礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年3月25日  「ステファノの説教(1)」

聖書箇所:使徒言行録7章1〜16節(新P.224)
1 大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。
2 そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、
3 『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。
4 それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、
5 そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。
6 神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』
7 更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』
8 そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。
9 この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、
10 あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。
11 ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。
12 ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。
13 二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。
14 そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。
15 ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、
16 シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。

1.エルサレムと神殿に固執する人々
(1)論争と逮捕

 私の生まれ育った家は残念ながら、道路の拡張工事のために壊されて今はありません。今も茨城に残っている私の家で私は生活した経験がありませんから、そこには自分にとって懐かしいと思えるものは何一つ残っていません。おまけに東京まで電車に乗れば一時間以内で通勤できる私の故郷は日を追うごとに変ってしまい、自分の幼い頃を思い出す風景はすっかりなくなってしまいました。そんな私にとって一番懐かしさを覚え、親しさを覚える風景は今も昔も変ることのない筑波山の山陰です。幼い頃から毎日、眺めて育ったあの筑波山の姿を見ると元気がないときにも元気を取り戻せるような気がします。私のパソコンのディスクトップには筑波山の写真が掲示されていて、疲れたときなどその心を和ませてくれる役目を果たします。おそらく、皆さんもそれぞれ自分にとって懐かしい景色、また思い入れのある場所があると思うのです。
 使徒言行録からステファノに関する物語を続けて学んでいます。新たな教会の役員に選ばれ、その使命に忠実に生きたステファノはキリストの福音を巡って、外国帰りのユダヤ人たちと論争を交わすことになりました。そこでステファノの敵対者たちは議論では到底ステファノに太刀打ちできないと感じると、民衆やエルサレムの宗教的指導者たちを巻き込んで、彼を裁判の場に引き出します。どうして彼らはこれほどまでにステファノに敵対心を抱いたのでしょうか。それはおそらく外国帰りのユダヤ人がエルサレムに対して持っていた思いをステファノが否定しているように思えたからかもしれません。

(2)エルサレムとそこに立つ神殿

 彼らの多くはかつてローマや、ローマの植民地で生活していた人々でした。しかし、彼らはやがて年老いて、人生の佳境を迎えようとしたとき彼らの脳裏に浮かぶのは自分たちの先祖が大切にした場所エルサレムと、そこに立つ神殿についての思いでした。「できれば、そこに帰って人生の最後を迎えたい」。彼らはそんな思いに駆られてエルサレムにやって来た人々ですから、エルサレムとエルサレム神殿に対する思い入れは人一倍であったと言えるのです。
 彼らにとってエルサレムとそこにそびえる神殿は特別な場所でした。なぜなら、そこに行けば神に会える、神と共に生活することができると考えたからです。そしてステファノとの間に起こった論争の中心はこの外国帰りのユダヤ人が持っていた『エルサレムと神殿に対する信仰』についてであったと考えることができます。
 彼らはステファノを捕えエルサレムの最高法院の場に引き出し、偽証人を立てて彼に濡れ衣を着せて陥れようとしました。偽証人の訴えはステファノが『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう』と人々に教えたと言うものでした。ステファノはイスラエルのすべての人が大切にしているエルサレム神殿とそこで守られている慣習を否定していると訴えたのです。

