Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年7月2日   「人を分け隔てなさらない神」

聖書箇所:使徒言行録10章34〜48節(新P.233)
34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
36 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、
37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。
38 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。
39 わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、
40 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。
41 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。
42 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。
45 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。
46 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、
47 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。
48 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。

1.新たに示された真理

 今日も続いてローマの百人隊長コルネリウスに関する物語から学びます。今日の部分ではコルネリウスの招きに答えてカイサリアの町にやって来たペトロがコルネリウスたちにイエス・キリストについての福音を語る場面となっています。そしてその後、福音を聞いたコルネリウスたちの上に聖霊が降ります。その結果、彼らもまた洗礼を受けて信仰者の仲間に入れられたことが語られているのです。つまり、ここではペトロの語る説教を通じて、異邦人であるコルネリウスたちが実際に信仰を得ることができた過程が語られているのです。
 最初にペトロはこのようにコルネリウスたちに語りかけています。

「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(34〜35節)。

「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」とペトロは言っています。イエス・キリストの救いを受けるために国籍や身分など人間の持っている条件は一切必要ないと言っているのです。前回お話の際、当時のユダヤ人は神様の救いを受けるためには「ユダヤ人」であることが必修条件であると考えていたことを語りました。
 実はこれが救いの条件とはなり得ないと言うことをすでに福音書の最初に登場するバプテスマのヨハネが語っています。ヨルダン川で人々に洗礼を授けていたヨハネは当時、自分のところに集まって来た人々に「「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(ルカ3章7〜8節)と教えました。ヨハネは大切なのは自分がアブラハムの子孫であと言う条件ではなく、アブラハムと同じような神様への信仰を持つことが大切なのだと言っているのです。
 ときどき、「教会の礼拝に是非いらしてください」とお誘いした人から「いえいえ、私はまだ修行が足りませんから」と言う答えが返ってくることがあります。つまりそのように言う人は教会に出席するために何らかの条件が自分には必要だと思っているようなのです。しかし、このペトロの言葉が語るように救いを求める人には信仰以外の何の条件も求められていないのです。
 それではペトロがここで言っている「神を畏れて正しいことを行う人は」とのはどういうことなのでしょうか。実はこの言葉は神様との正しい関係を持つ人と言う意味の言葉で、言い換えれば「救いを求めている人」と言う意味であると言うことができます。ですから、その人が神様の救いを求めているのなら、誰でもその救いを信仰によって神様からいただくことができるのです。

2.ナザレのイエスのことを伝える
(1)あなたがたが聞いていること

 ペトロは次にコルネリオたちに向かってキリストの福音の内容を語り出します。日本人の中には「信仰というのは信じる対象ではなく、何かを信じると言う心が大切なのだ」と言う人がいます。そこで「鰯の頭も信心から」と言う言葉が生まれてくるのです。しかし、聖書が語る信仰はそのようなものではありません。いつも、信じる人には自分が信じる対象を理解することが求められているのです。なぜなら、キリスト教信仰は何か人が考え出した優れた思想を信じることではなく、歴史的な事実を信じる信仰だからです。このペトロの話の中には何度も「証人」と言う言葉が登場しています。これらの証人はキリスト教会が伝える信仰の内容が歴史的な事実の上に立っていることを証ししているのです。だからキリスト教信仰にとってはこの「証人」たちの存在が大変に重要になってくるのです。
 ところでここで語られるペトロの説教はたいへんに短い文章になっている共に、一つの特徴を持っています。それはこの説教には旧約聖書の引用がないと言うことです。ペトロの他の説教ではむしろ旧約聖書のいろいろな箇所が引用され、その聖書の言葉がイエス・キリストによる救いによって成就されたと説明されます。しかし、この説教はそのようなスタイルをとっていません。一つ考えられることはペトロの説教の相手がローマ兵であるコルネリオとその仲間たちであり、異邦人たちであったと言うことです。ユダヤ人であるならば彼らがよく親しんでいた旧約聖書の言葉を引用して説得することが得策だと考えられます。しかし、相手がそうでなければ、説得の方法も変わる訳です。ペトロはここでは旧約聖書の引用ではなく、「あなたがたはご存じでしょう」と言っています。ローマ兵たちも知っているイエス・キリストについての話から説得を初めているのです。イエス・キリストの十字架の死に際して、ローマの総督ピラトやその手下であるローマ兵は重要な役目を果たしました。カイサリアの町はそのローマ兵の根拠地でしたから、彼らもまたイエスについても様々な噂を聞いていたことは間違いありません。

(2)イエス・キリストとは誰か

 ペトロはここでまずイエスについて次のように説明します。

「つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです」(37〜38節)。

 イエスが地上の生涯で行った数々の事柄は彼が神から油注がれた者、つまりメシア、救い主であったことを示していると言うのです。
 そしてその上に立ってペトロは次にこう語ります。

