礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年3月4日  「使徒たちの喜び」

聖書箇所:使徒言行録5章33〜42節(新P.222)
33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

1.サドカイ派とファリサイ派の対立
(1)利権のために妥協するサドカイ派

 前回もエルサレムの宗教指導者たちによって逮捕された使徒たちが最高法院の法廷に立たされ大祭司たちからの尋問を受けることになったことを学びました。今日の箇所もその法廷での出来事が続いています。ただ、今日の部分ではいくらかその法廷の雰囲気が変ります。それはファリサイ派に属する律法の教師だったガマリエルと言う人物の発言によって起こっています
 使徒たちの法廷での証言によれば、彼らは自分たちが最高法院の宣教禁止命令に従うことは、神の御心に反して、人の命令に従うことになるのだからそれは決してできないと拒否しています。その上で、イエスを十字架につけた責任は彼らエルサレムの宗教指導者たちにあると断言しているのです。そこでこの使徒たちの証言を聞いた人々の反応が次に紹介されています。

「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」(33節)。

 妬みに燃えて使徒たちを逮捕させた人々はここで改めて使徒たちの証言を耳にし、激しい怒りを襲われ、使徒たちを殺そうと考えたと言うのです。彼らは冷静に対処することもできないほどに感情的になり、その憎しみによって使徒たちの殺害を考えます。ところが、このようは反応を最高法院に出席した人々すべてがしていたかと言えば、そうではなかったことがこの後に登場するガマリエルの指示と発言から理解できます。

 「ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ(た)」(34節)。

 このときガマリエルと言う人物が使徒たちを議場の外に出すように命じています。これは人々が怒りを抱いている張本人を前にしては冷静な話し合いができないと考えたからでしょう。つまりガマリエルは最高法院のメンバーがこの件についてもっと冷静になって判断を下す必要があることを考え、このような指示を行ったのです。
 このガマリエルはファリサイ派に属する律法の教師で、後にキリスト教会の中心的指導者になったパウロはファリサイ派に以前属していたときには、このガマリエルの門下生であったと聖書は紹介しています(使徒言行録22章3節)。ガマリエルは「民衆全体から尊敬されている律法の教師」とここにも説明されていますが、ファリサイ派の穏健派に属する優秀な律法学者であったと言われています。つまり、ガマリエルがここで最高法院の人々に冷静な態度を促すことができたのは、使徒たちに対して妬みの心を抱いたサドカイ派の人々とは彼の使徒たちに対する考え方が微妙に違っていたからです。
 サドカイ派は今までも学びましたように、大祭司を代表とする神殿に仕える祭司たちによって構成されていた宗教グループでした。彼らはエルサレム神殿を支配し、それを運営することで巨大な利権を持っていたグループでもあったようです。ですから彼らは自分たちの「利権」を守るために政治権力者と結びつきました。おそらくこのサドカイ派の人々がキリスト者の主張に危機感を感じたのは神殿を中心とする祭儀について新しい解釈をするキリスト者に対して自分たちの利権の根拠が奪われてしまうと言う恐れがあったからかもしれません。

