Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年6月24日   「幻によって示されたもの」

聖書箇所:使徒言行録10章1節〜33節(新P.232)
23 …翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。
24 次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。
25 ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。
26 ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」
27 そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、
28 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。
29 それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」
30 すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、
31 言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。
32 ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』
33 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」

1.ペトロとコルネリウスの出会い

 今日はローマ軍の百人隊長であったコルネリウスと使徒ペトロが見た幻と彼らの出会いについての物語から学びたいと思います。今日の聖書朗読は大変長いものになりました。実はこの使徒言行録の著者はこのコルネリウスに関する物語をたいへん詳細に書き記しています。この使徒言行録でコルネリウスが直接登場するのは10章の部分だけですが、続けて11章ではコルネリウスの回心に始まった異邦人たちの救いの問題がエルサレム教会で論議されています。このように使徒言行録の記者がこの出来事を詳細に記しているのは、それだけこの出来事が重要であることを表していると言えます。この物語は文章の長さからすればステファノの殉教の物語に匹敵すると言えるのです。つまり、このコルネリウスの回心の物語はステファノの殉教の物語と同じように教会にとって大変に重要な出来事であったと使徒言行録の記者は考えていたことになります。
 それではどうしてこのコルネリウスの回心の物語は教会にとって大切な出来事であったと言えるのでしょうか。そのわけはこの物語の結論となる11章18節の言葉から明らかになります。
「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」。
 この言葉からも分かるようにこのコルネリウスの出来事は神の救いの対象がユダヤ人だけに限定されているのではなく、「異邦人」つまり世界のすべての人々に向けられていることを教えているのです。
 元々、ユダヤ人は自分たちこそ神に選ばれた民族であり、神の救いに与るための必修条件とはその人がユダヤ人であると言うことにあると考えていました。そうなるとユダヤ人以外の、つまり「異邦人」が神の救いに与る方法は彼らが、ただ神を信じるだけでは不十分となります。異邦人たちが本当に神の救いを受けたいのなら神を信じ、割礼を受けてユダヤ人になる必要があると考えられていたのです。
 ところがこのコルネリウスの回心の出来事は異邦人がユダヤ人になることなく、そのままの立場でイエス・キリストを信じることで救いを受けることができると言う事実を表しています。そして教会はこの事実を公に認めることになったのです。それではこの大きな変化はいったいどうして起こったのでしょうか。誰か優れた人物が説得力のある言葉や行動で多くの人を納得させたからでしょうか。そうではありません。この出来事を導いたのは神であり、人間はその神の御心に従っただけなのです。今日はこのコルネリウスの物語を通じて、伝道や教会の働きについての神と私達人間の関係について少し学んでみたいと思います。

2.コルネリウスが幻で示されたもの
(1)コルネリウスの祈り

 「カイサリア」は地中海沿岸の町で、ユダヤの王であったヘロデはここにたくさんのローマ式の施設を建て、この町をローマ皇帝に献げたと言われています。そのため「カイサル」と言うローマ皇帝を表す称号がこの町の名前となっているのです。カイサリアにはローマ軍の部隊が常駐していました。コルネリウスの所属する部隊の名称が「イタリア隊」と呼ばれているのは、イタリア出身者の人々でこの部隊が構成されていたことを表しています。つまり、このコルネリウスはイタリア人であったと考えることができます。
 コルネリウスはローマの軍隊の「百人隊長」の勤めを負った軍人でしたが、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(2節)と記されています。彼は聖書が教える真の神を信じる人でした。しかし、彼は「改宗者」とは記されていないので、まだ割礼を受けてはいなかったと言うことが想像できます。つまり、コルネリウスは神を信じて熱心な信仰生活を送ってはいましたが、まだ自分が救われていると言う確信を持てずにいたと言うことにもなります。だからこそコルネリオは自分や自分の仲間たちが神の救いを受けることができるようにと祈り続けていたのではないでしょうか。そして神はこのコルネリオの熱心な祈りに答えてくださったと言うのです。
 その祈りへの神の答えは「午後三時頃」つまり、定刻の祈りの時間にコルネリオが祈りを捧げている中で与えられました。幻の中で天使が彼にはっきりと語りかけるのをコルネリオは聞いたのです。

