロとヨハネに下したときも同じように「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」(4章20節)と彼らは発言しています。ですから彼らはここで改めて、「自分たちは神に従っている」、つまり神に背くような宗教議会の命令に従うことはできないと断言しているのです。
 次にイエスを殺したのは誰かと言う点に関しては使徒たちはこう語ります。

 「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました」(30節)。

 つまり、ここで「あなたがたが木につけて殺したイエス」と言っていますから、その血を流した責任は確かに宗教議会に属する人々にあると彼らは言っているのです。

(2)悔い改める者に与えられる神の赦し

 ただ、使徒たちの言葉は単にイエスの血を流した責任が誰にあったのかと言うことにとどまっているのではありません。

 「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」(31節)。

 使徒たちはここでイエスが十字架につけられ殺され、三日家に甦り、天に昇られることになったその一連の出来事はすべて神が計画されたことなのだと説明しているのです。確かにイエスを十字架につけ殺したのは宗教議会の人々の責任です。しかし、神はその人々の悪巧みや、過ちをのすべてを用いて救いの計画を実現してくださったと使徒たちは言うのです。この使徒たちの発言はですから、宗教議会の人々の罪を暴き出すために語られているのではなく、イエスによって実現した神の計画を明らかにすることに目的が置かれています。しかも、彼らはその計画は「イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために」あると言っているのです。
 宗教議会の人々は使徒たちが自分たちの罪を暴き出そうとしていることに危機感を覚え、使徒たちの口を閉じさせようと必死になっていました。しかし、使徒たちが彼らの罪を明らかにしたのは彼らをただ懲らしめるためではなく、彼らにも悔い改めて、罪の赦しを得ることができる救いの道を示すためだったのです。
 聖書の言葉は人間の罪に対してたいへん厳し告発します。しかし、なぜ聖書がそのような言葉を私たちに向かって語るのかと言えば、私たちも同じように悔い改めて、罪の赦しを受けるようになるためのなのです。なぜなら、イエスはその私たちの犯している深刻な罪のために十字架にかかり命を献げられたからです。ですから、この聖書の罪の告発の言葉に対して、「私は関係ありません」と言うなら、その人は罪の赦しを拒むことになってしまうのです。むしろ、聖書の厳しい罪の告白に対して、「確かにそれは私です」、「その罪の責任を負っているのは私自身です」と言える者が、イエス・キリストを通して提供されている罪の赦しを受けることができるのです。私たちはこの使徒の言葉を通しても、自らの罪を認めることなしには、キリストの福音の恵みをいただくことができないことをもう一度、ここで覚えたのです。

4.第二の証人である聖霊

 今日の最後に使徒たちは次のように語っています。

「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」(31節)。

 神の福音を証言する証人は二人いると彼らは言っています。第一に私たち自身がその証人です。そして第二に「神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊」がその証人だと言うのです。それではこの二人の証人の関係はいったいどのようなものなのでしょうか。
 まず最初に、私たちは神の「命の言葉を残らず伝えなさい」と言う命令に従い、神の福音を大胆に語り伝えることによって自分たちに与えられた証人として使命を全うすることができます。しかし、そこで伝えられた命の言葉、神の福音が本当の意味で生かされ、人々の心に伝わることができるのは第二の証人である聖霊の力によるものなのです。ですから、私たちの証しは、この聖霊の証しによって本当に生きたものとなると言えるのです。
 教会学校の教師会で「小さな子供たちに福音を伝える働きにどんな意味があるのか」と言う話題がでました。確かに小さな子供たちが福音を聞いて、すぐにキリストへの信仰を告白して、教会の有力なメンバーとなることは期待できません。しかし、教会学校の教師たちは今、子供たちに蒔かれた福音の種がやがて聖霊の働きによって花が開くことを信じて、その奉仕を続けているのです。
 私が以前働いていた教会にやってきていた一人の老婦人は子供の時に厳しい家庭に育ち、両親からは叱れこそすれ、ほめられたことが一度もなかったと言います。その彼女が幼いときに教会学校に行き、教会学校の先生が自分をほめれてくれたと言う体験をしました。彼女はやがて大人になったとき、その忘れらない子供の時の体験に導かれ、キリスト教会に戻り、信仰に入ったと言うのです。
 聖霊は私たちが証人として神のみ言葉を伝える使命に生きるとき、必ずその働きを用いて人々の心をキリストへと導かれる第二の証人です。私たちはこの第二の証人である聖霊の働きを信頼して、私たちに与えられている福音の証人としての使命を全うしたいと思うのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 牢に捕らえられた使徒たちを救い出した天使たちは「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と語りました。そして使徒たちはこの言葉に従い、自分たちに与えられた使命を忠実に果たそうとしました。私たちにも同じ使命が与えられていることを覚えます。どうか私たちにも勇気と力を与えてくださり、この使命を果たすことができるようにしてください。ないよりも私たちが蒔く福音の種を用いて、第二の証人である聖霊ご自身が人々をキリストへと導いてくださることを信頼して、与えられた勤めに気落ちすることなく励むことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。