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2012年8月5日 「神に栄光を帰さない者に下された結末」
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聖書箇所:使徒言行録12章20〜25節(新.P237)
20 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。
21 定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、
22 集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。
23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。
24 神の言葉はますます栄え、広がって行った。
25 バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。
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1.ヘロデの死とその意味
私たちがこの礼拝で続けて学んでいる使徒言行録の著者は今日の部分で意外な人物について焦点をあてて物語を進めています。その人物は当時のユダヤの王であったヘロデ・アンティパス1世です。どうして初代教会における使徒たちの活動を紹介するために書かれたこの使徒言行録が信仰者ではない人物であったこの人について取り扱おうとしたのでしょうか。その理由の一つは私たちが前回学びましたように、このヘロデ王が教会を迫害し、そのために大切なメンバーであった使徒ヤコブを殺害したからです。そして彼はペトロをも捕らえて同じように殺そうと考えた人物でもあったからです。この教会の迫害者であったヘロデがその後どのような人生を送ったのか、使徒言行録の著者はここで簡単に彼のその後の生涯に起こった出来事を紹介しています。彼は結局、神の厳しい裁きを受けて惨めな最後を遂げなければならなかったと使徒言行録の記者はここで語っているのです。
ところで私たちはこの箇所から何を学ぶべきなのでしょうか。ヘロデの生涯を反面教師として彼のような生き方をしてはならないと考えるべきなのでしょうか。しかし、私たちの大半は自分の立場とユダヤ人の王であったヘロデの立場は大きく違うために、ヘロデを縁遠い人物と考え、彼の生涯から学ぶことができる点はないと考えているかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。どうも私たちはここでヘロデの人生だけに目を向けるだけでは私たちの人生との関わり合いがなかなか理解できないようです。そこで私たちはここでもう一度、ヘロデに捕らわれ、獄中で苦難を耐え忍ぶこととなった使徒ペトロと彼のために祈り続けた教会の人々のことを思い出したいのです。そして彼ら信仰者たちとヘロデの人生はどこに違いがあったのかについて考えてみたいのです。
2.主の愛に包まれていたペトロ
(1)礼拝の根拠である「聖なる三日間」
先日、キリスト教のラジオ放送で一人のカトリックの礼拝学の専門家がキリスト教の礼拝について解説している番組を聞きました。この人の説明によればキリスト教会の礼拝の根拠はイエスの弟子たちが体験した聖なる三日間にさかのぼると言っています。イエスが逮捕され裁きを受け十字架につけられて殺されたのが金曜日の出来事で、その後、日曜日の朝にイエスは墓から甦られ、弟子たちにその姿を現されました。この聖なる三日間において弟子たちが体験した出来事が実はキリスト教会の礼拝の起源であり、その後のキリスト教会はこの弟子たちたちが体験した三日間の出来事を追体験しながら礼拝を献げていると言うのです。
私たちも知っているように世界中のほとんどのキリスト教会の公の礼拝は毎週日曜日の朝に献げられてきました。この根拠は確かにイエス・キリストが日曜日の朝に墓から甦られ、弟子たちにその姿を現されたことにあったことを私たちは教えられてきました。ところがその人の解説によれば礼拝の根拠はその日曜日の朝だけに限定されるのではなく、その前の金曜日から始まる一連の出来事に深い関わりがあると言っているのです。確かに日曜日の朝、イエス・キリストは甦られたと言う事件は、それ自身確かにすばらしい出来事です。しかしそれだけではイエスの復活の意味は十分には理解することはできないと言うのです。弟子たちにとってなぜイエスの復活がすばらしいものになったのか。彼らが毎週集まって礼拝を献げざるを得ないほどになった根拠は弟子たちが体験した金曜日から聖なる三日間の出来事にさかのぼって初めて理解が可能になると言うのです。
(2)イエスの愛を体験した弟子たち