「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある」(4〜6節)。

(2)伝道は私達に委ねられた大切な使命

 神はコルネリオの救いを求める祈りに答え、ヤッファにいるペトロを招くようにと彼を促しています。ペトロを通してイエス・キリストの福音を聞くようにと彼に教えたのです。興味深いことは、神はここでコルネリオの祈りに答えて彼の元に天使を遣わすのですが、天使を通してキリストの福音を直接に伝えると言うことはさせていません。その福音を伝道者ペトロの働きを介して聞くようにと促しただけなのです。伝道は神のみ業であることを私達は知っています。ところがそう言うと必ず、「それでは人間は何もしなくてもいいのではないか」と言う人が現れます。しかし、神はこの伝道の業を実現するために私達人間を必ず用いられるのです。天使の方が人間よりもすばらしい力を持っているはずなのに、神はここでペトロの働きの場を準備されています。私達はこの神の救いの計画の中で、伝道という重要な使命を与えられていることをこの物語から確認することできるのです。

3.ペトロの見た幻

 さて、神はコルネリオにだけに幻を見せ、今後何をすべきなのかを教えたのではありません。神はこの物語のもう一方の当事者であるペトロにも同じように幻を見せ、彼がすべきことがなんであるかを教えているのです。時間は昼の12時、つまり昼食時で誰もがお腹をすかす時間でした。ペトロもまた空腹を覚えていました。それでも彼が屋上に上ったのは神に祈るためであったと考えることができます。そして彼もまたこの祈りの内に不思議な幻を見ることになったのです。

「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた」(11〜16節)。

 お腹を空かしているペトロの前に食べ物となる様々な動物が幻の中で天から現れます。ペトロはしかし、それで喜んだのではありません。彼は「これは絶対に食べられません」と言ったのです。なぜならそこに現れた動物たちは「清くない物、汚れた物」と考えられていたものだったからです。つまり、旧約聖書の食物の規定の中で食べてはいけないと定められていた動物たちがそこに現れたと言うことになります。
 たとえば、私達の中で蛇を見て、「おいしそうだ」とよだれを垂らす人はあまりいないのと思います。しかし、蛇を食べる習慣のある国の人々はそうではありません。蛇を見て「おいしそうだ」と考えてよだれを垂らす人がいるのです。私達は子供のときから食べる習慣のないものを見ると生理的にそれを受け付けることができません。ペトロにとってここで示された動物たちは生理的にも受け入れることができないものだったと考えることができます。しかし、神はこれらの動物を示して「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」とペトロを諭します。「こういうことが三度あり」と言われています。この三度と言うのは正確な回数と言うより、最初は激しい抵抗を示したペトロが神によって完全に説得されたと言うことを表しているのです。
 それではこの幻はいったいどんな意味を持っているのでしょうか。ペトロがこの幻を見るとすぐにカイサリアからやってきたコルネリウスの使いが登場して、ペトロにコルネリウスからの招待を告げています。そしてペトロはこの後、実際にカイサリアでコルネリウスと出会う場面で自分が見た幻の解釈を次のように説明しています。

「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです」(28〜29節)。
 ペトロが見た幻の意味は律法に禁じられていると考えられた外国人との交際を神が許されたと言うことを示していました。なぜなら神にとってはどんな人も「清くない者、汚れている者」ではないため、人もそのように考えるべきことを神は幻を通してペトロに教えられたからです。そして、ペトロはコルネリウスの招きに答えて、カイサリアに行くことを承諾したのです。