2.アブラハムを導く栄光の神=アブラハムを先導する神
(1)神との交わりに神殿は絶対に必要か

 そこで最高法院の大祭司はステファノに「訴えのとおりか」(1節)と尋問を始めます。その尋問に対してのステファノの答えが私たちがこれから学ぶ長い文章の内容です。先日も学びましたようにステファノはエルサレムの最高法院の人々に向かって語ったこのお話は、私たちが教会の礼拝で聞いている「説教」と同じようなものであると考えることができます。そしてステファノがここで語った解き明かしのスタイルは神がイスラエルの民に明らかにされた「救いの歴史」を説明するものであったのです。この救いの歴史は創世記の第一章から始まると言ってもよいのですが、神の救いの御業がやはりはっきりと現れるのは旧約聖書に登場するアブラハムと言う人物からであるとも考えることができます。
 ですからステファノはまず、このアブラハムと言う人物からスポットを当てて話し始めています。彼のこの話の目的は何かと言えば、結論部分を先取りして言えば「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」(48節)と言うことでした。つまり神はエルサレム神殿にしかおられない、その神殿を通してしか会うことのできない方ではないと言うことなのです。実際、ここでステファノが語った神の救いの歴史の中でエルサレム神殿が登場するのは結論部分で語られるソロモンの時代で、それ以前にはエルサレムに神殿は存在していません。しかし、神と人の歴史はそれ以前にもあり、神殿がなくてもそこで豊かな交わりが繰り広げられて来たのです。

(1)故郷を棄てて旅立ったアブラハム

 そこでまずステファノが取り上げる人物アブラハムは外国帰りのユダヤ人が「先祖たちの土地に帰りたい」と願ったその行動とは全く逆な歩みをしたことが分かります。
 アブラハムは元々メソポタミア、現在のイラクの地方の出身者でした。そのアブラハムは『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』(3節)と言う神の召しに応じて生まれ故郷を棄てて神が示される約束の地を目指して出発したのです。このアブラハムのたどった生涯の歩みは旧約聖書の創世記に詳しく記されています。彼の生涯は決して平坦なものではありませんでした。神が「あなたとあなたの子孫を祝福する」と約束してくださったのに、彼が100歳になるまでその祝福を受け継ぐべき子供が与えられなかったのです。実際、彼には様々な財産が与えられましたが、彼はその一生の間、寄留の民、旅人として歩みました。神はむしろ、そのアブラハムの人生に先だって彼を導いてくださったのです。ステファノの論旨は「栄光の神」は特定の場所にとどまる神ではなく、私たちがいくところどこでもまず先だって進み、私たちを導かれる方ではないかとこのアブラハムの生涯を通して論証しているのです。
 彼らに与えられた目に見える証しは神と彼らとの間に結ばれた契約を表わす「割礼」の印だけでした。しかし、その割礼でされアブラハムの人生の途中で与えられてものであり、彼の旅の出発の時点ではまだ彼には与えられていなかったのです。外国帰りのユダヤ人たちは「モーセが自分たちに伝えた習慣は絶対である」と主張しましたが、神の救いの歴史の中ではその習慣は最初から与えられたものではありません。救いの歴史が進むに従って神はそれにふさわしい習慣や目に見える印を与えてくださるのです。今や私たちにはキリストにある愛の戒めや、洗礼や聖餐式と言う目に見える印が与えられています。ステファノは神の救いの歴史の頂点に位置するイエス・キリストの福音を語りました。外国帰りのユダヤ人たちはこの救いの歴史を無視してしまったところに問題があったと言えるのです。

3.神を人がコントロールするのではない

 私は勉強があまりすきではありません。家には確かに幼い頃から私のための勉強机がありましたが、私の記憶では私はその机に座って勉強したことがありませんでした。そんな私でしたからいい成績を期待することはまずできませんでした。それでも上の学校に入学するためには受験をしなければなりません。ところが肝心の受験勉強はやはり手が着かず、まったくどうにもならない状況でした。そんな人間が最後に頼むのは「神頼み」と定番は決まっています。そこで高校受験のために試験場に行く私のポケットにはいくつものお守りが必ず入れられていたのです。
 あの「お守り」と言うものは人間が作り出した大変便利な道具の一つかもしれません。自分が都合のいいときに自分のために神仏の助けを求めることができるからです。つまり、お守りは人間が神仏の力をコントロールして、自分に都合がいいように用いるための道具であると言えるのです。
 ステファノはキリストの福音を説明するために次に旧約聖書のヨセフの物語を引用しています。兄弟たちの恨みを買い、エジプトに奴隷として売られていったヨセフの物語は皆さんもよく知っておられると大変に有名な物語です。ステファノはこのヨセフの生涯を語りながら神について次のように語ります。

