Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年8月12日   「聖霊の働きと伝道」

聖書箇所:使徒言行録13章1〜12節(新.P237)
1 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。
2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
3 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
4 聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、
5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。
6 島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。
7 この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。
8 魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。
9 パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、
10 言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
11 今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。
12 総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。

1.主導権を持つ聖霊
(1)教会の働きとしての伝道

 使徒言行録の記事は今日の箇所から使徒パウロを中心に進められた教会の海外伝道の活動について叙述を進めて行きます。そこで今日の箇所ではこのパウロの活動がどのような理由で始められたかについての説明が記されています(1〜3節)。さらに彼らの最初の伝道地となったキプロス島での魔術師バルイエスとの対決の出来事が紹介されています。
 まず、この記事の中で大切なのは今まで「サウロ」と呼ばれていた人物がここで初めて「パウロとも呼ばれていたサウロは」と「パウロ」と言う名前が登場する点です。これは別に「サウロ」が「パウロ」に改名されたと言うのではなく、今まではユダヤ風の「サウロ」と言う呼び名が使われていましたが、ここからはローマ風の呼び名「パウロ」が使われるようになったと言うことを言っているのです。それはこれからのパウロの舞台がローマの文化圏の中で展開されており、実際にこの出来事のあたりから自分を「パウロ」と呼ぶケースが多くなるためだと考えることができます。
 ただ、今日の記事を踏まえて大切なのはこのパウロの活動はパウロの願望や判断による個人的の活動ではなく、あくまでもアンティオキア教会の活動であったと言う点です。パウロはこのアンティオキア教会の代表者として福音を海外に伝える役目を果たしたのです。つまり、パウロの働きはこのアンティオキア教会のメンバーによって支えられて成り立っていたと言うことになります。アンティオキアの人々がパウロのために熱心に祈り続けることによって伝道者パウロの活動は大きく進展していったのです。伝道は神を信じるすべての人々に神からゆだねられている大切な使命です。しかし、神はその使命を私たちが果たすために伝道者としての特殊な賜物と訓練を受けた人物を立てられます。その上で、その伝道者の働きが本当に有効に用いられるために、その伝道者を支える教会の人々の熱心な祈りがあったことを聖書は教えています。つまりパウロの働きは、アンティオキア教会のすべての人の働きによって成り立っているのです。

(2)神の働きとしての伝道

 さらに伝道者の働きが個人的な働きではなく、教会の働きであり、それが多くの人々の祈りによって支えられていること以上に大切なことがあります。それはこの伝道の働きは神によって始められるものであり、神がその主導権を持っておられると言うことです。この神の働きがなければどんな有能な人物でそこで働いたとしても、その働きは実を結ぶことはできません。しかし、神の働きだとすればたとえ私たちの今もっている賜物はわずかで、その能力に欠けていると思えたとしても、神は私たちを十分に用いてすばらしい働きを実現してくださるのです。
 この記事ではまずバルナバとパウロたちを伝道の働きにアンティオキア教会が送り出したきっかけは次のように報告されています。

「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」」(2節)。

 この出来事は人々が神を礼拝するところから始まっています。彼らが断食をして熱心に神を礼拝する中で聖霊は神のみ旨をアンティオキア教会の人々に告げたのです。おそらく、この教会の中には「預言者」と呼ばれる人々がいたと記録されていますから(1節)、彼らが礼拝の中で直接に聖霊の導きを感じて神の意志をそこで伝えたのだと考えられます。この時代にはまだ新約聖書が完成していませんから「預言者」と言う特別な職務を持った人々が教会の中に存在したのです。しかし今、私たちは聖書を通してこの私たちに対する神のみ旨を知ることができます。つまり現代の教会では聖書がこの預言者としての働きをしているのです。そしてその聖書は教会の礼拝において説き明かされています。そのような意味で教会の活動のすべてはこの聖書の説き明かしがされている礼拝から始まり、この礼拝の中で示された神のみ旨に基づいて行われる必要があるのです。
 このあとバルナバとサウロはアンティオキア教会の人々によって実際には宣教地に送り出されているのですが、使徒言行録はそれを「聖霊によって送り出された」(4節)と言っていますし、またサウロは「聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて」います(9節)。教会の働きは、それを用いて働かれる聖霊の働きです。ですから私たちはこの聖霊の働きを教会の働きを通して日々体験しているといえるのです。

