Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年5月27日  「迫害者サウロの回心」

聖書箇所:使徒言行録9章1〜19節(新P.229)
1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、
2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
8 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。
9 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。
12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」
13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。
14 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」
15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」
18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、19 食事をして元気を取り戻した。

1.パウロの回心
(1)教会の迫害者サウロ

 今日は聖霊降臨を記念するペンテコステの礼拝です。この日、エルサレムに集まっていた弟子たちの群れの上に天から聖霊が降りました。キリスト教会はこの出来事が教会の新しい歩みが始められた日と考え大切にしてきました。聖霊はこのペンテコステの日以降、続けて教会に働きつづけ、この地上に大いなる御業を実現してくださったのです。私たちが今、学び続けている使徒言行録はこの聖霊がどのように教会に働き続けたかを記す記録です。ですから、この書物は「聖霊行伝」と言う名前で呼ばれることもあるのです。
 先日はこの聖霊がフィリポと言う人物を用いて、サマリア地方の人々、またエチオピアの宦官にまでキリストの福音を宣べ伝えたことについて学びました。そして使徒言行録の著者はこのフィリポの話を8章で書き終わると直ちにサウロ、つまり後のパウロのことについて語り出しています。
 このサウロは先に学んだエチオピアの宦官とは全く対照的にキリストの福音に導かた人物だと言えます。一方のエチオピアの宦官は聖書を学び、そこに記されたキリストについての預言に強い関心を持っていました。そして彼はフィリポの聖書の解き明かしに素直に従い、信仰を告白し、洗礼を彼から受けたのです。
 もう一方、ここに登場するサウロはキリストに対する関心よりは、むしろ強い敵愾心を抱いており、ましてやキリスト教会の聖書の解き明かしに耳を傾けようとはしなかった人物です。彼がこの使徒言行録に登場するのは7章のステファノの殉教の場面が始めてです(58節)。そこでサウロはステファノが石打の刑に処せられるための執行人の一人として重要な役目を果たしています。そして、サウロはこの後、続けてエルサレムの教会に対する迫害に積極的に荷担していくのです(8章3節)。
 その後、サウロはキリスト教会に対する迫害の手をやすめることはありませんでした。むしろ、この迫害によって海外に散らされて行ったキリスト者たちがそこでキリストの福音を宣べ伝えているいとを伝え聞いて、彼はそのキリスト者たちの活動を見逃すことはできないとその迫害の手をエルサレム以外の場所へと広げて行ったのです。

(2)キリストがサウロを変えた

 サウロの回心について、つまり彼が自分の今までの生き方の誤りを悟り、悔い改めてキリストを信じるようになった成り行きについて、いろいろな考えを語る人がいます。その中にはサウロはユダヤ人として徹底的に先祖たちの教えに忠実であろうと励んだが、その中で自己矛盾に陥り、論理的な破綻に至ったので、キリストの福音を受け入れるようになったと語る人がいます。つまり、サウロがキリストの福音を受け入れるための内面的、そして精神的変化は徐々に起こっていたと言うのです。ところが、使徒言行録の記事はサウロのこのような内面的変化の過程に一切触れることはありません。むしろ、サウロはこのダマスコの町に向かう道の途中まで、自分の生き方に確信を持ち、揺るぐことのない歩みを持ってキリスト教会を迫害しようとしていたことが分かるのです。
 戦争中に教育を受けた日本の子供たちが、皆、疑いなく天皇や国のために自分の命をささげることが当たり前であると考えたように、サウロもまたキリスト教会を迫害し、この地上から根絶やしにすることが神のためであり、信仰者としての自分に与えられた大切な使命であると考え、それを疑うことはなく、実行して行ったのです。
 それではそのようなサウロの生き方を全く変えてしまったのは何なのでしょうか。それがこの箇所に記されているイエス・キリストと彼との出会いです。つまり、サウロを変えたのは彼自身の力ではなく、イエス・キリスト自身なのです。ですから使徒言行録の著者はそのキリストの御業のすばらしさをここでも語ろうとしています。このキリストの選びは、何者にも拘束されない全く自由な選びです。しかもキリストはご自身が選ばれた人物を決して取り逃がすことはないのです。
 この世を生きていくためには自分に自信をもつこと、また自分の下す決断に自信を持って生きることは大切です。しかし、それは信仰の世界では逆です。もし、私たちが自分の力で、自分の決断で信仰を得たと考えるなら、その信仰はどんなに頼りがなく、怪しい信仰になるでしょうか。ですからもし、私たちが自分の信仰について確信を持ちたいなら、私の信仰は私ではなく、イエス・キリストによって与えられたもの、そのキリストが私たちの信仰生活を導く方であることをはっきりと認め、信じる必要があるのです。キリストは教会の敵対者であったサウロを、教会のために働く使徒として変えてくださったように、私たちをも変えてくださるのです。

