Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年7月15日  「神のみ業を妨げることはできない」

聖書箇所:使徒言行録11章1〜18節(新P.234)
1 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。
2 ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、
3 「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。
4 そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。
5 「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。
6 その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。
7 そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、
8 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』
9 すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。
10 こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。
11 そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。
12 すると、"霊"がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。
13 彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。
14 あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』
15 わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。
16 そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。
17 こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」
18 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

1.エルサレムでの反応

 私たちはすでにカイサリアで起こったローマの百人隊長コルネリウスの回心物語を10章の記事から学びました。今日の箇所はその後日談と言ってもよい部分です。割礼を受けたユダヤ人ではない外国人のコルネリウスが洗礼を受けてキリスト者になった知らせはペトロがエルサレムに帰るよりもはやく、エルサレムで待つ使徒たちの元に伝えられました。もともと、ペトロはこのエルサレム教会の使徒たちの代表として、新たにキリスト者になった人々の信仰を訓練するために派遣されていました。ところが、エルサレム教会が計画したこととは違った、彼らが予想もつかなかったは新たな事柄がここで生じています。ペトロがカイサリアの町まで赴き、そこで異邦人たちに伝道して、彼らがイエスを信じて洗礼を受けたと言う出来事がそれです。
 今日の記事を読むとエルサレム教会の人々はこの出来事について全く予想していなかった様子が分かります。神のみ業は人の計画に従って起こることではありません。むしろ人は神が実現されるそのみ業にいつも従う必要があるのです。そこで大切になってくるのは、新たに起こったこの出来事は神のみ業であるのか、あるいはむしろ神の御心をよく理解していない人の勝手な行動の結果なのかを判断すると言うことです。そこでエルサレムに帰還したペトロはエルサレム教会の人々に「事の次第を順序正しく説明し」(4節)して、この出来事が神のみ業によるものであることを力強く論証したのです。そしてこのペトロの発言によって、エルサレム教会の人々は「「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した」(18節)と言うのです。
 それではペトロはどのようにこの出来事をエルサレム教会の人々に説明し、それが神のみ業であることを論証したのでしょうか。

2.異邦人との交わりの認めない人々
(1)異邦人と食事をするな

 ペトロの伝道によってコルネリウスやその親族またその知り合いの何人もの人々がキリストを信じ、洗礼を受けることとなりました。ところがこのニュースをエルサレムにいる人々が耳にして、それによって新たに起こった出来事が今日の部分の最初に紹介されています。特に「割礼を受けている者たち」はこのことについて不満を抱き、エルサレムに帰ってきたペトロを非難したと言うのです。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」(3節)。それが彼らがペトロの行動について問題にした事柄でした。つまり、ここではコルネリウスたちがイエスを信じて洗礼を受けたと言うことが直接に問題とされているのではなく、ペトロが割礼を受けていない異邦人と共に食事の席についたと言うことが非難の的となったのです。
 おそらくエルサレム教会のメンバーはヘブライ語を話す人々も、ギリシャ語を話す人々も同じユダヤ人として割礼を受けていたと考えられます。つまり、当初のエルサレム教会のメンバーは皆、「割礼を受けている者たち」で構成されていたと言えるのです。しかし、ここであえてペトロを非難した人たちが「割礼を受けている者たち」と呼ばれているのは、彼らが特に目に見える割礼と言う習慣を重んじ、ほぼ今まで通りのユダヤ人の伝統を守ることに熱心だったと人々であったことを言い表しているのです。ユダヤ人の伝統によれば彼らは決して割礼を受けていない異邦人と食事の席を共にすることはありませんでした。なぜならば、異邦人と共に食事の席につくと言うことは異邦人の持つ汚れが自分たちにも移って、自分たちの清さが損なわれると考えていたからです。ですから、当時のユダヤ人はもし誤って異邦人に触れたとしたなら、様々な清めの儀式を経てその汚れを取り去る必要があったのです。

(2)教会を一つにするものはイエス・キリストへの信仰

 ここに登場する「割礼を受けている者たち」はペトロのカイサリアでの行動はこの自分たちの伝統に反した不適切な行為だと非難したのです。彼らは言葉を換えれば、異邦人が救われると言う出来事よりは、自分たちが慣れ親しんでいる伝統を守ることが大切であると考えていたことになります。私たちの周りには確かに「割礼を受けた者たち」つまりユダヤ主義者は存在しません。しかし、このユダヤ主義者と同じように、誰かが救われて教会の仲間になるより、自分たちが慣れ親しんでいるものが破壊されてしまうことを好まない傾向があるのではないでしょうか。しかし教会が問わなければならないのは、その人がどんな習慣があり、どんなパーソナリティーを持っているかではありません。むしろその人が本当にイエス・キリストをだけを自分の救い主と信じ、そのイエスに従って信仰生活を送ろうとしているかどうかなのです。ペトロは自分の報告の結論部分で「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになった」と語っています。「同じ賜物」とはイエス・キリストへの信仰を言っていると考えることができます。そして教会を一つにするのはこのイエス・キリストへの信仰であって、人間の守っている伝統や習慣ではないのです。

