Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年5月20日   「どうぞおしえてください」

聖書箇所:使徒言行録8章26〜40節(新P.228)
26 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。
27 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、
28 帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。
29 すると、"霊"がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。
30 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。
31 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。
32 彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。
33 卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」
34 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」
35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。
36 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。
39 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。
40 フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。

1.伝道における神と人間との関係

 むかし教会の伝道について書かれた、「伝道における神の主権」とか、「神中心の伝道」と言う名前がつけられた本を読んだことがあります。今までに伝道について書かれた本はたくさんあります。そのすべての本に価値があるとは言えないかもしれませんが、何冊か読んでみると伝道についての示唆が与えられることもあるはずです。
 この伝道について昔から大きな議論があります。それは人が神様を信じて信仰者になるのは伝道する側に立つ人間の努力の結果なのか、それともその人を救うことを予め決めておられる神様の御心によるものかと言う問題です。ある人は人の救いは伝道する側の人間の努力によっており、その努力次第では神様の計画はいくらでも変わり得ると主張します。日本の教会が成長しないのは日本のキリスト者の伝道への熱意が足りず、努力を怠っているからだとも言う人がいます。
 しかし、もう片方では人が救われるのは神様の計画によるものであり、その計画を人間は変えることはできない。むしろ神様はそのご自分の計画に従ってキリスト者を用いて、伝道の業をこの地上に行ってくださっていると主張します。言葉を簡単にすれば「伝道の主人公は人か神かどちらなのか」と言う議論です。確かに伝道について考えることは大切ですが、私たちがこのような議論をすることで大切な時間を使ってしまうなら、肝心の伝道が疎かになる可能性もあります。
 昔から伝道における神と人間との関係は、刺繍が縫い付けられた布地に似ていると言われることがあります。表側から見れば大変きれいなデザインの刺繍が縫い付けられているように見えても、その裏側を見ると全くちがった模様になることを私たちは知っています。しかし、裏と表は違った模様でも、刺繍の糸は一本でつながっています。神と人間の働きのどちらかを強調しようとすることは、この布地のどちらか一方だけを見ることと同じになってしまいます。これでは伝道について正しく説明しているとは言えません。
 私たちの読んでいる使徒言行録は初代教会が行った伝道活動の記録であると考えることができます。この使徒言行録を書いた著者はその点で伝道における神と人間の働きをバランス良く描いていると言えます。一方には殉教をも怖れず伝道に励む使徒たちの姿が語られています。またその一方では彼らの働きを導く聖霊の御業が至るところで記録されているのです。ですから私たちも伝道についてこの二つの面を考えながら、私たちの伝道活動を進めていく必要があると思うのです。
 今日はフィリポの伝道活動の続きを学びます。フィリポによってサマリアでの伝道が開始され、さらにはその伝道を助けるためにエルサレムからペトロとヨハネがサマリアに遣わされたことを私たちは先日学びました。今日はその続きです。

2.私たちの人生に働く神

 聖書に記されるフィリポの活動はこの使徒言行録8章に記されるだけです。フィリポについては、わずかに同じ使徒言行録の21章でパウロがエルサレムにあった彼の家に何日か滞在したと言う記事が記されているだけなのです(8〜9節)。その点でフィリポはきわめて謎の多い人物であると言えるのです。しかも、彼の人物像をさらに神秘的にするのは今日の物語の内容です。フィリポはここで主の天使からの声を直接に聞いて伝道活動をはじめています(26節)、しかも、彼がここでの伝道対象であるエチオピアの宦官に近づいて行って、彼に話しかけたきっかけは「霊」がフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じられたからであると言えるのです(29節)。さらにもっとも印象深いのはエチオピアの宦官を信仰を導き、彼に洗礼を授けたフィリポは「主の霊がフィリポを連れ去った」(39節)ので一瞬にしてその姿が見えなくなってしまっている点です。ですから、この物語を読む限りではフィリポと言う人物は私たちとは全く違った、特殊な能力を持った人間のように思われるのです。
 しかし、ここでよく考えてみるならこの箇所での使徒言行録の記録の仕方は、むしろ伝道における神の側の働きを強調して示していると考えることができます。もちろん、ここに示されているような不思議な出来事が本当は起こらなかったと言っているのではありません。しかし、この箇所ではフィリポの側の働きはむしろ、神の働きを強調するために控えめに書かれていると言ってよいのです。
 つまり、このフィリポの箇所を読んで私たちはこうも考えることができるかもしれません。私たちが神を信じることができるようになった経験や、私たち自身が現在たずさわっている伝道の働きについて、私たちは人間の側の働きだけに注目しがちです。しかし、よく考えて見ると、その働きの中にも実は主の天使の語りかけがあり、また聖霊の命令があり、そして私たちを導く神の計画があったことを、私たちはこの聖書の物語を通して確認することができるのです。その点では私たちはなかなか気づくことが難しいのですが、私たちの人生にもフィリポと同じように神の働きかけが存在し、この神の働きによって私たちの今があることを忘れてはならないのだと言えるのです。

