Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年6月10日  「アイネアとタビタ」

聖書箇所:使徒言行録9章32〜43節(新P.231)
32 ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。
33 そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。
34 ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。
35 リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。
  36 ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。
37 ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。
38 リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。
39 ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。
40 ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。
41 ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。
42 このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。
43 ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。

1.ペトロの働き

 使徒言行録の記事はサウロの回心とその後の物語からいったん離れて、今日の部分からエルサレム教会の代表者の一人とも言える使徒ペトロの活動を紹介しています。そしてこの箇所ではリダとかヤッファと言う地名が登場しています。これらの都市はエルサレムから西側に向かって存在する町々です。ヤッファは地中海に面した港町で、ペトロは次の10章でこの町でローマの百人隊長コルネリウスの使いの訪問を受けて、コルネリウスの住む同じ地中海に面した町カイサリアに向かっています。つまり、今日の物語はこの異邦人であるコルネリウスとペトロとの出会いの物語への橋渡しの部分であるとも言えるのです。それでは、なぜペトロがこれらの町々に出向くことになったのでしょうか。

 「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った」(32節)。

 エルサレムにいたペトロが「方々を巡り歩」いていたのはなぜなのでしょうか。実はそこには一つのヒントが隠されています。なぜならば、ペトロが今日の箇所で訪問している町々がある地方を既に伝道者フィリポが訪問していた町々と重なるからです。聖書はこのフィリポの活動について次のように記しています。

「フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った」(8章40節)。

 聖書地図をごらんになられるとわかりますがフィリポが出向いたアゾトもカイサリアもどちらも地中海沿岸にあった町です。そしてこの二つの町のちょうど真ん中の位置に今日の物語の舞台であるヤッファがありました。かつてフィリポがサマリア地方で伝道し、その成果を上げた後、エルサレム教会はその地方にペトロとヨハネの二人の使徒を派遣したことがありました(8章14〜25節)。新しくキリストを信じるようになった人々の群れ、新しく生まれた教会を指導するためです。おそらく、この地中海沿岸の町々でもすでにフィリポの活動を通してキリストを信じる人々の群れ、教会が生まれていたのではないかと思われます。そしてエルサレム教会はこれらの新しい教会を信仰的に助けるために使徒ペトロをこの地に遣わしたと考えることができるのです。
 「クオ・バディス」と言うアメリカの古い映画をごらんになられた方はあるでしょうか。ローマの皇帝ネロの迫害下でイエス・キリストを信じる人々の姿が描かれた物語です。もう私はそのストーリー自身も少ししか思い出せないのですが、一つだけとても印象に残っているシーンがあります。それはローマの町に使徒ペトロがやってくることを聞いたキリスト者たちの感動のシーンです。彼らは「主イエスと共に暮らし、主イエスのことを一番よく知っているペトロが私たちのところにやって来る」と興奮しながら、ペトロを出迎え、彼からイエス・キリストについての話を熱心に聞いたのです。
 イエスを信じてキリスト者になった人の一番の関心の的はやはり、もっとイエス・キリストについて知りたいと言うことではないでしょうか。そのような人々のところにペトロが遣わされたのです。つまりペトロの使命は彼の知っているイエス・キリストについての知識をすべて人々に伝え、彼らを慰め励ますためにあったと言うことがわかるのです。そして今日の物語の意味はこのペトロの使命を理解するときに私たちにもわかってくるのです。

2.アイネアの癒し

 リダに住むキリスト者を訪問したペトロはそこで8年も中風のため床についていたアイネアと言う人物に出会います。この「8年間」と言う言葉は「8歳のときから」とも訳せる言葉です。彼が何歳であったのか、また既にキリストを信じていたのかどうかも聖書には記されていません。しかし、彼が相当長い年月の間、この病に苦しみ、床についていたと言うことだけはわかるのです。

ペトロはこの人に出会うとすぐに「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」(34節)と語りかけます。そしてこの言葉の後、アイネアは病癒されてすぐに立ち上がったと言うのです。

