Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年7月29日  「教会の祈りと神の答え」

聖書箇所:使徒言行録12章1〜19節(新.P236)
1 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、
2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
3 そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。4 ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。
5 こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
6 ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。
7 すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。
8 天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。
9 それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。
10 第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。
11 ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」
12 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
13 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。
14 ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。
15 人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。
16 しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。
17 ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。
18 夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。
19 ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。

1.ヤコブの殉教とペトロの投獄
(1)エルサレム教会へのヘロデの迫害

 今日学ぶ使徒言行録の箇所ではエルサレム教会で起こった出来事が報告されています。11章でアンティオケア教会からユダヤの兄弟たちのために送られた援助品をバルナバとサウロがエルサレム教会に届けることになりました。そこでその援助品を受け取る側のエルサレムの教会ではそのころいったいどのようなことが起こっていたのか。それを説明しているのが今日のお話です。ですからこの12章の最後は「バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った」(25節)という言葉で終わっています。彼らから援助品を受け取るはずのエルサレム教会でもちょうど大変なことが起こっていたという報告がここに詳しく記されているのです。
 まずここで登場する「ヘロデ王」はイエスの誕生の際に登場する「ヘロデ王」の孫に当たる人物です(1節)。クリスマスの物語に登場するこのヘロデ王の死後、その領地は三つに分けられ彼の3人の息子たちがそれぞれの「領主」としてローマ帝国から任じられています。今日の部分登場するのはヘロデ・アグリッパ1世で、彼はローマの宮廷で育てられ、ローマ皇帝と親しい間柄であったため祖父ヘロデと時代と同じようにユダヤ全体を統治する王として任じられた人物でした。彼の祖母はエルサレムの大祭司の家系であるハスモン家の出身でしたから、エルサレムの宗教指導者たちとも親しい間柄であったといわれています。かつて、エルサレム教会はステファノの殉教から始まったユダヤ人たちからの迫害によって苦しめられ、多くの信徒たちがこのためにエルサレムから脱出することになりました。そして今度は、教会にヘロデ王の迫害の手が及んだと言うのです。しかも今度の迫害は国家権力の力を背景にするものでさらに深刻な影響を教会に与えることになったのです。

(2)人気を獲得するための策略

 ヘロデはまず「ヨハネの兄弟のヤコブ」つまりイエスによって弟子とされた十二人の一人であったヤコブをまず殺害します。どうしてヘロデはこのようにヤコブを殺害し、教会を迫害しようとしたのでしょうか。その理由が次に記されています。「そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした」(3節)。ヘロデの教会迫害の動機は自分の人気取りのためであったことがこの言葉から分かります。現代の政治家も自分の人気取りのためにいろいろなことをしています。ヘロデはユダヤの王でしたが、それはローマ帝国が勝手に決めたものであり、ユダヤの人々が彼を選んだ訳ではありませんでした。ですから彼はそのユダヤの人々の人気を獲得するために当時、彼らと激しい敵対関係にあった当時のエルサレム教会のリーダーの一人であったヤコブを捕らえ、殺してしまったのです。事件はそれで終わりません。ヤコブを殺害することでユダヤ人たちに喜ばれたヘロデは、もっとユダヤ人たちを喜ばせて、さらに自分の王としての人気を高めようとしたのです。彼は次にエルサレム教会の有力なリーダーだったペトロを捕らえてヤコブと同じ目に遭わせてようとしたのです。
 かつてペトロとヨハネはユダヤの宗教的指導者たちに捕らえられたことがありました。そのとき彼らは神様の不思議な力でこの窮地を脱出した経験を持っていました(5章17〜26節)。そのことがあったからでしょうか。今回、ペトロが捕らえられていた牢獄の警備は厳重です。「ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させ」(4節)ます。さらに「ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた」(6節)と言われています。おまけに牢から町に脱出するために彼は「第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所」を通らなければなりませんでした(10節)。人間の力ではどうにもならないような状況にペトロは追い込まれていたことが分かります。そして物語はついにペトロが処刑される前夜を迎えます(6節)。もちろん、教会はペトロのために何もしていなかったわけではりません。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」(5節)のです。

2.天使によって助けられたペトロ

 この夜に起こった不思議な出来事を使徒言行録の著者は次のように報告しています。

「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った」(6〜10節)。

 人間的には脱出不可能と考えられたこの窮地に「主の天使」がペトロに遣わされます。そして牢に捕らえられていた彼を牢から町へと連れ出したのです。主の天使の前にヘロデが幾重にも張り巡らした警備網は何の役にもたちません。

 しかし、ここで興味深いのはこの主の使いに助け出された当人であるペトロの反応です。ペトロは天使が自分に語りかける声を聞いて、「急いで起き上がりなさい」、「帯を締め、履物を履きなさい」、「上着を着て、ついて来なさい」という言葉にただ子供のように従うだけでした。なぜならペトロは「天使のしていることが現実のこととは思われなかった」(9節)からだと言うのです。つまり、彼は自分が経験していることが自分の夢の中で起こっていることだと勘違いしていたということになります。そして彼がこの出来事が現実であると悟るのは町の通りに導かれて、天使が自分から離れていった後だったと言うのです。ペトロのここにいたって初めて「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」(11節)と語っています。
 教会のメンバーもまた牢に捕らえられたペトロ自身も神に助けを祈り求めていたに違いありません。しかし、その祈りに神が答えてくださったとき、ペトロはその答えをすぐには理解することができません。彼は一連の出来事が終わったときに初めて、「神がわたしを救い出してくださった」と悟るのです。私たちの祈りと神の答えの関係はいつもこのような経路をたどるのではないでしょうか。私たちは神に自分の問題のために必死に祈ります。しかし、その出来事の渦中にある私たちは、そこで神が私たちのために手をさしのべてくださっていることを悟ることができません。私たちが神の助けが実際に自分に与えられていたことを悟るのは、いつもずっと後のことなのです。