3.熱心な求道者

 さて、この物語のもう一つの特徴は伝道者フィリポに導かれて、最後には神を信じ洗礼を受けるに至ったエチオピアの宦官の求道過程が詳しく記されているところです。まず最初にフィリポと彼が出会うきっかけとなったのは主の天使の「ガザへ行け」と言う命令によるものでした(26節)。興味深いのは使徒言行録の記者がフィリポの行き先について「そこは寂しい道である」と言う説明をわざわざ付け加えている点です。この言葉には「廃れた」と言う意味もあります。「寂しくて廃れた道」に行ってもたくさんの人と出会うことはありません。伝道効率としてはきわめて悪いところにフィリポは天使によって「行け」と命じられた訳です。つまり、神様の計画は人間の計画とは大きく違うということをこの説明は語っているのです。しかし、人の考えとは違い神はその「寂しい道」で素晴らしい出会いを準備されているのです。

「フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」(27〜28節)。

 ここに登場するのはエチオピアの宦官です。彼は「女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていた」と言われていますから、政府の要職についた有力者の人であったことが分かります。彼はさらに「エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった」と言われていますから、真の神に対する関心を強く持っていた人物であることが分かります。特に彼は馬車の上でイザヤ書を朗読していたと言われています。現在の私たちは本屋に行けば簡単に聖書を買い求めることができます。しかし、この当時の聖書は人が手書きした写本で、簡単に手に入るものではありません。そんな聖書を持って一生懸命に馬車の上で読んでいたということですから、彼の求道の思いがどれだけ熱心であったかが分かります。
  ここで重要なのは彼の心を神に導いたのはエルサレムの立派な神殿でも、そこで行われている宗教的儀式でもなく、聖書に書かれた神の言葉であったと言う点です。聖霊は聖書の言葉を通して働かれます。ですから、私たちが神の御業を体験したいと考えるならば、なお熱心に聖書を読み、その言葉に耳を傾けることが必要なのです。

4.キリストの福音を理解する。
(1)キリストの贖いの死を示す聖書の言葉

 さらにここで大切なのは、このときエチオピアの宦官が聖書の中でもイザヤ書を、特にその53章7〜8節の言葉を読んでいたと言う点です。

「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ」(32〜33節)。

 このイザヤ書の言葉はイエス・キリストを預言する言葉として教会が最も大切な言葉と考えてきたものです。なぜならば、この言葉によってイエス・キリストがどうして十字架にかかって死なれたのか、その贖いの死の意味が明確に理解されるからです。神の御子であり、力ある方であったイエスが十字架にかかり、死なれたのは私たちの罪を負い、私たちに代わって神の罰を受けるためであったことがこのイザヤ書の預言から分かるのです。もちろん、このイザヤ書の言葉を私たちは簡単に理解することはできません。ですからエチオピアの宦官もここで「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(31節)とその問題について言及しています。彼にはここに語られている人物がいったい誰を指すのかが理解できなかったのです(34節)。

