Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年4月29日   「ステファノの殉教」

聖書箇所:使徒言行録7章54〜8章1a節(新P.227)
54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。
55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、
58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

1.ステファノの殉教
(1)正しい方と預言者たちを殺した

 これまでステファノの活動や最高法院での弁明の内容を数回に分けて学んできました。ステファノは自分に着せられた濡れ衣をはらし、キリストによって成就した福音が旧約聖書の教えに反するものではないことを語り、むしろ旧約聖書の預言者たちはすべてこのキリストを指し示し続けたと語っています。ですからユダヤ人たちはこの預言者たちの言葉を大切に守っていると口では言いながらも、そのメッセージの中心であるはずのイエス・キリストを拒み、十字架にかけて殺してしまったのです。ステファノの論旨に従えば、ユダヤ人たちの行為は旧約の預言者の伝えたメッセージに逆らうものであり、彼らはそれ故に預言者たちの存在を抹殺してしまったことになると言うのです。

「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった」(51〜52節)。

 ステファノが最高法院での裁きの場で最後に語ったこの言葉にはそのような意味が隠されていたのです。どんなに聖書を熱心に読んでいても、その聖書が伝えようとするイエス・キリストを拒むなら、神の思いに反することとなり、神に従う者とは言えないのです。

(2)死刑判決を下されたステファノ

 そしてステファノから「神が送られる聖霊に逆らい、預言者たちを殺し、神が遣わされた正しい方イエス・キリストを殺した」と非難された議場の人々は思いはただ事では済まされません。

「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」(54節)。

 この後、ステファノは「聖霊に満たされ」(55節)と語られていますが、この議場にいた人々は心を聖霊ではなく、怒りと憎しみでいっぱいにさせてステファノに襲いかかろうとします。そしてステファノが「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(56節)と語ると、「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり」(57節)始めたのです。

 ここで語られている「耳を手でふさぎ」と言う行為はユダヤ人たちが神を冒涜する言葉を聞いたときの仕草を表しています。彼らはステファノの言葉を、神を冒涜する言葉だと考え、彼がその罪を犯したと判断したのです。議場がはステファノが死に価する罪を犯したと考え、石打ちの刑を執行することを決めたのです。この石打ちの刑はユダヤ人に伝わる伝統的な処刑方法でした。罪人は刑場である小高い丘に連れて行かれ、証人たちによって崖から突き落とされます。罪人が崖から突き落とされても絶命しなない場合は、証人たちが大きな石を罪人の頭の上に落としてその命を奪うのです。ステファノの処刑は一見、怒りに燃えて、正常な判断を失った人々が行った私刑(リンチ)のように誤解されるところもありますが、しかしその方法はむしろ伝統的なユダヤの慣例に従って執行されたものであると考えることができます。

2.ステファノが見たビジョン
(1)霊的な世界の真実を見る目

 この部分を読んで興味深く思えるのは、ステファノに向かって怒りの炎を燃やした人々とは対照的なステファノの姿です。自分に対して濡れ衣を着せ、殺そうとする人々に対してステファノは恨みの言葉を一言も述べることはありませんでした。いえ、このとき「聖霊に満たされた」ステファノの視界にはもはや、怒りに満たされて彼を取り囲む人々の姿はなくなってしまっているのです。そのわけは彼には全く違う光景が見えたからです。

「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った」(55〜56節)。

 ステファノがこの時に立たされていたのはエルサレムの最高法院の議場でしたから、おそらくそれは屋内であったはずです。ですからステファノが「天を見つめた」と言うのは空を見上げたと言う意味ではありません。そこでは天井しか見えないからです。ですからステファノはここで「神のおられる天を見上げた」、あるいは「神を見上げた」と言ったほうがよいでしょう。つまり、ここで表現されているのは誰もが肉体の目で見ることができる視覚的な世界の表象ではなく、ステファノがその信仰の目を通して見ることが出来た霊的世界の真実の姿なのです。
 先日、私は教会学校のお楽しみ会で旧約聖書に登場する預言者エリシャにまつわるお話をしました(列王記下6章)。イスラエルを侵略しようとするアラムの王の作戦をすべて見破ってしまうエリシャの働きを知って、アラムの王は大軍を送り、預言者エリシャの住むまちドタンを包囲させます。その光景を朝早く見た預言者の召使いは驚き恐れます。しかしエリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」(16節)と言って、その召使いの心の目が開かれるように神に祈るのです。すると、心の目が開かれた召使いはアラムの軍隊の数をはるか超えて取り囲む天の軍隊の姿を見ることができたのです。このとき、神はステファノに聖霊を送ることで目に見える世界の出来事ではなく、目に見えない霊的な世界の真実を知らせてくださったのです。

(2)ステファノに働いた聖霊の働き

 ですから、ここでステファノから語られている光景はステファノ以外には理解できなかったものでした。使徒言行録の記者はこのステファノの証言に基づいて、このときの霊的な世界の真実を私たちに伝えているのです。聖霊に満たされたステファノにとって、この霊的な世界の真実はそのほかのすべてのことに勝って確かなものでした。使徒言行録の記述によればステファノの目はこのとき天におられる主イエスにだけに向けられていることがわかります。

「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)。

 これらのステファノの言葉は主イエスが十字架にかけられたときに語られた言葉とよく似ています。天におられる主イエスの姿を見て、その主イエスと同じような言葉をその最後に口にすることがステファノにはできたのです。このステファノの姿から私たちは聖霊の働きの特徴をここでよく理解することができと言えます。聖霊は主イエスが私たちに与えてくださる霊であるとともに、主イエスを導いた霊なのです。聖霊は、私たちに不思議な神秘的体験をさせると考える人がいます。しかし聖書によれば聖霊の本当の働きは、その人の心に主イエスを明確に示し、またその人を主イエスに似る者になるように働かれるのです。