それではこの「聖なる三日間」の最初の日である金曜日にはいったい何が起こったのでしょうか。この金曜日はまずゲッセマネの園でイエスが逮捕される夜から始まっています。ユダヤ人の一日の数え方は日没から次の日の日没として数えられるので、現代の私たちと違って日が沈む夕方が一日の始まりになります。この金曜日が始まった晩にイエスはユダヤ人たちに捕らえられています。そしてその後を追った使徒ペトロはその同じ夜に大祭司の家の庭でイエスを三度「知らない」と否認してしまいます(ルカ22章54〜62節)。ペトロは自分が「主」と信じる方を裏切ると言う体験をそこでしたのです。そしてそれはペトロだけのことではなく、イエスの逮捕に際して自分たちの「主」を置き去りにして逃げてしまったほかの弟子たちも同じなのです。ですからこの後に起こるイエスの十字架の死は直接にはイエスに敵対するユダヤ人やローマの官憲による仕業でしたが、弟子たちもその死の責任を背負うべきものであったと言うことが分かるのです。
イエスの十字架の死に深く関わることとなった弟子たち。そこで主イエスの復活の出来事はこの弟子たちに特別な意味をもたらすものとなりました。なぜならイエスは自分を裏切り、自分を十字架にかけた責任を負う弟子たちの前に復活の姿を現してくださったからです。そしてイエスは彼ら弟子たちの罪を責めることなく、彼らを許し、彼らを愛し続けてくださっていることをそこで示されたのです。
私たちは自分に対する神の愛を考えるときに、まず自分がその神の愛を受けるためにふさわしい人物であるかどうかを考えます。そうするとどうして私たちは自分を神が愛してくれているとそのままでは確信を持つことができないのです。そこで私たちは神の愛されるべきふさわしい者として生きようと考え、そのために努力します。しかし、その結果はいつも同じです。私たちはイエスを裏切って十字架にかけた弟子たちと同じように、いつも主イエスの愛を裏切るような生き方しかできないからです。
しかし、復活された主イエスのご自分を裏切ることしかできなかった私たちを赦し、愛し続けてくださるその愛を示してくださるのです。キリスト教の礼拝の始まりはこの主イエスの愛を体験した弟子たちの出来事から始まっています。そして私たちも毎週日曜日に集まって礼拝を献げることでこの主イエスの愛を弟子たちと同じように追体験しているのです。こんな私たちにも関わらず、主イエスの私たちに対する愛は変わることはないことはことを私たちはこの礼拝で確認することができます。そしてむしろその主イエスの変らない愛が私たちを癒し、また励まし続けてくれるのです。
3.獄中の中でも奪われない希望
(1)誰が極限状況の中で生きることが可能か
さて、前回学びましたようにヘロデ王はローマの皇帝の後ろ盾を得てユダヤの王としての地位を手に入れました。そしてヘロデ王はその上でユダヤ人々から信頼を得るために、自分に与えられた国家権力の力を使ってキリスト教会を迫害し、使徒ヤコブを殺害したのです。そしてそれだけではまだ足りないと考えた彼は、今度は使徒ペトロを捕まえ、投獄し、彼をも殺害しようと考えたのでした。
このようにペトロは幾重にも張り巡らされたヘロデの手下の警備の元で鎖につながれ、自由を奪われてしまいました。しかし、彼は不思議なことにこの絶体絶命の状況の中で深い眠りについていたことを私たちは前回の礼拝で学びました。
自らの体験したユダヤ人強制収容所の体験を記した名著「夜と霧」を書いた心理学者ビクトル・フランクルは有名です。彼は収容所のような極限状態の中で、どんな人が生き残ることができたのかと言うことをその著作に記しています。普通そのような厳しい状態に立たされるなら体が屈強な若者が最後まで生き残ることができると私たちは考えてしまいます。しかし、フランクルは実際にはそうではなかったと言っているのです。事実、この記録を残したフランクル自身も決して丈夫な体を持っていたわけではなく、肉体労働には無縁な痩せこけた一人の学者に過ぎませんでした。収容所の中で生き残ることのできる秘訣、それはその人が未来に対する希望を持っているかどうかだとフランクルは言うのです。そしてこの希望を失ってしまう者はどんなに屈強な肉体を持っていても生き残ることは不可能であったと語るのです。
(2)キリストの愛に支えられたペトロ
ヘロデに捕らわれ、牢獄の中にあって自由を奪われていたペトロの状態はフランクルの体験とは少し違っていたかもしれません。しかし、フランクルの言葉を借りればペトロはこの獄中の中でも未来に対する希望を決して捨てることはなかったように思えます。なぜならば彼は獄中にありながらも主イエスの自分に対する変ることのない愛を体験することができたからです。彼は確かに主イエスを裏切ったと言う体験を持っていました、しかし、彼はその貴重な体験を通してその私を変らずに愛してくださるイエスを知ったのです。そしてそのイエスの愛は自分を決して裏切ることはないと言う確信を持つことができたのです。人間の愛は私たちを裏切ることがあります。その上に、裏切りは肝心なときに起こります。ですから人間の愛に頼る者は必ず「こんなはずではなかった」と絶望の叫びを上げざるを得ないときが来るのです。しかし、主イエスの私たちに対する愛はそうではありません。そしてその愛は特に私たちが厳しい状況に立たされたときに私たちを支え、導いてくれるのです。ペトロはこの主イエスの愛に支えられて生きることができました。そしてそれはペトロだけではなく、ペトロのために祈り続けた教会の人々も同じだったのです。ここには自分を決して裏切ることがない主イエスの愛によって支えられた人々がいたのです。
