礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年3月11日  「選ばれた七人」

聖書箇所:使徒言行録6章1〜7節(新P.223)
1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。
3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、"霊"と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。
4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、
6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

1.御心を求めて歩む
(1)選ばれた「七人」

 今日の部分ではエルサレム教会に起こった出来事を通して、使徒たちとは違った働きをするための新たな教会役員が選ばれています。私たちはここで新たに選ばれた「七人」の役員たちは「食事の世話をする」(2節)と言うその職務の内容から現在も教会で選ばれる「執事」たちではないかと考えます。しかし、この箇所には彼らのことを「執事」と言う呼び名で呼んでいる箇所は一つもありません。しかも、使徒言行録はこの後、ここで選ばれた「七人」のうちのステファノ(5章8〜7章60節)やフィリポ(8章26〜40節)の活動を詳しく報告しています。この報告の内容を読むと彼らは立派な伝道者であり、また説教者として働いています。このことを踏まえると、彼らは私たちが考える「執事」とは少し違った職責を担っていたと考えてもよいようです。聖書解釈者たちはここで選ばれた役員を現在の教会で言えば「長老」の職務に近いと主張する人もいます。ご存じのように「使徒」と言う職務は教会の創設時にイエスによって特別に設けられた制度です。ですから、現在の教会では「使徒」と呼ばれる人は存在していません。つまり「使徒」は特別な使命を果たすために一時的に選ばれた人であり、その使命がなくなった今はその職責を直接に引き継ぐ人はいないのです。もしかしたら、ここで選ばれた「七人」も教会のこのときの働きのために特別にもうけられた職責を担う人達だったのかもしれません。
 ところで私たちはこの小さな箇所から教会が神様のみ心を求めて歩むことの大切さを学びたいと思っています。なぜなら、この箇所を読むと神様がその神様の御心を求めて生きる人を十分に用いてくださることを知ることができるからです。

(2)神の御心がわからない

 以前、この教会の礼拝に出席されていた一人の兄弟がよく「私には神様のみ心と言うのがわからない。自分は神様のみ心をどのようにして理解したらいいのかわからない」と言っておられたことを思い出します。実はその兄弟がこのような疑問を抱くのには一つの大きな原因がありました。その兄弟は元々、教会員もたくさんいる大きな教会のメンバーで、その教会で役員として重要な働きも担っていた経験がありました。しかし、その教会の牧師はときどき、教会の方針を大きく変更するさいに「これは神様のみ心です」と言って他の人も新たな方針に従うことを求めたと言うのです。「神様のみ心」に対して不服を言うことは信仰者としてできませんからその兄弟は仕方なくその牧師の意見を受け入れて来たと言うのです。ところがその兄弟はそのうちに牧師は「これは神様の御心だ」と言うけれど、それは本当に神様の御心なのかと言う疑問を抱き始めました。そもそも牧師は「これは神様のみ心だ」と断言するけれど、それが神様の御心かどうかを第三者にはどのように理解できるのだろうか。…そのような疑問が次々と生じてきて、その教会を離れざるを得なかったと言うので。その牧師に問題があったのか、またはその牧師の言葉を誤解して聞いたその兄弟に問題があったのか私にはわかりませんでした。しかし、私たちが「神様の御心」と言う言葉を使うとき、注意しなければならないことがあります。つまり「神様の御心」とはある特殊な人だけが聞き分けることのでるような啓示のようなものではないと言うことです。占い師が水晶玉を見つめればすべてのことがわかってしまうと言うように、聖書を読めば神様の御心がすべてはわかると言うことでは決してありません。確かに聖書は神様が私たちに人間に対して、また教会に対して何を望んでおられるかを語ってはくれます。しかし、だからと言って聖書は明日、私たちがどこに行って、何をすべきかと行った具体的な事柄を教えてくれるものではありません。このような意味で神様の御心は私たちからいつも隠されていると言っていいのかもしれません。むしろ、神様の御心を私たちが完全に理解することは不可能なことなのです。大切なのは、私たちにはまだ十分にその御心は理解できませんが、その御心を信頼して生きることが私たちには求められているのです。

(3)教会内で起こった問題と苦情

 実は今日の箇所で初代教会は大きな方向転換を求められていました。そして教会に起こされた変化は、すべて説明のつく事柄なのです。ここで教会の指導者たちは教会に起こった出来事を、教会が神様に従うために何が最善であるかを考え、話し合い、実行しているのです。そして結果的に、この教会の働きを通して神様の御心が豊かに示されていったと考えることができるのです。それではこのとき、教会ではいったいどんなことが起こっていたのでしょうか。