4.神に従ったペトロとコルネリオ

 このように幻を通して神に導かれたペトロとコルネリオはカイサリアの町で対面することになりました。そして彼らは互いが事前に幻を見て、神のみ心を知り、この出会いまで導かれたことを語り合っています(24〜33節)。私達は二人の出会いの後の成り行きがどうなったのかを次の機会に詳しく学びたいと思います。
 ところで異邦人に対する伝道を教会の誰が最初に始めたのかについてはいろいろな見解があります。なぜなら、多くの人はその働きを始めたのはパウロであると考えているからです。パウロ自らが記した手紙ではむしろペトロは割礼を受けていない者との交際を他のユダヤ人から非難されることを恐れてやめてしまったことを批判しているからです(ガラテヤ2章11〜14節)。このことから、ある人たちはこの使徒言行録の記したコルネリオに関する物語の史実性にまで疑問を投げかけています。また、使徒言行録を今まで読んでいる私達は伝道者フィリポがサマリア伝道を開始したことをすでに学んでいます。当時のユダヤ人はこのサマリア人を汚れた者たちと考えていましたから、むしろ神の御心に従い、このサマリア人を伝道したフィリポの方がペトロよりも先に異邦人伝道に着手したとも考えることが可能なのです。
 私達はこのことについてどう考えるべきなのでしょうか。実は今日の聖書の箇所はその答えを私達にはっきりと示しているのです。誰が異邦人に最初に伝道したのか。使徒言行録の著者は問題なのはその順番ではなく、彼らがまさに神の計画に従ってこの異邦人伝道に着手することになったことを教えようとしているのです。ここでペトロとコルネリウスが互いに見た幻が詳しく記されているのは、この幻を彼らに見せた神こそがこの出来事の主導者であり、人はその神の御心に従っただけであることを教えるためだったのです。
 神は伝道と言う大切な働きを私達に人間に委ねられたと言うことを私達は先に触れました。ですから私達が伝道をしなければ福音は誰にも伝わりません。また人は神の救いに与ることができないのです。このように私達に一人一人には人の生死を左右するようなこの大切な使命が神によって委ねられているのです。しかし、私達がその使命を果たすために大切なことがあるとこの物語は更に教えています。それはこの伝道の業の主導者である神の御心に私達一人一人がまず聞き、それに従うと言うことであると言うのです。
 ここには幻と言う不思議な方法を通して神の御心を示されたことが語られています。確かに新約聖書がまだ完成していなかった時代、人はこのような超自然的な手段を通して神の御心を知る必要がありました。しかし、イエス・キリストによって実現した神の救いをはっきりと記す新約聖書が完成している今は、私達はもはや幻という超自然的な方法を経なくても、神の御心をこの聖書を通してはっきりと知ることができるのです。だからこそ、私達が神から委ねられた使命を果たすためには、まず私達が聖書の言葉を通して神の御心を知り、それに従っていく必要があるのです。

5.私達の活動を支える根拠は何か

 だいぶ以前にある一人の牧師が自分の長い教会での働きを元に一冊の本を書きました。そこには牧師として勤めようとする人が教会で誰もが体験するような貴重な体験が紹介されています。そして更にその牧師のアドバイスが記されているのです。私はこの本の著者をあまり知りませんでしたが、興味があったので本屋で買い求め、読んでみました。そしてとても便利な本だなと思いました。ところが私がこの本を購入した後、これもまた大変に有名な牧師がこの本の書評をしている文章に巡り会いました。その牧師はこの本を批評して、こういうのです。ここには牧師にとって大変貴重な体験やアドバイスの数々が書かれている。けれどもこの本には致命的な誤りがあると言うのです。その誤りとは、この本に記された結論の数々を根拠づける聖書の言葉が記されていないこと言うことなのです。
 教会の働きにとって一番に大切なことはその働きが神の御心に基づいているかと言うことです。確かに世の人々はたくさんの成功談を提供し、自分たちと同じことをすればあなたたちも成功すると教えます。しかし、教会が神の御心に耳を貸さず、人の知恵だけを頼りとして活動するならそれは教会の働きではなくなってしまいます。
 ペトロはこの物語の中で三度も同じ幻を示されて神に説得されたと言うことを先ほど触れました。それだけ私達の思いは神の御心に対して頑なであり、その御心とは違った結論を求めようとする傾向があるのです。しかし、教会の伝道が神によって祝福され、豊かなものとなるためには、まずその使命を担っている私達が聖書から神の御心を知り、その御心に従うことが大切であることを今日の物語は私達に教えているのです。