「しかし、神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました」(9〜10節)。

 ヨセフは決して自分の都合のいいように神の力を得るための「お守り」を持っていた訳ではありません。ヨセフは神の力をコントロールしたのではないのです。むしろ彼の生涯を神が支配してくださったのです。そしてそれを知っていたヨセフは困難の中でもその神に信頼して生きることができたのです。
「神はこういうところで、こういう方法を通してしか働かない」と考える人は、「お守り」を持ち歩く人のように自分のコントロールの元に神の力を使おうとする過ちを犯しています。しかし、もっとも危ういのは私たちのコントロールです。無知な私たちのコントロールでいったいどんな素晴らしい人生が実現できるのでしょうか。むしろ、私たちはすべてを知り、完全な救いの計画を持って導いてくださる神の支配に私たちの人生を委ねるべきなのです。ですからステファノはイエス・キリストによってさらに明らかにされたこの神の支配に信頼することを勧めるのです。

4.本当のエルサレムはどこなのか

 最近、母が病院に入院し、その病床を訪れて思うことがありました。母の枕元にはテッシュの箱が置かれています。母が使っている私物はそれだけで、ほかに何もありません。茨城の家には母が買い集めた衣類が今でもたくさん残されています。しかし、今の母にはそれらのものは全く必要がありません。私たちも普段、いろいろなものが必要だと思って買い求めています。しかし、人間がいざとなってから必要とするものはそんなにたくさんなものではないのかもしれません。ステファノはヨセフの生涯を語った後で、彼らの死について語ります。

「ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました」(15〜16節)。

 先祖たちは皆、死んで同じ墓に葬られたと言っています。その墓はアブラハムが買い求めたものであり、シケムと言うところにあると言われているのです。このシケムは聖書の巻末の地図で見ると、サマリアのゲリジム山の北方近くに位置していることが分かります。イエスがサマリアの女と語り合った「スカル」はこの「シケム」と同じ町だと言われています。余談ですがアブラハムの墓はこのシケムではなくエルサレムの南に位置するヘブロンの町にあると今でも信じられています。つまり、彼らの葬られている場所はばらばらであり、決してエルサレムではないのです。
 ステファノはこのような先祖たちの葬られた墓に言及しながら、彼らの人生の目的地は決して地上のエルサレムではないこと、ましてや彼らが葬られた場所ではないことを説明しています。むしろ彼らは天のエルサレム、つまり神と共に住まうことができる場所を目指して、地上では寄留者として、旅人としてその人生を歩んだのです。
 外国帰りのユダヤ人はエルサレムの地で生涯の最後のときを送ることに特別な思い入れがありました。神の都、神の神殿がそびえる場所、それがエルサレムであったからです。しかし、本当のエルサレムはこの地上にあるのではありません。いえ、神が共にいてくださるところならば、そこが本当のエルサレムであると言えるのです。イエス・キリストは私たちがどこにあっても神と共に生きるができるようにとその救いを成し遂げてくださったのです。ですから、私たちにとって私たちが生きる場所すべてがエルサレムであると言ってよいのです。また、そのイエスは私たちの地上の生涯が終わるとき、私たちが行くべき場所をも準備してくださっています。それが私たちを待つ天のエルサレムです。
 だから私たちにとってどこに住むのか、どこで最後を迎えるのかは問題ではありません。なぜなら、キリストはどこにあっても私たちと共に生きてくださり、私たちを天のエルサレムに導いて下さる方だからです。

【祈祷】
天の父なる神様。
「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」。
あなたが約束して下さったとおり、キリストによる救いの出来事を通して、私たちはあなたをどこにあっても礼拝し、あなたと共に生きることができます。この祝福を私たちが信じ、あなたに信頼して歩むことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。