Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年5月13日   「主の言葉を力強く証しする」

聖書箇所:使徒言行録8章14〜25節(新P.228)
14 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。
15 二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。
16 人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。
17 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
18 シモンは、使徒たちが手を置くことで、"霊"が与えられるのを見、金を持って来て、
19 言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」
20 すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。
21 お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。
22 この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。
23 お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」
24 シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」
25 このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。

1.使徒たちの派遣

 ステファノの殉教の死を境にして、キリスト教会に対する組織的で深刻な迫害が始まりました。このため、教会では使徒たちをのぞく多くの信徒たちがエルサレムを後にし、追っ手の追跡から逃れるための逃亡生活を余儀なくされました。ところが彼らは逃げるだけではなく、自分たちがたどり着いた場所でキリストの福音を語ったのです。聖霊はこのような人々を用いて、キリストの福音をユダヤやサマリア、そして世界へと広めてようとしてくださったのです。
 先週の記事の中でも特にステファノと同じ務めを教会で担っていたフィリポと言う人物がサマリアの地でキリストの福音を証しし、多くのサマリアの人々を信仰に導き、洗礼を受けさせたと言う出来事を学びました。今日はそのお話の続きです。
 やがてフィリポたちのサマリア伝道とその成果についてのニュースはエルサレムにとどまっていた使徒たちのところに伝えられました。使徒たちは「サマリアの人々が神の言葉を受け入れた」と言う知らせを聞くとすぐにペトロとヨハネの二人をこのサマリアに派遣しています。これは福音を信じて新たに教会に加えられた人たちの信仰生活を使徒たちが指導するためであったと考えることができます。特にサマリアの人々は長い間、独自の宗教生活を送り、ユダヤの人々の信仰生活とかなりの隔たりがありました。特に彼らは聖書の中でもモーセの記したとされる五つの書物だけを信じていたと言われています。しかし、キリストに対する正しい理解を深めるためにはそれ以外の旧約聖書の言葉も学ぶ必要があります。そのために使徒たちの助けが必要だったのです。

2.聖霊を受けたサマリアの人々
(1)洗礼と聖霊の働きの関係

 ところで、ペトロとヨハネはサマリアにやって来て特にそこで新たにキリスト者になっていたサマリアの人々のために「聖霊を受けるようにと祈った」(15節)と記されています。そしてその理由について使徒言行録は次のように説明しているのです。

「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである」(16節)。
 この言葉だけを読むとイエスの名によって洗礼を受けることと聖霊が降ることとは全く別な事柄として取り扱われているように思われます。つまり洗礼を受けただけではだめで、それとは別に聖霊を受けるという特殊な体験をしなければ真の信仰者になることはできないと言う理解が生まれる可能性があるのです。それでこのような聖書の箇所から特殊な聖霊体験が誰でもキリスト者になるためには必要であると主張する人々が生まれました。しかし、聖書は「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(コリント第一12章3節)と語るように、聖霊の働きを受けなければ神様を信じようと言う心が起こることはないと言っています。つまり聖霊の働きによって私たちは洗礼を受けると言う恵みにまで導かれるのです。また、聖霊はキリストの名によって洗礼を受けた人々の上に豊かに働き、その人の信仰生活を導き、救いの完成にまで至らせてくださるのです。だからペトロもかつて「「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(2章38節)と語り、洗礼を受けることと聖霊を受けることには切っても切り離せない深い関係にあることを語っているのです。

(2)聖霊の特別な働き

 それではここでペトロたちがサマリアの人々に聖霊を受けるようにと祈ったのはどうしてなのでしょうか。一つは彼らの信仰生活を導いてくださる聖霊が続けて彼らに降り、彼らの救いを完成させてくださるように彼らは祈ったと考えることが可能です。ただ、この後のシモンの態度から考えると、このときサマリアの人々が「聖霊を受けた」と言う出来事はシモンの目を奪い、また金を払ってもその同じ力を手に入れたいと願うような事柄であったことが分かります。この点では、私たちに信仰を与えるために働かれる聖霊の働きとは少し違った聖霊の特殊な働きがここで取り上げられていると考えてよいのではないでしょうか。
 以前、サマリアの伝道に従事したフィリポが病気の人を癒し、悪霊に憑かれている人から悪霊を追い出したと言う出来事を学びました(7節)。もしかしたら、使徒たちの手を通して聖霊がサマリアの人々の上にくだったときこれと同じような出来事が起こったのかもしれません。あるいはここで聖霊を受けた人たちもフィリポの同じような驚くべき業を行うことが可能になったのかもしれません。これらの聖霊の行う超自然的な御業はすべて神を証しするために行われるものです。私たちの教会の信仰告白の理解ではこれらの業は聖書が完成されるために必要な御業であったと書かれています。つまり、これらの出来事は新約聖書を完成されるために神が一時的にキリスト教会の上に示された御業だと理解することができるのです。そして新約聖書が完成された後は、神はこのような特殊な業を示す必要がなくなったのです。
 また、ここで起こった出来事は使徒たちの側から見れば、神の御業を確信するために大切な出来事であったとも言えるのです。なぜならばイエスは天に昇られる前に弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1章8節)と約束されたからです。このイエスの言葉が確かなものであったことを彼らはサマリアの人々の回心と、彼らの上に聖霊が降られたことを通して確信することができたのです。