4.神により頼まない者の末路
(1)ヘロデに与えられた予言
そして私たちが今日の聖書箇所で取り上げているヘロデの生き方はこの主の愛を信じることができない者の象徴的な生き方であると言えます。
このヘロデの生涯について、ヨセフスと言う歴史家は聖書とは違った観点からこのヘロデの生涯について興味深い記録を残しています。ヘロデがかつてローマの宮廷で教育を受けていた人物であったことを私たちはすでに少し触れました。彼はかつてこの宮廷で当時のローマ皇帝テベリオの怒りを買い、投獄されると言う体験をしています。そのときヘロデの寄りかかっていた木の枝に一匹のフクロウがたまたま止まることがありました。そしてこの光景を目撃した一人の兵士がヘロデに次のような予言を語ったと言うのです。「このフクロウはあなたがすぐに許されて、自由な身になることができることを伝える吉報の印です。しかし、やがてもう一度あなたはあなたの上にフクロウが止まる日がやってきます。その姿を見たときあなたはもはや五日も生きながらえることのできないことを知りなさい」。この兵士の予言の通りヘロデはこの後すぐに皇帝に許され自由の身になります。そして彼はその次の皇帝の元でユダヤの王としての地位を獲得するのです。おそらく彼は獄中から解放された後、必死になって処世術を身につけローマ皇帝の好意を獲得することでその地位を得たのではないでしょうか。
(2)神に栄光を帰さないヘロデ
「定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた」(21〜22節)。
聖書が記したこの出来事についてヨセフスはこの「定められた日」がローマ皇帝の誕生日であったと語っています。この日、ヘロデはローマ皇帝の誕生日を祝って大きな式典を開催しました。そしてたくさんの人々がその式典に集まりました。ヘロデは早朝、銀で作った王服を身にまとってこの式典に立ち、出席者に向かって語りかけたのです。するとヘロデの服は朝日の光を反射して神々しく光り出し、それを観ていた人々が「ヘロデ王は人間ではなく、神に等しい方だ」と口々に彼を褒め称えたと言うのです。このことを聖書は「神の声だ。人間の声ではない」と言う言葉で表現したのです。ヘロデはこの人々の言葉を制止したり、咎めることをしませんでした。つまり、ヘロデはその人々の賞賛の声の心地よさに酔ってしまったのです。ヨセフスはこのときヘロデの頭上に渡されたロープの上に一匹のフクロウが止まったと記しています。 この後、ヘロデは激しい腹痛を訴え始め、五日間悶え苦しんだ上で死んだと言うのです。あのゲルマン人の兵士の予言が的中したとヨセフスは言うのです。しかし、聖書はヨセフスとは違いこのヘロデの死が神に栄光を帰さなかった者に下された神の裁きの結果であると語っているのです。
「神に栄光を帰さなかった」ヘロデの生涯、それは人間の好意を自分に獲得するために費やされた人生でした。ですからヘロデはローマの皇帝の好意を獲得してユダヤの王としての地位を手に入れ、その上で自分に対するユダヤ人たちの好意を得るために教会を迫害し、ヤコブを殺し、ペトロを投獄しました。しかし、彼が懸命に獲得しようとしたものすべてはまったく儚いものに過ぎなかったのです。人の目には確かなものと見えるものでもわずか一匹の虫によってすべてが台無しになってしまったからです。
聖書は神の愛に人生の根拠を置かない者の結末はこのようなものだと私たちに教えるのです。どんなに確かであると見えても肝心なときに私たちを裏切るようなものに私たちは自分の人生の根拠を置くべきではないのです。むしろ聖書は、私たちを決して裏切ることなく、私たちを愛し続けるイエスにより頼んで生きる者はペトロと同じように極限状況の中でも希望を失うことがないと教えるのです。このキリストの愛が提供する希望はたとえ私たちから地上の命を奪われることがあっても、決してなくならない希望です。私たちはこのイエスの愛を今、この礼拝で追体験しています。そしてそれ故に、私たちには決して奪われることがない希望が与えられていることを覚えたいと思います。
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【祈祷】
天の父なる神様
主イエスの逮捕を前にして、その主を裏切りってしまった弟子たちの前に、復活されたイエスはご自身の変らない愛を示し、彼らの罪を許してくださいました。あなたは礼拝のごとに私たちにもその愛を示してくださいます。私たちをいつもこの愛にとどまらせてください。その愛によって私たちの未来に希望が与えられていることを確信させてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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