「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」(1節)。

 だいぶ前に、初代教会の人々の日常生活について次のようなことを学んだことがありました。教会にはいろいろな人がいました。財産を持っている者もいれば、今日の食事にさえ困る貧しい人も所属していました。そこで教会は当初、財産のある者が自分の財産を処分して、その代金を献金として教会に持ち寄りました。そして使徒たちはその献金を必要としている人に分け与えたのです。しかし、この使徒たちに働がここで限界にぶつかることになりました。なぜなら、教会に新たに加わる弟子の人数がさらに増えていったからです。つまり人数が増えたことによって今までの使徒たちの処理能力では十分に責任を果たすことができなくなってしまったのです。
 そして問題はさらに複雑な事情が絡むものとなりました。なぜなら、この問題によって一部の人々が軽んじられ、生活に支障が起こっていると言う苦情が出されたからです。この事情については少し解説が必要になります。ここで「ギリシア語を話すユダヤ人」と呼ばれる人々は元々何らかの事情で海外に移住しそこで暮らすようになったユダヤ人たちのことを言っています。ギリシャ語は当時の地中海世界では広く通用した国際語、つまり現在の英語のような役割を果たしていた言葉です。この海外で生まれ育ったユダヤ人たちはギリシャ語を使って生活をし、また生活様式においてもギリシャ的、つまり国際的感覚を身につけていた人々であったと言えるのです。聖書にはこの海外で暮らすユダヤ人がエルサレムの神殿に定期的に巡礼にやって来ていたことを記しています。ペンテコステの日に様々な国の言葉を使徒たちが語ることを理解できたのは、この海外からやってきたユダヤ人たちでした。もともとユダヤではなく海外に生活の根拠をおいている彼らでしたが、ユダヤ人であると言うことには変わりはありません。そこで自分たちの先祖たちが生まれた土地であるユダヤの土地に対する思い入れは彼らにも強かったようです。ですから「どうせ死ぬのなら先祖たちの生まれた土地で死にたい」と言う願いを持って、エルサレムに移住して来ていた人たちが多くいたようです。そのように自分の終の棲家を求めてやってきた彼らでしたが、エルサレムでは親しい親類もいないし、その上で年老いた者は自分で自分の生活の糧を稼ぐことはできません。そこで特にこのギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちが生活に困窮していたのではないかと考えられるのです。
 使徒たちをはじめとするもっとも初期にイエスの弟子となった人達は、ヘブライ語を話すユダヤ人でした。そこでギリシャ語を話すユダヤ人たちから、ヘブライ語を話すユダヤ人である教会のリーダーたちに、「少し、自分たちに不公平な取り扱いをしているのではないか」と言う苦情が突きつけられたのです。

2.世界宣教への道を歩み出した教会
(1)使徒たちの決定事項

 さてそこで使徒たちはこの問題を解決するために、新たにその使命を担当する役員たちを選ぼうと考えました。それがここで選ばれた「七人」の人々です。聖書はその事情について次のように説明しています。

「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、"霊"と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう」(2〜3節)。

 使徒たちは新たに使徒たちに代わって「食事の世話をする」ために新たな教会の役職を設けることを決めました。それは自分たちが「神の言葉を伝える」と言う使命に集中することができるためです。ただし、ここで使われている食事と言う言葉は「食卓」と言う意味を持ち、この食卓の上でお金の勘定をすることから、むしろこの人々の役目は教会の経済的な側面についての働きを担う人々ではなかったかと考える人がいます。それは現在の教会で言えば会計担当役員とでも言ったらよいでしょうか。
 その新たな役員を選ぶために使徒たちは、その職務につく人にふさわしいと考える条件をいくつかここで挙げています。一つは「霊」、つまり聖霊に満たされた人です。ある人は聖霊の働きとは私たちに信仰生活ができるようにさせるものだと言って、霊に満たされた人とは健全な信仰生活を送っている人だと解説しています。私たちが礼拝に出席し、信仰生活を毎日営むことができるのは私たちの優れた資質や人間的努力の結果ではなく、この聖霊が私たちを導いてくださるからです。
 第二に「知恵」に満たされた人です。どんなに知識に豊かな人でも、その知識に自分がおぼれてしまったり、また自分の利益のためにその知識を悪用する人もいます。この知恵は神様のために、また教会全体の人の利益のために自分たちは何をすべきかを冷静に判断することができる知恵であり、これもまた聖霊が与えてくださる賜物の一つだと言えるのです。
 最後に「評判の良い人」です。この世や私たちの周りでは「評判の良い人」がたくさん存在します。また、その反対に「評判の悪い人」もたくさんいます。ただ使徒たちがここで考えた「評判の良さ」とは、単にその人がどれだけ優れているかとか、あるいは人徳があるかと言うことではなく、その人を通して神様が働いておられることがわかると言うような評判です。その点では神様をよく証しすることができる人と言う意味だと考えることができます。この後に聖書が紹介するステファノやフィリポの活動は彼らがこの条件をクリアできる人であったことを物語っています。
 そして最後にこの職務を担当する人の人数は「七人」と使徒たちによって決められています。ある説教者はこれだけの条件を付けて、人数まで指定されたら、使徒たちが誰をこの職務にふさわしいと考えているか教会の人は誰でもわかったはずであると言っています。つまり、ここで行われた選挙は使徒たちが選んだ人々を教会員一同が信任するような性格のものだったと考えることができるのです。