 ところで中風の人の癒しの物語について私たちが印象深く思い出すのは、やはりイエスのなされたみ業の一つです(ルカ5章17〜26節)。あるとき、男たちが中風の病で身動きがとれない人を床に乗せたままイエスの元に運んできました。ところがたくさんの人が戸口を塞いでいるイエスがおられる家には、そのままでは入ることができません。そこで彼らは、その家の屋根に上り、瓦を引きはがして、屋根に穴を開け、そこからイエスの要る場所に中風の人を床ごと吊り降ろしたと言うのです。イエスはこの中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(24節)と言われています。するとその人はすぐに立ち上がって、自分の寝ていた台を担いで帰って行ったと言うのです。
 ペトロが行った業はこのイエスの出来事を再現し、そのイエスの出来事を人々に伝えると言った意味を持っているのです。もちろんここでペトロが「イエス・キリストがいやしてくださる」と言っているように、このアイネアを癒されたのがイエス自身であると言うことは以前に起こった物語と何ら変わりなかったのです。
 つまりペトロはここで自分の行動を通してイエスのみ業を人々に示し、またイエスの御心を人々に伝えようとしたのです。長い年月の間、病に苦しむアイネアに対して、イエス・キリストはあなたが癒されて、起き上がって、自分で歩いていくことを望んでおられるとペトロは伝えたのです。

3.生き返ったタビタ

 さてこの点から言えば、次に起こるタビタと言う人にまつわる物語も同じような意味を持っていることがわかります。なぜなら、このペトロの物語のひな形になるような物語が既にイエスによって実現してていたからです。

「ヤッファにタビタ訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した」(36〜37節)。

 この婦人の名前はアラム語でタビタ、ギリシャ語ではドルカス、つまりその名は「かもしか」と言う意味を持っていました。そして、彼女は「婦人の弟子」と言われていますからキリストを信じる信仰者であったことがわかります。彼女は生前にたくさんの善い行いや施しをしていて、彼女の死に際して、たくさんの人々がショックを受け、悲しんでいたことがわかります。
 教会の仲間たちは彼女の遺体を清めて階上の部屋に安置すると、ちょうどリダの町にやって来ていたペトロに使いを送り、自分たちのところにきてくれるようにと言う伝言を伝えます。彼らがペトロを呼んだ理由ははっきり記されていません。ペトロを通して彼女が生き返ることを彼らが最初から望んだのか、あるいはそうではなくペトロに彼女の葬儀の司式を依頼し、悲しむ人々を慰めてもらいたかったのか、はっきりはしないのです。いずれにしてもはっきりわかることは、彼らはペトロの助け、ペトロを通して働かれるイエス・キリストの助けをこのとき必要としていたと言うことです。

「人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた」(39節)。

 この部分の記述からドルカスの人柄がよくわかります。そこに身よりのいない「やもめたち」が集ってきて、悲しみながらドルカスが自分たちのために作ってくれた下着や上着をペトロに見せたというのです。おそらくこのドルカス自身も身よりのない「やもめ」の仲間であったと考えられています。しかし、彼女はその境遇の中でも自分に出来ることを通して仲間たちに仕え、彼らを助けたのです。彼女のなした「善い行いや施し」とはあまっている布きれを集めて針と糸を使い、困っている人に下着や上着を縫ってあげることでした。しかし、その心を尽くした彼女の小さな業によって教会のたくさんの人々が励まされていたことがここでよくわかるのです。

 「ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた」(40〜41節)。

 ペトロが死んだタビタに「タビタよ、起きなさい」と呼びかけると、死んでいたタビタが生き返るという出来事が起こります。実はこの出来事も先ほど語りましたように、イエスがかつてなされたみ業にたいへんよく似ているのです。イエスは会堂長ヤイロと言う人の娘が死んでしまったとき、彼女の遺体が寝かされている部屋に入り、皆を外に出した上で、この娘に「少女よ、起きなさい」と語りかています(マルコ5章21〜43節)。そしてこのイエスの言葉によって死んでいた少女が生き返るという奇跡が起こりました。マルコによる福音書ではこのときイエスが語った言葉が「タリタ。クム」と言う言葉で紹介されています。そしてここでのペトロの言葉も「タビタ、起きなさい」、つまり「タビタ。クム」となり、イエスがかつてこの少女に語られた言葉と大変によく似ていたことがわかるのです。聖書によればヤイロの娘が生き返ったときにその部屋に居合わせることができたのは、その娘の両親と三人の弟子であった言われています。つまり、ペトロはこのイエスのみ業を間近で見て、よく知っていたのです。
 ですからペトロがタビタのためになした業は、かつてイエスが行われた業を人々に伝えるためのものであったことがわかるのです。そしてここでもまたタビタを生き返らせたのは、ペトロの背後にあって働かれたイエス・キリストご自身であったのです。