2.イエスとの出会い
(1)それは私にしたことだ

 使徒言行録はこのサウロとイエス・キリストとの出会いを次のように記録しています。

「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」(3〜6節)。

 サウロはここでイエスの姿を見てはいません。しかし、彼は自分の名前を呼び、自分に語りかけてくださるイエスの声をはっきりと聞いたのです。イエスは彼に「なぜ、わたしを迫害するのか」、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と語られています。パウロは今までキリストを信じる者を男女問わず迫害し、牢に入れました。しかし、ここでイエスは「それは私にしていることだ」と言っているのです。キリストと教会の関係がここには明確に語られています。私たちがキリストの受けられたすべての恵みに共にあずかることができるのは、私たちとイエスが信仰によって一つの木のようにしっかりと結ばれて一つになるからです。これは逆のことを言えば、私たちの上に起こること一切をイエスは同じように自分に起こった出来事として受け止めてくださると言うことなのです。
 これは何と私たちにとって慰めとなることでしょうか。なぜなら私たちの苦しみの大きな原因は、自分だけが苦しんでいるという孤独感からやってくるからです。しかし、イエスはこの言葉からも分かるように、私たちといつもともにいて、私たちの苦しみを共にしてくださる方なのです。

(2)パウロの言葉の背後にある事実

 私は高校生の時から日本の仏教者の一人である親鸞と言う人の本を読んで色々と影響を受けました。多くの学者たちはこの親鸞の思想とパウロの思想にはいろいろな共通点があると主張しています。私が聖書を読み出したときに、そこに示される「ただ神の恵みのみ」と言った考え方に早く馴染むことができたのは、もしかしたら、高校生の時から親鸞の本を読んでいたからかも知れないと思わされることがあります。
 私が以前読んだ、パウロと親鸞の思想を比較検討する論文の著者は結論でたいへん興味深いことを言っていました。それはパウロの宗教思想の根底には彼がダマスコへの道でイエス・キリストと出会ったという体験があると言うのです。しかし、一方の親鸞には生ける阿弥陀仏に出会ったと言う経験は一度もないのです。
 私たちの信仰生活にとって聖書が納めているこの使徒パウロが記した文章は大変に重要なものです。しかし、それらの文章に記されている内容はパウロの頭から生まれたものではありません。確かにイエス・キリストが復活され、今も生きておられ、そのキリストがパウロに出会ってくださったと言う事実の上にパウロの主張のすべては成り立っているのです。ですからパウロの言葉はそのような意味でイエス・キリストが生きておられることを私たちに教えるものなのです。そしてイエス・キリストが生きていることを否定するなら、このパウロの言葉は全く意味がなくなってしまうのです。

3.主に用いられるアナニア

 さて、聖書はこのサウロの回心を記す言葉を語った上で、サウロだけではなく、彼の回心のために手助けすることになった一人の人物がいたことを記しています。

「ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った」(10節)。

 アナニアと言う人物は聖書ではこの箇所にしか登場しない、ある意味で謎に満ちた人物です。このアナニアは主から「サウロの元に行け」と言われたときに、その命令に躊躇していたことが聖書に記された彼の言葉から分かります。彼はサウロのことを予め知っていました。エルサレムの大祭司からの許可状をもらってサウロ言う人物がこのダマスコにキリスト教徒を迫害するためにやって来ることを知っていたのです。実際、サウロは今までたくさんの信仰の仲間たちを捕らえて苦しめて来たのです。もしかしたらアナニアはそのサウロを恐れてダマスコの町の一角で隠れていたのかもしれません。
 しかし、主はアナニアに「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(15〜16節)と語られました。

 人間の思いと神の計画の違いをこの出来事は示されています。アナニアはサウロは教会の訳には立たない危険人物だと考えていました。しかし、主はこのサウロを伝道者としようとしていたのです。私たちは自分の思いではなく、この主の計画に従って行くことが求められるのです。そしてもし、教会の人々が人間の思いだけで行動していたなら、私たちはおそらく今のように救われてはいなかったのではないでしょうか。
 昔、私が求道生活を送っていたときに熱心に指導してくれ牧師と話していたときに、その牧師が私と最初に会ったときの印象を思い出して語ってくれました。「こいつはだめかもしれな」。その牧師は最初に私と会ったときそう思ったと言うのです。しかし、自分には聖書を伝えると言う任務が与えられていたので、その任務を果たすために私を指導し続けたと言うのです。やがて私が神学校を卒業して牧師になったとき、その牧師は「あの人生に絶望していた青年が、神様を信じて、牧師になるなんて考えてもいなかったよ」と本当に喜んでくれたのです。
 教会が教会に与えられた任務に忠実に生きようとするとき、また私たち自身がキリスト者としての使命を忠実に生きようとするとき、神は私たちをも一人の「アナニア」として用いてくださるのではないでしょうか。確かに私たちの存在はこのアナニアのように、あまり目立つことがありませんし、またすぐに人々には忘れられてしまうかもしれません。しかし、神は私たちを用いてご自身の計画をこの地上に実現してくださるのです。
 ですから私たちも聖書のみ言葉を通して語りかけてくださる主の語りかけに耳を傾け、「主よ、ここにおります」と答えることができるようにと祈り求めたいのです。

【祈祷】
天の父なる神様
教会に対して徹底的な迫害者であったサウロがあなたとの出会いによって全く変えられた出来事を聖書から学びました。あなたの力と選びのすばらしさを覚えます。そのあなたが私たちをも選び、信仰者へと変えてくださったことを覚えることができるようにしてください。いつの間にか、自分が自分の力で信仰を得たように勘違いしてしまう私たちです。しかし、あなたは私たちのために何人もの「アナニア」のよう働き人を立てて、私たちの元に遣わしてくださいました。どうか、私たちもまた「アナニア」のようにあなたから与えられた使命に忠実に生き、あなたの計画のために働くことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。