2.魔術師との対決
(1)自分たちの思いをどのような方法で実現するのか

 さて、バルナバとサウロが伝道のために向かった場所は「キプロス島」でした。このキプロス島はバルナバの出身地であり(4章36節)、またアンティオキア教会の創立メンバーの中にもこのキプロス島出身者が含まれていたようです(11章20節)。聖霊の働きによって始められたアンティオキア教会の伝道活動でしたが、その活動は当事者たちの意志とは全く関係なく計画されているわけではありません。自分の家族や親族、また知人たちを救いたいというアンティオキア教会の人々の願いがこの計画の中に生かされていたのです。
 先日、キリスト教放送である牧師の話を聞いていたら、「神を信じている人とそうでない人の違いは何か」と言うことが取り上げられていました。神を信じている人はどんな出来事の中でもその背後に神様の愛のみ旨を確信しているので、たとえそこで自分たちにとって不都合な出来事が起こったとしても、神を信じている人はその出来事を通して神は何を自分たちに教え、また求めておられるかを考えると言うのです。同じ出来事を経験しても信仰者とそうでない者の反応は大きく違うのです。
 自分の肉親を愛し、また自分がよく知っている仲間たちを心配したりすることは信仰者であっても、またそうでない人でも誰も変わりはありません。しかし、神を信じるアンティオキア教会の人々はその思いをどのように実現するかを考える際に、神に喜ばれる最善の方法が何かを考えたのです。そこで彼らはバルナバとサウロを自分たちと関係深い人々が住んでいる場所であったキプロス島に派遣したのです。

(2)魔術師バルイエス=エリマ

 さてここで登場するのがユダヤ人魔術師「バルイエス」と言う人物です。彼はここで語られているように地方総督セルギウス・パウルスとの関係から考えて見ると8節で語られる「魔術師エリマ」と同一人物であると考えることができます。「バルイエス」は「イエスの子」と言う意味です。つまり「イエス」は「主は救い」と言う意味を持った名前ですから「バルイエス」は「救いの子」と言う意味になります。また「エリマ」はここでは「魔術師という意味」と説明されていますが、正確には「知恵」と言う意味を持った名前だと言われています。名前にはこんなにすばらしい意味があるのですが、彼の行動は救いとは正反対の方向に向かうものであり、本当の知恵に基づくものではありませんでした。
 使徒言行録の著者はこの魔術師バルイエスを「偽預言者」とも呼んでいます(6節)。おそらく彼が地方総督セルギウス・パウルスの身近に近づくことができたのは、神のみ旨を知りたいと願うパウロスの態度につけいることができたからだと考えることができます。
 日本でも一国の進むべき道を最終的に判断する総理大臣が、有名な占い師を傍らに呼んで、自分がなすべき判断の助けを願うことがあると言います。バルイエスはそのような政治家の抱える不安を利用する占い師と同じような人物であったと考えることができます。
 セルギウスは「神の言葉を聞こうとして」、バルナバとサウロを自分の下に招きました。ところがバルイエスは「二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした」のです(8節)。彼らに余計ない入れ知恵をセルギウスにされて、自分の商売を妨害されたら大変だと思ったのでしょう。結果的に彼は福音がセルギウスに伝えられ、彼が救われることを願う神のみ旨を妨害することになったのです。

3.真の知恵とは何か
(1)バルイエスと対決するパウロ

 さてパウロはこのようなバルイエスの企みに対して厳しく非難しています。いえ、ここでのパウロの言葉は「聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけた」(9節)と語られていますから、神ご自身の言葉であったとも言えるのです。

