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2012年5月6日 「サマリアでのフィリポの働き」
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聖書箇所:使徒言行録8章1〜13節(新P.227)
1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。
2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。
3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。
4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。
5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。
6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。
7 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。
8 町の人々は大変喜んだ。
9 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。
10 それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。
11 人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。
12 しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。
13 シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
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1.ステファノの殉教への反応
(1)聖霊の働き
ステファノの殉教の出来事について先週学びました。キリストの福音を大胆に語り、そのキリストを受け入れない人々の罪を聖書に基づいて告発したステファノに対して、最高法院に集う人々はステファノが神を冒涜する罪を犯したものと判断し、彼を石打ちの刑に処し殺してしまいました。聖書はこのステファノが人々の前で臆すことなく、殉教の死にまで至った姿を語りながら、ステファノがそのように生きることができたのは神が送られた聖霊のみ業のお陰であり、その聖霊を通してイエス・キリストご自身が彼の人生に積極的に関わってくださっていたことを記しています。
このステファノの人生にだけではなく、使徒言行録の記者は続けて教会の上に聖霊が働き、キリストの福音が彼らを通して全世界に広がっていったこと記録しています。実際にそこでキリストの福音を宣べ伝えたのはステファノであり、フィリポであり、バルナバであり、パウロであるようにそこには様々な働き人が登場します。しかし、使徒言行録はこのいずれの人物も聖霊によって用いられた働き人に過ぎず、その世界伝道の実際の主人公が神であられる聖霊ご自身であることを私たちに教えようとしているのです。そこで私たちが知ることができるのはこの聖霊の働きが多様であると言うことです。聖霊は私たちを工場で作られる「ロボットのような画一化した製品に作り上げるのではありません。その人の個性を用いて、またその人のおかれている状況を用いて多様に働き、神のみ業を現されるのです。今日はその聖霊の別の働きを学んでみたいと思います。
(2)散らされた人々
今日の最初の箇所ではステファノの殉教がもたらした影響について、いくつかの人々の反応を書き記しています。まずステファノの殉教によってエルサレムの教会に対する大迫害が起こります。今までこの使徒言行録はエルサレムの宗教指導者たちによってキリスト教会の伝道が禁止され、またそれを破って福音を伝え続けた初代教会の人々が投獄されるような出来事を記してきました。しかしそこではまだ「迫害」と言う言葉が使われていません。使徒言行録はここで初めて「迫害」と言う言葉を使って、エルサレムの教会が遭遇した困難な出来事を報告しています。その迫害の内容は「サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」と記されています。今までとは違って教会の指導者や伝道者たちだけではなく、一般の信徒が男女、年齢の差を問わず激しい迫害を受けることになったのです。