3.確かめられた事実

 ペトロはここでもまた10章で語られている神から自分が見せられた幻の内容と、コルネリウスに告げられた天使のみ告げの内容を証言しています(5〜14節)。使徒言行録の著者は同じ内容の言葉を10章と11章で合わせて三回も繰り返して記しています。ですからこの内容についてはここで繰り返して説明することはいたしません。ただ、くどいように使徒言行録の著者がこの証言を繰り返すのはこの内容が疑うことのできない事実であることを読者たちにも理解させるためであったと考えることができるのです。ペトロが見た幻と、コルネリウスに告げられた天使のみ告げはこの出来事が主の導きによって起こった、神のみ業であることを教えています。またさらに、決定的なのは聖霊がペトロの説き明かしを聞いていた異邦人の上に降ったことです。これはイエスが遣わす聖霊が異邦人たちを信仰へと導いたという目に見える印であり、まぎれもなくこの出来事が主イエスのみ業によって起こったことを告げているのです。
 ところでペトロはこの報告の最後の方で、次のように解説を加えています。

「そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました」(16節)。

 使徒言行録の最初箇所の1章4から5節には復活されて弟子たちにご自分の姿を現されたイエスが、天に昇られる前に弟子たちに語った命令が次のように記されています。

「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(4〜5節)。

 この主イエスの命令がここでペトロによって思い返されているのです。つまり、ペトロはこの言葉を思い出すことで、カイサリアで起こった出来事がイエスの語られた約束の成就、預言が成就したのだと理解しているのです。以前もお話したことがありますが、教会で起こる議論を決着させるものは最終的には主の語られた言葉、つまり聖書の言葉なのです。
 私たちの改革派教会ではたいへん長い間、女性教職についての問題が取り上げ続けられています。女性を教会の牧師や長老にすることは教会にとってふさわしいのかどうかという議論です。教会の会議では「女性の立場を認めないのは時代遅れだ」とかと言うような主張では議場を説得することはできません。大切なのは聖書が女性の働きについてどのように言及しているかどうかなのです。そして、もし私たちの教会の今までの解釈が誤った聖書の理解によるものだと判断されれば、教会は悔い改めて聖書の言葉に聞き従わなければなりません。そのために教会では長い年月を重ねて、聖書の語っている内容についての検討が続けられているのです。
 いずれにしても、教会は絶えず聖書の語る神の言葉に耳を傾けていかなえればなりません。そうでなければ、教会は発言力の強い人の見解に傾いたり、時流に流されてしまうことになりかねないからです。ペトロはそのような意味で主の言葉をここで教会の判断のよりどころにとしようとしたのです。

4.明らかにされた主の真実

 ペトロの説明に耳を傾けていた人々は「静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した」(18節)と記されています。カイサリアで起こった出来事は確かに神のみ業であると彼らは認めることができたのです。
 「割礼を受けている者たち」は自分たちの狭い経験と知識だけに頼り、この主の真実を理解することができませんでした。これに対して主の示された真実は人間の狭い経験と知識を遙かに超えたものだったのです。主イエスを信じる者なら異邦人であってもユダヤ人であっても、割礼を受けている者でもいない者でも区別なく、その救いに与ることができると言う真実をエルサレム教会の人々はここで新たに知らされることで神を賛美したのです。
 私の母が亡くなってから一週間以上の日数が過ぎました。当初、母が亡くなったら葬儀は自分で司式をしようと考えていたのですが、結局友人の持田牧師に葬儀の一切をお任せすることになりました。また次の日の主の日の礼拝の説教も自分でしようと準備していたのですが、それも結局できず、わざわざ銚子からヤング宣教師に来ていただいて説教をしてもらいました。どうしてそうなったのかと言えば、私が思った以上に精神的にも肉体的にも疲れてしまったからでした。ちょうど母が亡くなる一週間前ぐらいから何度も何度も病院に呼び出されて医師に母の病状説明を聞かされました。医師は医学的データーに基づいて母の様態が思ったよりも悪く、治療方法がないことを私たちに告げました。そして最後には私たちは何もできず、母が病床で苦しみながら死を迎えることを待つことになったのです。しかし、これは私たち家族に特別ことではないのかもしれません。
 医者が医学的データーに基づいて語る事実は私たち家族の母に対する命に対する希望を奪い、その事実を認めて諦めることを促しました。人間の持つ狭い経験と知識は私たち家族に絶望的な事実を提供することしかできないのです。
 しかし、神が私たちに示してくださる真実はこの人間の提供する事実とは違います。ユダヤ人は「異邦人は汚れており、彼らと交わるだけで自分たちも汚れてしまう」と考えました。しかし、主イエスの十字架の救いはその異邦人をも救い、神の前に彼らをも聖いものとすることができるのです。同じように聖書はこの主イエスの復活の真実を私たちに提供しています。私たちの命は死で終わるものはなく、主イエスを信じる者は誰がも終わりの日に甦ることができる真実を私たちに告げているのです。
 ペトロは「わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」とここで語っています。確かに神がなさることを誰も止めることはできないのです。私たちに襲いかかる罪の力も、死の呪いも主の救いのみ業を妨げることはできないのです。ですから、私たちもまた神が聖書のみ言葉によって示す真実を受け入れ、希望を持って歩みたいのです。

【祈祷】
天の父なる神様。あなたは罪と死の呪いの中に生きる私たちにイエス・キリストを遣わし、その救いを成就してくださいました。イエス・キリストを信じる者に罪の赦しと、永遠の命を与えてくださることをはっきりと約束してくださいました。私たちがこのあなたの救いの真実を受け入れ、信仰生活を送ることができるようにしてください。私たちが絶えず聖書の言葉に耳を傾け、私たちの上に実現しているあなたのみ業を見分けることができ、そのみ業の故に喜び、あなたのを賛美して生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。