(2)信仰と聖霊に満ちていたステファノ

 さてこの結果、教会ではこの職務を遂行するにふさわしい人物として「ステファノと、フィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオ」と言う七人の人が選ばれました。ここで大変興味深いのはこの選ばれた七人についての使徒言行録の紹介の仕方です。「信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかに…」となっています。つまり、ステファノだけが他の六人とは別格な取り扱いを受けて紹介されているのです。実はこの説明の仕方に、聖書がこの出来事を記した意味が示されていると考えることができます。つまり、ここで聖書が新たな七人の役員が使徒たちによって選ばれたことを記す理由はこのステファノのことを読者たちに紹介するためだったのです。ですからこの後、聖書はすぐにここで選ばれたステファノについて筆を進め、彼の殉教の死を語っています。だからこのステファノだけは他の六人とは違った取り扱いをここで受けているのです。
 ステファノは自分の命をかけてまでキリストの福音を証しした人物です。彼はどうしてそこまで忠実にキリストの福音を宣べ伝えようとしたのでしょうか。それは彼がこのとき教会からゆだねられた職務に忠実であろうとしたからです。いえ、それは教会と言うより、神様が彼に与えてくださった職務でもあると言えます。この後、使徒たちはすぐに新たに選ばれた人の頭の上に手を置いて祈っています。これは現在の教会でも教会役員が選ばれる際に行われるものです。そしてこの行為はその人が人からではなく神様に選ばれてその職務に就いたことを表すものだと言えるのです。ステファノは神様が自分にゆだねてくださった職務に最後まで忠実に生きようとしました。しかも、そのステファノが選ばれたのは教会で起こった問題が原因だったと聖書はここで語っているのです。

(3)神の御心に信頼して従う

 もっと先のことに目を向ければ、このステファノがエルサレムで殉教することによって、ユダヤ人の宗教指導者たちからの教会への弾圧が激しくなります。するとその結果、多くのキリスト者がエルサレムを脱出することになりました。そしてその散らされたキリスト者が逃亡先でキリストの福音を伝えることによって教会の海外伝道の道が開かれて行ったのです。使徒言行録が後半で記すパウロたちの海外伝道の活動はここで教会に起こった出来事の延長線上に記されているものです。
 おそらく教会の指導者たちも教会員もこのとき、このとき、教会に起こった「やもめたちの取り扱い」についての問題を通してステファノが選ばれ、そのステファノの殉教を通して起こった迫害によって海外に散らされたキリスト者が海外宣教の道に歩みだすことを知らなかったと思います。ましてやその後に続くパウロたちの伝道の出来事はなおさらのことです。しかし、それでも彼らは自分たちを導く神様の御心を信頼していたことは確かです。そしてその御心が今は彼らにはっきりとはわからなくても、最善を尽くして神様のために今何をすべきかを考え、その計画を実行して行ったので。
これは私たちの教会においても同じだと思います。初代教会に起こったやもめのたちの取り扱いの問題のように、私たちの教会でも数々の困難な事情が生まれます。また、外部から初代教会に向けられた迫害と同じように、教会と社会の中にも軋轢は生じます。しかし、そのとき私たちに求められているのは神様の御心を信頼して、今、私たちが神様のために、教会のために何をすることがふさわしいことなのかを考え、行動していくことです。そしてそのとき私たち一人一人がステファノのと同じように自分に神様から与えられている職務に忠実に生きようとするなら、神様はその私たちを用いて御心を実現してくださるのです。ですから私たちもこの神様の御心に信頼して、私たちの信仰の歩みを続けたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちには隠された神様のみ心を十分に理解することはできません。しかし、あなたは聖書の言葉を通して、また聖霊なる神の悟しを通して私たちがなすべき働きと使命を確かに示してくださいます。東日本で起こった大きな災害から丸一年を迎えました。未だに多くの人々がその災害の故に苦しみ続けている現実があります。私たちがあなたの御心を信頼して、与えれた職務を行うことができるように助けてください。何よりも希望を失っている人々に、主にある希望を示すために奉仕している人達の働きを助けてください。私たちに与えられている使命を私たちが全うすることができるように助けてください
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。