私たちは先日、ユダヤ人たちの脅しに屈することなく勇敢に殉教の死を遂げたステファノの姿について学びました。ところがその後、教会で「あの勇敢なステファノの後に続け」と言うような勇ましい信徒が現れたとはここで語られていないのです。むしろ「エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」と記されているように、迫害を受けた人々はエルサレムから逃げ出して行ったと言うのです。彼らは決して命知らずの勇敢な信仰者ではありません。キリストを信じながらも、なお、自分の持つ弱さと戦わなければならない人々だったのです。そして彼らは迫害者たちの力に抵抗し続けることができず、彼らの手の届かない場所へと逃げ出して行ったのです。ところが聖霊の働きはここでもまた多様です。力もなくエルサレムから逃げ出すしかなかった人が、その散らされていった場所でキリストの福音を語り始めたと言うのです。一カ所に止まればまた追っ手にとらえられる恐れがあります。だからこそ彼らはいろいろな場所を「巡り歩く」ことになりました。しかし、その結果、この人々を通して福音がエルサレムを超えてユダヤとサマリア地方に広まって行ったのです。
私たちはそれぞれ、信仰者でありながらも弱さを持って生きています。「もっと強かったら、もっと優秀だったらよかったのに」にと思うことがたびたびあります。しかし、私たちの神であられる聖霊は私たちには決して都合のよくない私たちの弱さも、また様々な状況も用いて神の計画を私たちを通して実現してくださるのです。
(3)そのほかの人々の反応
使徒言行録はこの迫害にもかかわらず使徒たちがエルサレムに留まったことを記しています。この理由は様々に考えられます。エルサレム教会に対する責任を最後まで果たすために、彼らはエルサレムに留まったとも考えることができます。また別の説明では、ステファノの殉教を境に起こった大迫害の対象はギリシャ語を話す海外から帰国し、キリストを信じたユダヤ人であったので、使徒たちのようにヘブライ語を話すキリスト者は例外だったとも考えることができます。確かにステファノの事件はギリシャ語を話すユダヤ人たちとの関係の中で起こったものでした。またステファノも、そして今日のところで登場するフィリポもこのギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者の世話をするために選ばれた教会役員でした。そして彼らの使うギリシャ語は現代の英語と同じように当時の世界では国際語でした。ですから彼らはギリシャを自由に話すことで、どこに行ってもキリストの福音を伝えることができたのです。この点から見れば不思議な神様の計画がそこにあったとも考えることができます。
さらにここでステファノの遺体を葬ったと言われている「信仰深い人々」が登場しています(2節)。使徒言行録が「信仰深い人々」と言う場合にはキリスト者ではない敬虔なユダヤ人(2章5節参照)を表します。教会の伝承の中にはかつて議会で使徒たちへの迫害を止めるように訴えた律法学者ガマリエルがこのステファノの遺体を引き取り、自分の持っていた墓に葬ったという話も残っています。ステファノの生死をかけた証しに心打たれた人々がそのステファノの遺体を葬ったと考えることができるのです。
続いてここではサウロ、後のパウロの反応が記されます。彼はここでは積極的な教会の迫害者として、しかもそのリーダーとして活動したことが記されています。聖書がこのようにしてサウロの行状を示すのは彼がかつては一辺の曇りもなくキリスト教の迫害者として歩んでいたことを強調するためです。そしてそれは後に起こる彼の回心が神の奇跡的なみ業の結果であることを表すためなのです。このように聖霊のみ業はある人にはその人生で少しつ変化をもたらして、その人がキリストを信じるようにさせます。しかしまた、それとは違い人間的には「絶対にこの人はだめだ」と考えられるような人間に働いて突然の変化を起こさせ、キリストを信じさえせることもできるのです。
2.フィリポの行うしるしとその意味
さて使徒言行録は教会に起こった迫害によって各地に散らされて行った人々の中で、次にサマリアでのフィリポの活動に私たちの目を向けさせようとします。フィリポは先ほど説明しましたように、ギリシャ語を使うユダヤ人キリスト者の世話をするために新たに選ばれた教会役員の一人でした。おそらく同じ役員仲間であったステファノとも大変に親しい関係にあったとも考えることができます。フィリポはステファノの残した福音宣教に対する熱意を引き継いで、福音を大胆に人々に宣べ伝えたのです。
「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ」(5〜8節)。
福音書にも度々登場するように当時のサマリアとそこに住む人々はユダヤ人たちにとっては憎しみと蔑視の対象でした。それは長い歴史の中で作り出された両者の対立関係から生まれたものでした。しかし、イエスはかつて弟子たちに「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1章8節)と言われたことがあります。フィリポのサマリア行きは迫害と言う好ましくない原因から生まれたものでしたが、彼はこのイエスの言葉を信じて自分の置かれた場所でキリストの証人としての使命を果たそうとしたのです。