(2)聖書の言葉を解き明かす教会の使命

 彼にはこのイザヤ書の言葉を解き明かすフィリポの助けを必要としました。つまり、聖書を正しく理解するためにはフィリポの助け、私たちにとっては教会の助けが必要なのです。教会はそこに集う人々に聖書を正しく理解させるために働きます。教会の礼拝の中心はこの聖書の解き明かしにあります。つまり伝道と教会の礼拝は決して別々のものではなく、この二つの関係はきわめて密接なのです。私たちはそれぞれその求道生活、また信仰生活の中で熱心に聖書を読む必要があります。しかし、一人だけで聖書を読んでもその求道生活、信仰生活は不十分なものでしかありません。私たちは聖書の語る言葉の本当の意味を理解するために、教会の助け、聖書の解き明かしてくれる者の助けが必要なのです。
 さらにここで大切なのはその教会の行う聖書の解き明かしが何を目指しているかと言うことです。確かに沢山の人々が聖書を買い求め、そこに書かれている内容に心引かれ、また関心を持っています。しかし、その関心の内容は人それぞれ異なっています。ある人は山上の説教に出てくるイエスの言葉から究めて高い人間の倫理的基準を求めています。またある人はヨハネの黙示録に登場する不思議な言葉から世界の終わりがどのようにやってくるかについて関心を抱きます。しかし、教会が語る聖書の解き明かしはそのような人々の関心を満足させるために為されるものではありません。

「フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」(35節)。

 教会の語る聖書の解き明かしの目的は「イエスについての福音を告げ知らせる」ことにあります。たとえば旧約聖書の語る天地創造の物語を語り、そこに登場する創造の神を語ることはユダヤ教徒でもイスラム教徒でも出来ます。しかし、キリスト教会はこの天地を創造された神こそがイエス・キリストの父なる神であることを証しし続けてきたのです。なぜならイエス・キリストの福音こそが天地万物を創造された神の御業の本当の意味を私たちに教えてくれるからです。またこの福音によって、天地万物を創造された神と私たちがイエス・キリストによってどんなに深い関係にあるのかが分かるからです。
 聖書の語る高い倫理的基準をそのまま私たちの生活に適応することは困難です。しかし、その高い基準と私たちの現実の間にあるギャップは私たちにイエス・キリストの救いが必要であることを教えるのです。また、私たちがやがてイエス・キリストによって完全な救いを受けるときに、私たちがどのような新しい生活を送ることができるかを教えてくれるのです。
 聖書は確かにこの世界がやがて終わることを語っています。神がこの世界を正しく裁かれるときがやってくることを語っているのです。しかし、イエス・キリストの福音を知る私たちは、その裁きが私たちの救いを完成させるために行われることを知っているのです。また、やがて来る世界の終わりは、イエス・キリストの救いによってもたらされる新しい世界の始まるときであることをも知っているのです。だから私たちはそのときを恐怖するのではなく、希望を持って待ち望むことができるのです。
 フィリポによりこのキリストの福音の意味を知らされたエチオピアの宦官は聖書に対して抱いていた自分の疑問が解きほぐされて、神を信じる決心をします。そして「洗礼を受けたい」とフィリポに申し出ます。さらにエチオピアの宦官が洗礼を受け終わるとここでの使命をすべて終えたフィリポの姿は消えてしまうのです。
 私たちの人生の思い出の中にもこのフィリポのようにその姿を今は見ることができないたくさんの人がいるはずです。しかし、私たちが今、キリストの福音に導かれて、神を信じることができるのはこの多くの人たちが私たちに近寄り、私たちをキリストへと導いてくれたからではないでしょうか。そして、この物語はそのような人々の背後に神の確かな働きかけがあったことを私たちに教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちの信仰生活の上に、また伝道の働きの過程の中に、あなたの御業とその御業が実現するために熱心に働いた人々がいたことを、このフィリポの物語を通してもう一度思い起こすことできたことを感謝します。どうか、私たちをも彼らと同じようにあなたがその御業の実現のために用いてくださいますように。そのために私たちに熱心に励むことができる力と熱意を聖霊によって与えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。