3.金を持ってきたシモン
(1)フィリポを観察するシモン

 シモンと言う人物については先週の礼拝でも少し取り上げました。彼は魔術を行うことによって自分を偉大な人物と自称し、人々の心をその力で支配しようとしていました。そんな彼の前に彼の魔術とは比べものにならないほどの大きな力を持ったフィリポが現れます。そしてサマリアの人々の心は一斉にフィリポの方へと向けられることになりました。そこでシモンもフィリポに関心を抱き、彼自身もイエスを信じて洗礼を受けたと聖書は言っています(13節)。そしてシモンのその後の行動ついて使徒言行録は「いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた」と記しています。ここでシモンがフィリポの行うしるしと奇跡を「見て」と書かれていますが、この「見て」と言う言葉はもともと「じっと観察する」と言う意味を持った言葉です。シモンの関心はフィリポが伝えるキリストの福音の内容にあるのではなく、フィリポが行う驚くべき行為に会ったことが分かります。そして彼は何とかしてその力の秘密を知りたいと願っていたのです。
 もしかしたら彼は「自分もイエスの名によって洗礼を受ければフィリポと同じようなことができるかもしれない」と思って、フィリポの元で洗礼を受けたのかも知れません。しかし、洗礼を受けても自分の力には変化がないので、他にもどこかに秘密があるに違いないと思い、シモンはフィリポの後にずっと従い、彼の秘密を知ろうと観察していたのです。

(2)その力を売ってほしい

 そんなシモンの疑問がある意味で解かれるときがやってきました。それはエルサレム教会から教会の最高リーダーである使徒のペトロとヨハネがやって来たときに起こりました。なぜなら、彼らがキリストを信じた人々の頭の上に手を置いて祈ると、その祈られた人々の上に聖霊が降ったからです。ペトロたちが祈ってこのような不思議な出来事が実現したのですから、すべての力の秘密はこの聖霊にあるとシモンは考えたのです。そしてシモンは次のような行動にでます。

「シモンは、使徒たちが手を置くことで、"霊"が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」(18〜19節)。

 シモンはペトロたちに金を持って来て、「自分にも同じように誰かの頭の上に手を置けば聖霊が降るような力がほしい」と願ったと言うのです。つまり、彼は金でペトロたちの持っている力を買いたいと申し出たのです。中世のカトリック教会では聖職者の地位や、権限を金で売買するという悪癖が生まれました。宗教改革者たちはこの悪癖とも必死に戦ったのですが、聖職者の地位を売買すると言う行為は「シモニア」と言う言葉で呼ばれています。つまり、この聖書の箇所に登場するシモンの名前が、教会の中に生まれた悪癖を呼ぶ不名誉な名前として用いられたのです。それほどまでに彼の名前はこの後のキリスト教会の歴史の中でも有名になったわけです。
 シモンはいくら願っても、フィリポやましてやペトロやヨハネと言った使徒たちと同じようなことができないで悩んでいました。だから、その力を自分の持っている金で買い取ろうとしたのです。聖書のこの物語を読む限りで言えば、シモンは本当に悔い改めてイエス・キリストを信じたのではなかったのだと考えることが可能です。彼は自分が偉大な者と人々から呼ばれために、どうしても人の心を引きつける力を必要としたのです。その力がほしいためにシモンはフィリポから洗礼を受け、またペトロやヨハネの前に金を持ってくることになったのです。つまり、彼の上には今までも全く聖霊が働いていなかったと言うことになります。なぜなら、聖霊が働くならばどんな悪人であっても悔い改めて、心からキリストを信じることができるからです。聖霊が働かなければ誰も新しい命に甦ることはできません。彼の生き方は洗礼を受ける前も後も、全く変ってはいません。ただ自分の偉大さを証明し、そして人々の心を自分に結びつけたい、人々の心を支配しつづけたいと願うだけだったのです。