3.喜びのあまり信じることができない

 さて、この神の助けをなかなか理解できないのはペトロ一人だけではありませんでした。それはペトロのために祈り続けていた教会の人たちも同じであったと言うのです。
 この当時、エルサレム教会はいくつかの信徒の家に集まり、そこで礼拝をし、祈りを捧げていたようです。ペトロは自分が牢獄から解放されると、その集会の会場の一つである「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」(12節)に向かいます。実はここに名前が登場するマルコが、この章の最後ではバルナバとサウロに同行して伝道旅行に旅立っています。彼はその後ペトロの助手として働き、このペトロからイエスの地上での言行を聞き取ってマルコによる福音書を記した人物だと考えられています。
 ペトロがこのマリアの家の門をたたくとそこにロデという女中が出てきます。彼女はすぐにペトロの声を聞き取ると「喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた」というのです(13節)。せっかく、ここにやってきたペトロを外に立たせ続けるという失敗を彼女は犯してしまいます。使徒言行録の記者は彼女を弁護して、「彼女は喜びのあまり」そのような失敗を犯したのだと説明を加えています。しかし、この失敗によって今度は彼女以外のそこに集まった人々の混乱ぶりも紹介されることになります。彼らはこのロデの報告を聞いて「あなたは気が変になっているのだ」といったり、挙げ句の果ては「それはペトロを守る天使だろう」と言い出したというのです。誰もペトロが厳重な牢獄から抜け出してここに来られるとは思っていなかったということがこの混乱から分かります。
 彼らはペトロがこの窮地から解放されるように共に集まり祈り続けていたのです。ところが彼らもまたその祈りへの神の答えを簡単に信じることができなかった訳です。使徒言行録の著者は神のみ業のすばらしさを忠実に示す一方で、そこに登場する人間を決して美化することなく、彼らのありのままの姿を描こうとしていることが分かります。エルサレム教会の人々は神の助けを祈り求めましたが、その答えがいつ、どのような形で与えられるかを全く知りません。そしてそれはこの使徒言行録の記事を読む私たちも同じなのです。エルサレム教会の人々の信仰が特別に優れていたから、また彼らの祈りが特別に優れていたから彼らの上に神の助けが与えられたのではありません。神はむしろ自分の力では何もできず、また何も理解できない私たちのために助けの手を伸ばしてくださるのです。

4.神の奇跡によって支えられている教会

 「そうは言っても、こんな不思議な出来事は私たちには決して体験できない」。ひょっとしたら私たちはそう考えて、この物語を片付けてしまうかもしれません。でも、私たちはこの物語の内容を最後にもう一度読み返して、確認したいところがあります。その第一は獄中に捕らえられていたペトロの姿です。ヘロデに捕らえられて脱出不可能な獄中で、「ヤコブのように自分が殺されてしまうかもしれない」と言う立場に彼はここで立たされています。祈っても状況は少しも変らず、刑場に引き出されようとしている日が迫った前夜、なんとペトロはここで眠っています。天使が脇腹をつつかなければ起き上がれないほどに彼は眠っていたというのです。私たちは心配事が少しでもあればすぐ眠れなくなるような弱い人間です。しかし、ペトロは自分が殺されるかも知れないと言うときにも眠ることができたと言うのです。とても不思議な出来事です。
 もう一つ不思議なことは教会で捧げられていた熱心な祈りです。「祈れば何でも大丈夫」。そんな安易な言葉を跳ね返すような現実を実はこの使徒言行録の著者はこのお話の最初に記しています。教会の人々の熱心な祈りも関わらずヤコブがヘロデによって殺されてしまったのです。「どうして神は私たちの祈りに答えてくださらなかったのか」。そんな教会の人々の嘆きが聞こえて来てもいいような厳しい現実の中で、教会の人々はそれでもペトロのために祈り続けたと言うのです。もうどうにもならないと言うような厳しい現実を突きつけられてもなお、教会の人々は神に祈り続けたのです。
 私たちがすでに学んだようにここに登場する人々は特別な力を持った人々ではありません。自分を助ける力も持たず、また彼らは明日の自分がどうなっているかも分からない人たちでした。しかし、そのような人々が窮地の中でも信仰を持ち続けて、祈り続けることができたのは、そこにすでに神のみ業が現れていたからではないでしょうか。神の奇跡は天使が遣わされる前から教会の上に起こっていたのです。同じように私たちの教会は、そして私たちの信仰生活はいつもこの神のみ業によって支えられています。私たちの上にも神の奇跡的なみ業が働いているのです。だから私たちの教会は存在することができ、私たちの信仰生活は続けられているのです。
 いつも、私たちは神のみ業を悟るのに鈍感な者たちです。しかし、そんな私たちにも関わらす、神はいつも私たちのために助けのみ手を差し伸べてくださるのです。その神に信頼して、私たちの教会の歩みを続けていきたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
ヘロデの激しい迫害の中にあっても希望を捨てることが無かったペトロ、ヤコブの無惨な死を経験してもなお、あなたに祈ることをやめなかった教会の人々の姿を学びました。彼らは皆、特別な人たちではなく、私たちと同じようにあなたのみ業に対して悟ることの遅い人々でした。しかし、あなたはそのような人々を捨てることなく、彼らの信仰を支え、教会を守り続けてくださったことを覚えます。私たちが同じあなたのみ業が私たちの上にも実現していることを覚えさせてください。厳しい現実の中にあっても、私たちを守り導いてくださるあなたの信頼することができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。