4.明らかにされたキリストの意志
(1)私たちの教会にも与えられている使命

 今日の箇所で取り上げられている二つの出来事はイエス・キリストを伝えると言うペトロの使命を十分に果たすためのものであったことが分かります。そして聖霊はペトロがその使命を果たすことができるために、彼の上に豊かに働かれたのです。
 ここで私たちはこの物語を通してキリストの教会に神から託された使命についてもう一度、よく考えてみたいのです。ここに記された二つの物語、病人の奇跡的な癒しや、死者が生き返ると言う出来事だけに私たちの目は向きがちです。つまり、私たちの日常の信仰生活とはかなりかけ離れた物語が記されていると考えるのです。しかし、ある人はこの聖書の箇所を解説しながら、私たちの教会でも、病に苦しむ人が大勢いるし、身近な仲間が突然天に召されて、悲しみに暮れる人たちがいるはずだと言っています。そう考えて見ると、ここに記されている出来事は私たちの教会の日常の風景の一つともつながってくるのです。それでは、私たちの教会はこのような出来事に遭遇するとき何をすべきなのでしょうか。
 確かに私たちはペトロが全く同じでことをすることはできません。しかし、今も生きて働かれるイエス・キリストはペトロを通して働かれたように、私たちを通しても働かれることは確かなはずです。そしてそのイエス・キリストから私たちに与えられている使命はこのペトロの場合と全く同じであると言えるのです。それはイエス・キリストを伝えるということです。長い病床で希望を失っている人にイエス・キリストを伝え、このイエスによって示された希望を伝えることです。また死の危機にある人に、また身近な者の死に遭遇し悲しんでいる人にイエス・キリストにある復活の命を伝え、慰め励ますこと、それが私たちに神からから与えられた使命であると言えるのです。

(2)キリストを通して示された神の思いを伝える

 この後の聖書研究会で学ぶ聖書の箇所(マルコ1:35〜45)の中で重い皮膚病で苦しむ人は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」とイエスに語りかています。彼はイエスが自分の不治の病を癒す力を持っていることを知っているのです。しかし、彼にはわからないことがありました。病に苦しむ自分を神がどう思っておられるのか、またその神から遣わされた方イエスが自分をどのように思っておられるのかと言うことです。だからこそこの人に向かってイエスははっきりと「私の心、私の意志だ。清くなりなさい」と語られたのです。
 どんなにすばらしい神がおられることがわかったとしても。その方が全能の力を持っておられることがわかったとしても、その方が私をどのように思っておられるのかわからなければその信仰は、またその知識は意味がありません。神が私の人生についてどのような計画を持っておられるのかがわからなければ、私たちの人生はどうなるかわからないものとなってしまうのです。しかし、イエス・キリストはその全能の神が私たちをどのように思い、どのような人生を歩むことを望んでおられるかを私たちに教えてくださる方なのです。
 神は私たちが病の故に希望を失ってしまうことを望んではおられません。神は私たちの人生がこの地上の生涯で終わってしまうことを望んではおられないのです。病む者に希望を持つようにと願い、死に臨もうとしている者に本当の命を自分から受けるようと願われているのです。そして教会の使命はこのイエス・キリストによって示された神の意志を人々にはっきりと知らせることです。そしてイエス・キリストはその使命に忠実であろうとする私たちの教会の上に豊かに聖霊を送り、そのみ業を表してくださるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
主イエスのみ業を人々に忠実に伝え、そこに示された主の豊かな愛を示すことに励んだペトロの物語を学びました。私たちも押しつぶされてしまうような現実の問題の中で、希望を失い、疲れ果ててしまうことがあります。そのような私たちにペトロが示したイエスのみ業を教えてください。そこに示された主イエスの私たちに対する深い思いを知り、希望を持って再び立ち上がることができるように私たちを導いてください。また、何よりも私たち自身が既に示された主イエスのみ業を人々に伝えることにより、多くの人々に希望を与えることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。