するとそこで数々の驚くべき奇跡がこのフィリポの手を通して起こりました。もちろん、これもまた彼が持っていた特殊な才能や力のせいではなく、彼を通して働くキリストの霊、聖霊の力によるものでした。つまり、このフィリポの起こした数々の奇跡は人々の目を聖霊とその聖霊を使わしたイエス・キリストに向けさせるものだったのです。また聖霊のこのような力ある業を通して神の国が実現しようとしているいことを人々に伝える意味もありました。この点でサマリアの人々の抱いた喜びは、神のみ業を自分たちが体験することができたことと、その神がイエス・キリストを通して自分たちを愛してくださっていることを知った喜びであると言えるのです
3.人の持つ力の限界と聖霊の力
このフィリポの業とは対象的な業を行っていた人がここで登場します。それがシモンと言う人物です。
「ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた」(9節)。
シモンは魔術を行って人々を驚かせました。もしかしたら彼もまた病気の人を魔術で癒すようなことができたのかもしれません。しかし、彼の業がフィリポの行った業と全く違う点はその目的にあります。彼は自分を「偉大な人物と自称していた」と語られています。つまり、そのような業を駆使して、彼は自分がどのようにすばらしい人物かを人々に示そうとしたのです。
「それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである」(10〜11節)。
人々の心はシモンの行う魔術によって奪われていたと語られています。つまり、シモンは自分の行う魔術の力によって人々の心を支配していたと言えるのです。
先日のテレビ、昔、超能力者として世間を騒がしたユリ・ゲラーが出演していました。私がまだ中学生ぐらいだったころ彼がテレビに出演して日本中の人々が大騒ぎしたことがありました。彼はそこでスプーンを自由自在に曲げて見せたり、壊れている時計を動かしたりとまさに日本中の人々の心を奪うような人気者だったのです。今考えて見ればスプーンを曲げたり、壊れた時計を動かしても、私たちの生活の何かが変わるわけではありません。それなのにとにかく人々は彼の超能力と称する業を見て大騒ぎしました。
おそらく私たちは彼の超能力ショーを見ながら、人間にはどこかに隠された能力があると言うことを信じようとしたのではないでしょうか。超能力と魔術は少し違うのかもしれませんが、いずれにしても人間はこれらのものを通して新たな力を持ちたいと願うのです。しかし、どんなに私たちが新たな力を得たとしても、私たちの人生を変えることはできないのです。死で終わらざるを得ない私たちの人生を救うことはできないのです。
このシモンの話はこの後も続いて行きますが、彼がファリポの行う業に関心を持ったのは自分もその力を手に入れたいと考えたからです。なぜならシモンが人々の心を満足させ、また彼らの心を支配するためには、さらに大きな力を手に入れる必要があったからです。それは彼自らがいつも不安を抱えていたことの証拠ではないでしょうか。なぜなら、彼自身も移り気な人々の心に答えて生きることを強いられていたからです。
私たちがどんなに不思議な力を手に入れても、私たちの人生を本当に変えることはできないのです。また私たちの人生を罪と死から解放させることもできません。ところがフィリポはそのような力とは別の力をこのとき人々に示したのです。それは死から甦られたイエス・キリストの力であり、そのイエスが遣わされた聖霊の力です。私たちの持つ力は私たちの地上での命が衰えるに従い、同じように衰え、やがては消え去って行きます。しかし、私たちを導く聖霊の力はそうではありません。聖霊はどのような困難な状況の中にあっても私たちを導き、私たちの信仰生活を守ってくださるのです。私たちはその聖霊の力をエルサレムから散らされたキリスト者の姿を通して、またファリポの働きを通して知ることできるのです。
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【祈祷】
天の父なる神様。
初代教会の働きの中で、世界宣教への働きを担った人々は迫害を恐れ、追っ手の手を避けて逃れていった人々で会ったことを学びました。しかし、聖霊は彼らの上に豊かに働き、彼らに与えられた使命を果たすことができるようにしてくださいました。私たちもまた、神の国のための働き手として神に招かれた者たちです。私たちにはその使命を果たすにふさわしい力はありません。しかし、その私たちをも聖霊は用いてくださることを覚えて感謝します。この聖霊の働きを信じて、困難の中でも主イエスに従う道を私たちに教えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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