(3)立ち上がられたイエス

 ここで興味深いのはステファノが見た霊的な世界の真実の中で「人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言っている点です(56節)。使徒信条の文章の中にも登場しますが、私たちはよくイエスは「神の右に座した」、「座られた」と言う表現を使います。しかし、イエスが「神の右に立っている」と言う表現はきわめて珍しいものなのです。ですから古代の説教者たちはこのイエスの姿を、ステファノのために立ち上がり身を乗り出して、その霊を受け取ろうとしているのだと解説しています。イエスは信仰者の苦難に対して、じっと天の座に座っておられる方ではなく、その人の生涯に積極的に関わり、守り導かれる方だからです。
 「激しい試練の中で自分は果たしてこの殉教者たちと同じように信仰を守り続けることができるのだろうか」。私たちはこのような聖書の箇所を読むと、かえってそのような不安を覚えることがあります。しかし、聖書はステファノの立派な信仰を見よとは私たちに教えているのではないのです。むしろ、ステファノの受けた試練に対して、天から身を乗り出して彼を助け導かれたイエスの姿を見なさいと教えるのです。そのイエスは私たちをも同じように導いてくださる方なのです。ですから私たちの信仰はこのイエスの働きによってのみ確かなものとされることをここでもう学びたいのです。そしてそのイエスに私たちの信仰生活をゆだねていきたいのです。

3.生きている祈り
(1)歴史の転換点にあるステファノの死

 さて、教会ではこのステファノの殉教の死以後もたくさんの殉教者が現れました。ところが聖書がこれだけ詳しく、その殉教の姿を記録するのはステファノの場合だけなのです。教会の伝承によれば使徒ペトロもまた使徒パウロも殉教の死を遂げたと言われています。しかし、聖書は彼らの死を取り上げていません。それに反して、どうしてこのステファノの殉教だけは特別な扱いをされているのでしょうか。それはこのステファノの死をきっかけに教会の働きが大きく変わっていったからです。特にこれ以後、キリストの福音は小さなユダヤ民族の範囲を超え、異邦人へ、つまり世界宣教へと広がっていくのです。ステファノの殉教はキリスト教会の歴史の転換点とも言える出来事なのです。そしてこの後の教会の働きを理解するために忘れてはならない人物は使徒パウロです。そしてこのステファノの殉教の死の場面で初めてこのパウロの名前が登場しているのです。

「証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」(58節)。

「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」(8章1節)。

 ここでパウロは元々の名前「サウロ」と言う名前で紹介されています。またここではステファノの死に積極的に関与した人物、教会の迫害者として登場しているのです。やがて、この使徒言行録はこの教会の迫害者であったサウロが、パウロとされ、世界にキリストの福音を伝える者とされたことを語り出します。

(2)死んでも、生き続ける祈り

私たちはここで、このパウロの登場とステファノの残した最後の祈りの関係を考えたいと思います。
 ステファノは自分を石で撃ち殺そうとしている人々について、主イエスに執り成しの祈りを献げました。
 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」。
  これは彼らの罪を赦してほしいと言うステファノの祈りの言葉です。「彼らも救いを受けることができるように」と願う伝道者ステファノの最後の祈りになっているのです。そしてこの祈りは無意味に終わることがありませんでした。なぜなら、このステファノの祈りがパウロを救い、パウロが伝道者とさせる道筋を開いたからです。
 使徒言行録に記されたステファノの法廷での証言や、最後の姿はきわめて詳細です。そして詳細な記録には必ずそれを証言する人が存在していなければなりません。使徒言行録の著者ルカはパウロの助手として働いた人物でした。ですから彼はパウロからこのステファノの物語を詳しく聞かされていたのかもしれません。また、パウロ以外にもこのときステファノの裁きと死に関わりながら、やがてイエスを信じて、教会のメンバーになった人々が他にもたくさん存在していたのかもしれません。そして彼らは皆、このときのステファノの姿を忘れることなく証言し続けたのです。なぜなら、それらの人は皆、このときのステファノの祈りを特別な意味で受け止めることができたからです。彼らは自分が神に導かれ、救われたのはこのステファノの祈りによるものだったと考えたのです。
 確かにステファノの地上の生涯はここで終わっています。しかし、ステファノの献げた祈りはここで終わったのではありませんでした。その祈りが彼の死の後も生き続け、その祈りへの答えが地上にこの後も、続けて実現することとなったのです。

 私たちの地上の生涯もやがて終わります。しかし、私たちが神に献げた祈りは私たちの死を超えて、この地上に生き続けることができるのです。ステファノの祈りはそのことを私たちに教えます。私たちの献げた祈りを、神にはむなしくされることはありません。私たちがこの地上から離れてしまった後でも神は必ずその答えをこの地上に実現してくださるのです。
 私たちの信仰生活は先に天に召された信仰の先輩たちの祈りによって今も支えられています。彼らの献げた祈りの答えが今の私たちの信仰生活の上に実現しているからです。同様に、私たちもこの祈りの遺産を私たちの子孫に残すことができることを覚えたいのです。神はステファノの祈りに答えて、パウロを導かれたように、私たちの祈りを通して、私たちの信仰の後継者を必ず立ててくださるからです。

【祈祷】
天の父なる神様
困難の中で主イエスを見つめ続け、その信仰を全うすることができたステファノの姿を学ぶことができて感謝します。あなたは私たち一人一人にもステファノと同じように聖霊を送り、その信仰生活を全うすることができるように導いてくださいます。ステファノの献げた執り成しの祈りによって救われた人々がいたように、あなたは私たちの献げる祈りを決して無駄に終わらせることはありません。その真実を覚えながら私たちが私たちの後に続く人々のために祈ることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。