 「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」(10〜11節)。

 パウロの言葉の通り、ここで神がバルイエスの上に働き彼は「目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した」と言う状況に追い込まれました。興味深いのはこのバルイエスの上に起こった出来事は、サウロがかつてダマスコに向かう途中で、主に出会い、そこで体験した状態と酷似しています(9章8節)。サウロもかつて目が見えなくなる体験をして、そこから回心を遂げ、主に従う者となりました。そのような意味でサウロはこのバルイエスを非難しつつも彼が神の厳しい裁きを体験することで自分の誤りを悟り、回心することを望んでいたのかもしれません。

(2)見えること、見えないこと

 目が見えなくなると言うことは大変なことです。しかし、この目が見えるとか見えないと言うことは聖書にとっては特別な意味があることを私たちは覚えたと思います。なぜなら、聖書において本当に見えると言うことは、神を正しく知り、神に従うことが出来る者の特徴だからです。その反対に、いくらこの世の知恵に満ちていても、神に従うことが出来ない者は「目が見えない者」と判断されるのです。
 ヨハネによる福音書に登場する生まれつき目が見えない人のいやしの物語の中で、イエス自身が「目が見える」と言うことは何であるかについて語っているところがあります(ヨハネ9章)。この物語の中で大切なのは生まれつき目が見えなかった人の目が癒されて見えるようになったと言うことだけではなく、彼がその出来事を通してイエスを救い主と信じることができるようになったと言うことです。つまり、この生まれつき目が見えなかった人はここでイエスにより霊的な目が開かれて、神を信じることができるような者にされたのです。ところが聖書を熱心に研究し、また自分たちこそ正しい知恵を持っていると主張したユダヤの宗教的な指導者たちはここでイエスに次のように言われています。

「イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」」(9章40〜41節)。

 ユダヤ人の宗教的指導者たちは自分「見える」と考えていました。つまり自分の知恵に満ち足りて、それ以上自分には何も必要ないと考えていました。だから神がイエスを遣わして彼らを助けようとされているのにその神のみ業を拒むと言う暴挙に出たのです。
 ですから、自分は「本当のところは見えていない」と気づくことができることはとても幸いなことなのです。パウロはその目が見えなくなると言う体験を通して、自分にとってイエスの救いが必要である、自分が不完全で本当は何も見えていない人間であることが分かったのです。
 私たちはときどき、自分の人生の中で自分がいままで頼りにしていたものがそうでなかったと知らされるときがあります。しかし、私たちはその経験を通して本当に頼ることができるのは神様だけであると言うことを痛感させられるのです。それもまた、私たちの目が一時的に見えなくなると言う体験であると言えます。私たちは確かにこのような体験を通して、神に導かれることができるのです。
 「総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」(12節)と言われています。魔術師バルイエスの目が見えなくなると言う出来事を目撃した地方総督の霊的な目がここで開かれた使徒言行録の著者は語るのです。だから彼は主の教えのすばらしさを悟り、信仰に入ることができたのです。
 使徒言行録の著者はここでバルナバとサウロによって始められた伝道が聖霊の働きの働きであることを教えています。そして、その彼らの伝道の業に対して、心を開き、福音を信じる人々が起こされたのもまた聖霊の働きであり、彼らの心の目を聖霊が開いてくださったからだと語るのです。私たちの住む現代はパウロが活躍した時代とは全く生活の様式も、また文化も違います。しかし、教会の伝道における聖霊の働きは今も昔も全く変わることがありません。それならば私たちもまた礼拝において神のみ旨を悟り、聖霊が私たちの教会の働きの上に豊かに働いてくださることを祈ることからこの伝道の働きが始まることをもう一度確認したいのです。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちは霊的な真理に対して何も見えない者たちです。どうか聖霊を遣わして私たちの心の目を開かせてください。そしてみ言葉を通して私たちのあなたのみ心を示してください。この世の知識や知恵に左右される私たちは何が大切であり、何が私たちに求められているのか。また、何が私たちの人生を豊かなものとするのかについて分からなくなっています。聖霊を通して私たちが見るべきものを見ることができるようしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。