(2)ファリサイ派の律法への熱心と限界

 このサドカイ派と違ってガマリエルが属していたファリサイ派と呼ばれるグループの特徴は確かに彼らも神殿での礼拝を否定することはありませんでしたが、彼らの教えの中心はむしろ聖書が教える律法を自分たちの現実の生活にどのように忠実に守るかに重点が置かれていました。彼らは自分たちの日常の生活によって律法への熱心を表し、それを通して神に対する従順の姿勢を示そうとしたのです。ですから元々神に対する自分たちの熱心な思いを律法に従うことによって表そうとしたファリサイ派の人々は敬虔な信仰者の群れであったと考えることができます。ところが福音書を読むと、主イエスはこのファリサイ派の人々と律法についての解釈を巡って激しく対立しています。そしてファリサイ派の人々はイエスに対して憎しみを抱き、その殺害計画を進めて行ったのです。
 それではどうして元々は敬虔な信仰者の群れであったファリサイ派の人々がイエスと激しく対立せざるを得なくなったのでしょか。福音書におけるイエスとの対立で浮き彫りになる彼らの誤りは、第一に自分たちの律法への熱心のあまり、それを出来ない人々を差別し、軽蔑したと言うところにあります。つまり、神に対する敬虔な思いの表現として始められた彼らの律法に対する熱心が、やがて変質して、自分と他人を比べ、自分が優劣感を抱くためのものへとなってしまったのです。そしてその優越感がそのまま神に向けられると、自分たちの律法への熱心さが、神の救いにあずかるための根拠となるという「律法主義」の教えと変質して行ったのです。
 ファリサイ派の誤りの第二の点は、彼らは律法の求める規定を自分たちの生活で実現させようようとしましが、その律法が最終的に示そうとしたキリストを理解できなかったことです。ですからファリサイ派の人々はイエスを拒むことになったのです。結局、彼らは律法が教える本当の意味を理解することができなかったのです。

2.ガマリエルの論理
(1)冷静な判断を示すガマリエル

 さてこのファリサイ派に属したガマリエルはサドカイ派の人々と違い、自分の持っている利権が使徒たちによって奪われるという恐れを抱く必要はありませんでした。だから彼はその場にいた使徒たちを一時的に議場から外に出した上で、議会のメンバーに次のように語ります。
 
「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」(35〜38節)。

 ガマリエルの主張は「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい」と言う言葉に明確に示されています。もしかしたら、彼はイエスを十字架につけた最高法院の決定とその結果に対しても冷静さを欠いたものであったと反省していたのかもしれません。冷静さを欠いて軽率な決断をすれば、ますます自分たちの立場を悪くしてしまうことにもなりかねないからです。
 ガマリエルがここで「使徒たちから手を引いて、彼らをほうっておくがよい」と考えた点は、彼の説明に示されています。ここには二人の人物にまつわる歴史的な出来事が記されています。それは「テウダ」と言う人物にまつわる事件と「ガリラヤのユダ」と言う人物にまつわる事件です。この事件はいずれもローマの支配からユダヤの国を解放するために起こった反乱であったと考えることができます。ローマの圧政から解放され、ユダヤが独立国家として再建されることを夢見たこれらの人々の運動も、一時は仲間たちが大勢集まり、民衆の支持を集めることになりました。ところがその指導者が殺されると同時にその運動自体が跡形もなくなってしまったと言うのです。そして、この結果はいずれもこの二つの事件の計画や行動が人間から出たものであることを証明し、決して神によるものではないと言うことを示すものだったと言っているのです。そして、「その活動が人間から出たものなら、ほおっておいても必ず、いつかは歴史から消え去ってしまうものだ」と彼は主張したのです。

(2)歴史が証明する真理

 ガマリエルは最後に「神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」(39節)と意味深な言葉を残します。これは一見するとガマリエルが使徒たちの活動を「神から出たものかもしれない」と言う期待を持って見ていたようにも思える言葉です。ただ、この場の議場の雰囲気から考えるとこの言葉はむしろサドカイ派たちの理性失った、軽率な態度を警める彼の皮肉が込められた言葉であったとも考えることができます。
 ガマリエル個人が使徒たちやイエス・キリストについてどのような考えを持っていたのかこの言葉から読み取ることはできません。むしろ、そのような自分の態度をはっきりとは示さないところもガマリエルの持っていた知恵ある対処法の一つであったのかもしれません。ところがこのガマリエルの言葉は新約聖書に記録されることにより、貴重な預言の言葉の一つとなったと考えることができます。
 なぜならば、キリスト教会はこの後に激しい迫害の中、その指導者たちの死を経験してもなお、衰えることなく、むしろ広まっていったからです。この当時、風前の灯火のように人々に感じられていたキリスト教会は長い歴史の中で残り続け、また世界に広まっていったのです。つまり、その歴史を見るなら、このキリスト教会の計画や活動が人間から出てきたものではなく、神によるものであることが示されたことになるのです。

