Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年4月8日  「イエスの復活」

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一15章1〜11節(新P.320)
1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。
2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

1.クリスマスとイースターの難しさ

 先日、テレビのニュースを見ていましたら東京ディズニーランドでイースターイベントが始まったことを知らせていました。ニュースキャスターは「日本人にはまだなじみの少ないイースターと言う欧米の行事をどこまで日本人が受け入れられるのだろうか」と言うような話をしていました。確かにキリスト教の信者の多い欧米ではイースターは大変盛大に祝われますが、日本ではまだ馴染みの少ない行事であると言えます。同じようにキリスト教の大切なお祭りであるクリスマスは今、日本で大変にポピュラーな行事となっているのとは対照的です。
 どうして日本ではイースターと言う行事がなかなか定着しないのでしょうか。そこにはいろいろな理由がありますが、その大きな理由の一つはこの日がイエス・キリストが死から甦られたことを祝う祭日、復活祭であると言うことに関係するのかもしれません。クリスマスのように赤ちゃんが生まれたと言う出来事は、誰もが受け入れやすいものです。しかし十字架にかけられて死んだイエスが三日目に墓から甦ったと言う出来事を事実として受け入れるのには多くの人が困難を感じるからです。
 クリスマスを多くの人が受け入れていると今言いましたが、実はその本当の意味を受け入れてお祝いする人は私たちの日本ではごく少数の者に限られるかもしれません。なぜなら、本当のクリスマスとは神の子であるイエスが処女マリアを通してこの地上にお生まれくださったことを祝う日だからです。実はこのイエスの誕生の出来事の中にもキリストの復活と同じように多くの人が受け入れ難い事柄が含まれています。イエスは結婚していない処女マリアから生まれたのです。しかもその父親は神ご自身であり、神の子であるイエスもまた神ご自身であられると言うのです。このクリスマスの出来事に含まれる神秘的な事柄を十分に理解してクリスマスを祝っている人は多くはいないはずです。しかし、キリスト教会がこのクリスマスの出来事を祝う意味は、この人々が信じることが難しい神秘的な出来事にこそあると言っていいのです。なぜなら神の子がこの地上に生まれたと言う出来事は私たちの信仰にとって重要な事項なのです。
 同じように人々が受け入れ難く思っているイエスの復活の出来事もまた、私たちの信仰にとっては重要な出来事であると言えます。今日の聖書の箇所でも使徒パウロは次のように語っています。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと(です)」(3〜4節)。

 パウロはここで私たちの信仰にとってもっとも大切なことがらは、キリストの死と復活の出来事であると言っているのです。そこで私たちもまたこのイエスの復活の出来事を私たちが信じることがどんなに大切であるかをもう一度、考えてみたいと思います。

2.死者の復活とキリストの復活
(1)死者の復活は信じない

 先日、祈祷会で使っているテキストの中でこのキリストの復活に触れて、この出来事がどんなに多くの人を躓かせ、教会から人々を遠ざけさせる原因となっているかと言うことが語られていました。その本の著者が若かったころ共に教会に通っていた医学を学ぶ一人の友人が「死んだ人間が甦るなど信じることができない。死体の解剖を見に来てみろよ。それがわかるから」と言ったと言うのです。結局その友人は信仰から離れていったという話が紹介されていました。確かに科学的な知識が十分に持っていなくても、だれもが死んだ人が甦るわけがないと思っているはずです。
 聖書を読むと、キリストの復活の出来事からわずかしか経っていない初代教会でも、「死んだ人が甦ることはない」と考える人々が生まれていたと言う事実が分かります。そしてパウロはこのコリント信徒への手紙一の15章でそう考える人を相手に反論を加えているのです。ただ、ここで「死者の復活」を信じることができない人々の考えていた理由は、科学的な知識をまず一番に考える現代人とは少し違っていたようです。
 まず、この聖書の箇所で直接問題になっているのはイエス・キリストの復活ではなく、そのイエスを信じて生きた人々が死んだ後、もう一度死者の中から復活すると言う事柄です。しかし、パウロは今日の箇所に続く15章の12から13節で次のように語り、死者の復活とキリストの復活がどのように密接に結びついているのかを語っています。
 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」。
 つまり、キリストの復活と死者の復活のどちらかを信じ、もう一方を信じないと言うことはあり得ないとパウロは言っているのです。どちらかを信じていないのなら、その両方を否定することになると言うのです。それでは当時のコリント教会の中で、死者の復活を信じないと主張した人々はどのような理由でそのようなことを考えたのでしょうか。聖書解説者たちの意見によれば、その有力な理由は二つ考えられると言っています。