「人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました」(39〜40節)。

 イエスは神から遣わされた真の救い主です。だからその救い主が十字架にかかって殺されたと言う事実は大切な意味を表すことになるのです。イエスの死は単なる人間の無力な死ではなく、神から遣わされた救い主の死だからです。つまり、その死は彼が救い主としての使命を果たすために必要であったことを表すのです。だからこの救い主イエスの死を通して神様の救いのみ業は成就したと言うのです。
 イエスの復活は神の救いのみ業が完全に成就したこと、このイエスを通して私達は救いを受けることが確かであることを証ししています。その上でペトロはこのイエスの復活は確かな事実だと語ります。「イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたち」がその証人であると言っているのです。
 このイエスを信じる者は救いを受け、その救いを拒む者は神の厳しい裁きから逃れることでえきません。そのような意味でこのイエスは「審判者」(42節)であると言っているのです。ですからイエスを信じる者はもはやこの神の裁きを恐れる必要はありません。イエスが私達に代わって十字架の上で神の厳しい裁きを受けてくださったからです。
 ペトロはこのようにコルネリウスとその仲間たちに対して彼らが信じなければならないイエス・キリストについての福音の内容を簡潔に説明しているのです。

3.聖霊の証印
(1)み言葉を通して聖霊は働く

 使徒言行録の記者はこのようにペトロが福音を語った後、その福音に耳を傾けていた人々に起こった出来事を次に記しています。

「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った」(44節)。

 この後、ペトロとの一緒にいた人々の証言が次のように記されています。「異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである」(45節)と。ここで聖霊が異邦人に降ったことを多くの人々が知り得たのは、コルネリウスたちが異言を語り、そして神を賛美したからであると言われています。ここではペンテコステのときに弟子たちの上に起こった出来事(2章1〜13節)と同じような出来事が起こっています。つまり、この出来事からも神が「人を分け隔てなさらないこと」が実際に証明されているのです。なぜなら、ユダヤ人も異邦人も神様か同じ賜物を受けることができたからです。
 私達はこの箇所から聖霊の働きの特徴を理解することができます。それは第一に聖霊は「み言葉」が聞かれる、語られる場所で働いてくださると言うことです。毎日曜日に教会の講壇からは聖書のみ言葉が語られます。それは単に礼拝の出席者の聖書に対する理解力を深めると言う意味だけでなされているのではなりません。それはそこに集う信仰者たちの上に今も同じように聖霊が降るために行われているのです。私達はこの聖霊の働きなくしては、一刻たりとも自分の信仰生活を維持することも、またその信仰を成長させていくこともできません。これらの業はすべて聖霊なる神の働きによるものだからです。ですから信仰者はいつも自分に対して聖霊が豊に働いてくださることを祈り求める必要があります。
それでは私達がこの聖霊の働きを受けるために一番よい方法は何なのでしょうか。それは教会の礼拝に続けて出席することです。そして毎週欠かさず、この礼拝の中で語られる聖書のみ言葉と、そのみ言葉の内容を解き明かす牧師の説教に耳を傾けることです。もし私達がそこで語られる言葉が、神が自分に語りかけてくださっている言葉として聞き、受け入れるなら、その人の上に豊に聖霊が働くのです。

(2)私達の信仰は聖霊からいただいたもの

 さて、聖霊の働きについてこの出来事から知れるもう一つの事実は、私達に信仰を与えてくださるのはこの聖霊の働きだと言うことです。ペトロは次のように語ります。

「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」(47節)。

 ペトロがこのように言えたのは、目に見える形でコルネリウスの仲間たちの上に聖霊が降ったことを目撃したからです。だから彼らの洗礼を拒む条件は一つもないと彼は語るのです。なぜなら、この出来事を通して聖霊がコルネリウスたちにイエス・キリストに対する信仰を与えてくださったと言うことがはっきりしたからです。
 聖霊の働きがあったからこそ私達はイエス・キリストへの信仰を持つことができます。この聖霊が働かなければ私達はイエス・キリストを自分の救い主として信じることはできません。つまり、私達の信仰は私達から出てきたものではなく、聖霊なる神が私達に与えてくださったものなのです。
 そうなると、私達がときどきやっている他人との信仰比べは無意味であると言うことが分かります。私達はよく身近な信仰の仲間たちの持っている信仰と自分の持っている信仰を比べては「私の信仰はまだまだ不十分で小さい」と嘆くことはないでしょうか。もしその信仰の根拠が私達の側にあるとしたら、そのような言葉を語ることは可能かもしれません。しかし、もし私達の持っている信仰がこの聖霊から与えられたものであるとするならばどうでしょうか。人の信仰と他人の信仰を比べることは愚かなことになるはずです。
 確かに私達はときどき自分の信仰の未熟さを嘆くときがあります。しかし、そんなとき私達に与えられている信仰は聖霊が与えてくださったものだと考えることができるならどうでしょうか。私達の信仰の力が今はたとえ隠されていても、いつか必ずその力を発揮するときがやってくることを私達は期待して信じることができるのです。なぜなら聖霊の与えてくださる信仰にはそのような力が十分に隠されているからです。
 ですから私達は自分たちの信仰生活において、自分の力ではなく、この聖霊の力を信じて歩むことが大切です。聖霊が私達に信仰を与え、その信仰を成長させ、最後にはその信仰を完成させてくださるからです。私達はこのように今日の物語から、聖書のみ言葉と聖霊の関係、そして私達の信仰と聖霊の関係を知ることができるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
今日も私たちを礼拝に招き、ここで語られるみ言葉を通して、私たちに豊に聖霊を送ってくださるあなたに心から感謝します。いつのまにか自分や自分の周りの人々にだけ目を向けて、あなたの確かな救いの働きを見失ってしまう私たちです。どうか私たちが私たちに働かれる聖霊のみ業に信頼することができるようにしてください。聖霊はこの困難な信仰生活の中で私たちを導き、イエス・キリストにある確かな救いへと導いてくださいます。私たちを日々強め、慰めてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。