3.使徒たちの信仰
(1)祝福を求める信仰の限界

 さて、最高法院の雰囲気はこのガマリエルの発言によっていくらか冷静さを取り戻したようです。ですから彼らは「使徒たちを殺してしまおう」と言う考えを変えて、「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した」のです(40節)。そして更に聖書はこのときの使徒たちが示した反応を次のように記しています。

「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」(41〜42節)。

 この使徒たちの反応は彼らの持っていた信仰の内容を良く表していると考えることができます。なぜなら、もし彼らの持っていた信仰が「キリストを信じるならすべての災いから逃れることができ、自分たちの願いごとがかなえられ、幸せに生きる事ができる」と言ったものなら、彼らがこのとき経験した事実はその信仰を覆すものになってしまうからです。彼らはキリストを信じることによって鞭で打たれ辱めをうけたのですから。しかも、彼らはこの経験を「喜び」、さらに熱心に教え、福音を伝えたというのです。それではどうして彼らは自分たちが受けた厳しい体験を「喜び」を持って受け止めたのでしょうか。
 聖書はその理由について「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と言っています。ある説教者は使徒たちが「自分たちは人々からイエスと同じだと判断されていることを確信して喜んだ」と説明しています。弟子たちにとって自分たちがイエスと同じものと見なされると言うことは決して「恥じ」ではなく「名誉」だったと言うことができます。だから彼らはイエスと同じようにエルサレムの最高法院で裁きを受けることなったことを喜んだと言うのです。

(2)イエスの救いによって変えられた出来事の意味

 確かに、かつてイエスはこのエルサレムの最高法院の法廷に立ち、裁きを受けました。そしてイエスは十字架につけられ殺されたのです。しかし、彼らのこのときの喜びは彼らがイエスと同じ取り扱いを受けたからと言うだけの理由からではなく、このイエスの十字架の出来事によって実現した救いと深く関わっているように思えるのです。
 なぜなら、既にイエスは彼らのために十字架にかけられ、そこで命を献げられたのです。このイエスの十字架の出来事は何を示すのでしょうか。それは自分たちの人生の上に救いが実現し、その行方が代わってしまったことを表しているのです。今まではどんなに地上で様々な人生の祝福を味わうことができたとしても、その最後は厳しい神の裁きを受けるしかありませんでした。しかし、このイエスの十字架によって私たちの人生は滅びから救いへと変えられ、永遠の命の祝福が行く先に待ち構える人生に変えられたのです。
 世の権力者たちが使徒たちの歩みを止めさせようとしても、それは不可能です。なぜなら、すでにイエスはその救いを実現してくださっているからです。そして使徒たちはこの困難な出来事もそのイエスの救いが自分たちの上に実現するための道のりの中にあると確信したのです。だから彼らはその事実を「喜ぶ」ことができたのです。
 イエスが私たちのために十字架の上で救いを成し遂げてくださったと言う事実が、私たちが人生で経験する様々な出来事の意味をすべて変えるのです。世の人々が不幸と呼ぶもの、また災いと呼ぶ出来事が、私たちの救いの成就のために用いられることを私たちは聖書によって教えられています。最高法院の法廷に立たされた使徒たちは改めてここで、イエスが誰のために裁かれ、またその命を献げられたのかを考えることができたのではないでしょうか。そして、そのイエスの十字架の出来事を思い起こすことで、その救いが自分たちの人生の上に確実に実現していることを確信し、喜びを持ってこの出来事を受け止めることができたのではないでしょうか。

【祈祷】
天の父なる神様
受難節の二週目の礼拝に集うことができたことを感謝します。使徒たちは自らがイエスの名によって辱めをうけるほどの者になったことを喜びました。どうか、私たちにも彼らと同じ喜びを与えてください。そのために私たちがイエスの十字架の死と復活の勝利によって明らかにされた救いの真実を確信することができるようにしてください。私たちの人生に起こる一切の出来事がこのイエスによる救いの出来事関係していることを覚え、そこから慰めと励ましを受けて生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。