(2)再臨まで死なない

 一つは極端なキリスト再臨論者たちの主張です。この箇所でも、キリストの復活と昇天を経験した人々がたくさん生き残っていたと記録されています(6節)。キリストが天に昇って行かれて、まだ年数がそれほど経っていない時代にこの手紙が書かれているのが分かります。このとき多くの人は天に昇って行かれたイエス・キリストはすぐに再臨されると考えていました。つまり、自分たちが存命中にキリストの再臨は起こると信じていたのです。確かに、キリストの再臨を間近に迫る事実と信じることは聖書も教えるように大切な信仰の姿勢です。しかし、この当時の人々はこのキリストの再臨に対する熱心な信仰と同時に、大きな誤解をしていたと言うのです。つまり、彼らは本当の信仰者はキリストの再臨の日まで死ぬことがなく、その日にキリストによって救われると考えたのです。そして彼らと違いその日を待たずして世を去った人々はキリストの再臨の祝福にあずかれないと考えたのです。つまり彼らが死んだのは結局彼らの信仰が本当のものではなかったからであり、そのため最後の勝利にあずかることができなかったと考えたのです。ですからパウロはテサロニケの信徒への手紙一の中でもこのように考える人の誤解を解こうと次のように語っています。

「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(4章13〜14節)。

 パウロはここで生き残った人よりも、死んで墓に葬られた人のほうが甦って先にキリストの完全な勝利にあずかることができると語っているのです。つまり、キリストを信じて死んだ人々は「死者の復活」により生きている人よりも再臨の祝福に先にあずかることができると言っているのです。

(3)ギリシャ的な救い

 「死者の復活」を信じないもう一つの有力な根拠は当時のオリエント社会に強い影響力を持っていたギリシャ的考えた方によるものだと考えられています。なぜならばギリシャ人にとって人間の死と言う出来事は、肉体と言う牢獄に閉じ込められていた人間の魂がその牢獄から解放され、自由になる時だと考えられていたからです。ギリシャの有名な哲学者ソクラテスは、毒の杯を飲むようにという裁判所の命令に喜んで従ったと言われています。それはソクラテスが死を魂の解放のときだと考えていたからです。つまり、ギリシャ人にとって人の救いとは霊魂の自由が回復されることであり、そのためにむしろ人間の肉体は救いの邪魔になっているのです。「死者の復活」はその魂がもう一度、肉体と共に甦るという主張ですから、ギリシャ人にとっては到底理解できない事柄だったと言えるのです。
 実はこのギリシャ人の者の考えた方は、私たち日本人の宗教性ととても似ていると考えられます。私たちの祖先も、魂だけが救われることが大切であると考えていたからです。ですから、死者が甦ると言う考えを日本に古くから伝わる宗教は持っていないのです。
 キリスト教が死者の復活が大切であると考える重要な要素は聖書が教える、神による人間創造の出来事に大きく依存しています。なぜなら、神は人間を霊魂と肉体を持つものとして創造されたからです。つまり、神によって作られた人間はどちらがなくなっても、完全な人間とは言えなくなるのです。神による救いが完成するとき、人間も神に造られた通り霊魂と肉体を持った一つの体となり、その救いにあずかるのです。キリストの救いのみ業は、再創造のみ業とも呼ばれています。つまり、キリストは神によって創造されたすべてのものを、本来の形に回復し、さらに完璧なものに完成させるために働かれるのです。
 このような意味で「死者の復活」がなければキリストの救いは完成せず。キリストの十字架の死も、また三日目に死から甦られた出来事も無意味なものになってしまいます。だから誰も、キリストの復活と死者の復活のどちらかを否定して、片方だけを信じると言うことはできないのです。

3.キリストの復活は信じるべき事柄
(1)合理的解釈の誤り

 さて、パウロがその誤りを正そうとしている人々がどうして「死者の復活」を否定したのか、その理由は今説明したようなものだったと考えることができます。しかし、どちらにしても彼らにとって「死者の復活」を否定することが自分たちの考え方に立つ限り都合がよいと考えたと言うことに誤りはないと思います。つまり、彼らは自分たちの考えに合わせて聖書の教える真理を勝手に解釈し、変えてしまおうとしたのです。
 私たちは今日の箇所でパウロが次のように言っていることに注意を向けたいのです。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(3節)。