4.私たちの信仰生活は内側から支える聖霊
(1)聖霊をコントロールすることはできない

 そしてペトロはこのシモンの過ちを指摘し、彼が神様の前で本当に悔い改めるようにと勧めています。

「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている」(20〜23節)。

 シモンの過ちはどのようなものだったのでしょうか。第一に彼は神の賜物である聖霊の力を自分が自由にコントロールできる超能力のようなものであると勘違いしています。だから彼はその力を金と引き替えに使徒たちからもらうことができると考えたのです。聖霊の力は使徒たちのコントロールの元にあり、聖霊は彼らの命令で働いていると考えたのです。これでは全く、聖書が語る聖霊の理解とは違っています。なぜなら聖霊の力は私たち人間が自由にコントロールすることができるものではないからです。聖霊は神であって、私たちを導き支配される方なのです。確かにここでペトロとヨハネはサマリアの人々の上に聖霊が降るようにと祈りました。しかし、この出来事の主導権はこのペトロとヨハネの上にあったのではなく、聖霊の側にありました。聖霊はペトロとヨハネの祈りに答え、もっともよい場所で、またもっとも良い時を選んで、サマリアの人々の上に降られたのです。むしろペトロとヨハネはこの聖霊に用いられた人々であり、聖霊に導かれて使徒としての働きを果たすことができたのです。このようにシモンは聖霊が神であること、またその聖霊が自分たちを導いてくださることを知らないのです。

(2)高価な「神の賜物」

 シモンが犯した過ちの第二の点は、聖霊が「神の賜物」であることを理解しなかったことです。ペトロはこのことについて、「神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ」と言ってシモンを激しく叱責しています。
 「神の賜物」。それは神から送られる「贈り物」と言う意味です。贈り物は無償で与えられるからこそ贈り物になります。それを売買すれば贈り物ではなくなり、商品となってしまうのです。聖霊は神が私たちに与えてくださる贈り物です。つまりそれを金で買おうとするということはその贈り主の心を踏みにじるような行為であると言えるのです。
 確かに「神の賜物」を受け取るために神は私たちに何も要求はされません。しかし、言葉を換えて言えばこの神の賜物は私たちが支払えるような、あるいは私たちが自分の持っているもので交換できるようなものではないことを物語っているのです。私たちがどんなにお金を積んでも、またたとえ自分の命を献げたとしても、私たちはこの「神の賜物」を手に入れることはできません。それではこの「神の賜物」の価値とはどのようなものでしょうか。それはイエス・キリストの命と等しいものなのです。なぜなら聖霊はイエス・キリストが十字架にかかり、命を献げることによって私たちの元に送られることになったからです。つまり、「神の賜物」は私たちの側では何も支払う必要のないものと言えますが、もう一方ではこの賜物が私たちに与えられるために神自らが御子イエス・キリストの命を支払ってくださったと言う事実を示すのです。
 この事実を知らないものはこの神の賜物の本当の価値を知ることができません。シモンはそれを知らなかったからこそ、自分の持っている僅かな金で神の賜物である聖霊を買い取ることができると考えたのです。

(3)キリストの愛で満たしてくれる聖霊の力

 シモンの過ちの第三の点は、彼は人の信仰生活の外面だけを見て、その信仰生活を支える大切なものが何であるかを理解しようとしなかった点にあります。彼はとにかく、フィリポのような力がほしい、またペトロやヨハネのような使徒たちと同じことができるようになりたいと考えていたのです。
 私たちもまた、同じ過ちを犯す可能性があります。私たちが優れた信仰の先輩の態度を見習うことはある意味で大切です。しかし、それだけでは不十分です。なぜなら、私たちに大切なのは模範的な信仰生活の方法だけではなく、その信仰生活の成り立たせる力がどこから来るのかと言うことだからです。この力がない信仰生活は、どんなに外面は素晴らしいものに見えても、必ず枯渇してしまうのです。
 それではその力はいったいどこから来ていたのでしょうか。それがここで語られている聖霊の力です。聖霊は私たちの心をいつもイエス・キリストの愛に向けさせます。私たちのために命を献げ、私たちのためにすべてのことをしてくださったイエスの御業を私たちに示します。そして私たちの心をこのイエスへの感謝と喜びで満たしてくれるのです。フィリポやペトロやヨハネの信仰の力はここから生まれました。そして神はこの聖霊の力を賜物として私たちにも与え、私たちの信仰生活を支え導いてくださるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
イエス・キリストの献げられた命の代価によって私たちに与えられた豊かな賜物を感謝いたします。あなたはその最高の賜物として聖霊を私たちに送り私たちの信仰生活を内側から支え導いてくださることを感謝します。願わくわ、私たちの心をキリストの私たちに対する無条件の愛へと向かわせてください。この愛を知る者こそが、真の喜びと感謝を持って主のために生きることができます。聖霊が私たちの信仰生活の中で働いてくださり、乾くことのない泉のように私たちの信仰生活を潤してくださるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。