「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした」(15節)。
 パウロが言っていることは私たちが復活を信じると言うことは、使徒たちから伝えてくれたものをそのまま受け入れ、信じると言うことなのだと言うことです。そこに何か私たちの勝手な解釈が入ってしまったらそれは復活を信じる信仰には結局なり得ないのです。
 聖書を読み始めた頃、私は日本の有名な作家の遠藤周作と言う人の本を何冊か読んだことがあります。遠藤氏はこのキリストの復活をそのまま信じることはできないと正直に語った上で、確かに何かがそこで起こったと言うことは否定できないと、キリストの復活に関する遠藤氏の解釈を語ります。遠藤氏だけではなく、たくさんの人がキリストの復活についての「合理的」な解釈、つまり、私たちが自分の頭で納得できるような論理を組み立てて披露しています。私たちもそれらの本を読むと「なるほど、それならわかる」と思うのです。しかし、パウロの言葉によれば、そのような解釈を通して信じるキリストの復活は本当のキリストの復活ではなく、また本当の信仰ではないと言えるのです。
 それではこのような聖書の合理的な解釈の最大の問題点は何でしょうか。それは私たちが変わることなく、聖書の教えを私たちに合うように変えてしまうと言うことです。つまり、そのような解釈を通してたとえ私たちが聖書の真理を信じることができたとしても、その教えは結局、私たちの何も変えることはできないのです。しかし、聖書の教える復活の出来事はそのようなものではありません。キリストの復活の出来事はそれを信じる私たちを変えることができるのです。罪と死の支配の元で絶望的な運命をたどるしかなかった私たちに永遠の命の希望を与え、喜びを与えてくれるのがキリストの復活を信じる信仰なのです。

(2)信じることで変わる人生

 旧約聖書の列王記下5章にナアマンと言う人が登場します。当時、イスラエルと敵対するアラムと言う国の優秀な将軍で、王の信頼も受けていた人物です。ところが彼は当時、死病と言われていた「重い皮膚病」にかかっていました(新共同訳聖書は不快語を使わないと言う方針からこのように訳します。昔の翻訳聖書では彼の病気は「ライ病」と記されています)。ナアマンは自分の病気のために当時の最高の医術を受けますが一向に彼の病気は善くなりません。そこでナアマンは「イスラエルの預言者なら、この病を治せるかもしれない」というわずかな希望を抱いて、イスラエルまでやってきてエリシャと言う預言者に面談を求めたのです。しかし、エリシャはナアマンに会おうともせず、使いの者を出して「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」と告げさせたのです。
 この伝言を聞いたナアマンは腹を立ててしまいます。なぜなら、彼はそんなことを信じることはできなかったからです。彼の病気は当時の最高の医術も治すことができない難病です。その病気がヨルダン川で洗って治るなどとは考えられなかったのです。ナアマンは自分の頭で納得のいく解決方法を預言者が出してくれると考えていました。彼はその期待を裏切られたために腹を立て、そのまま国に帰ろうとしたのです。しかし、そこに知恵あるナアマンの一人の部下の助言が登場します。「預言者は大変なことを命じたのではない、川に入ることなど簡単ではありませんか」とナアマンに語りました。そこでナアマンは考えを変え、裸になってヨルダン川に入り、預言者の言葉の通り七度身を浸すと、その病気が完全に癒されたと言うお話です。
 パウロは自分たちが伝えることは哲学や宗教学を修得しなければ理解できない難しい内容ではなく、簡単なことだと言っています。
「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」です。
 この真理を受け入れる人の人生は全く変えられます。今までどうにもならなかったと思えた自分の人生が死から命へと変えられ、新しい希望が与えられるのです。私たちにとってキリストの復活と言う出来事はそのような意味で私たちの人生において、最も大切な事柄であることをここでも確認したいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちの罪のために十字架にかかり死んだイエスは、私たちのために死から甦られ、私たちの救いを完全に実現してくださいました。私たち一人一人もこの福音を信じることによって、人生が変えられた者であることを覚えます。この福音の真理を私たちが日々、受け入れ、喜びを持って生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。