Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年8月19日   「神の恵みの下に生きる」

聖書箇所:使徒言行録13章13〜44節(新.P238)
(13〜25略)26 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。
27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。
28 そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。
29 こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。
30 しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。
31 このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。
32 わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。
33 つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、

『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』/と書いてあるとおりです。34 また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、

『わたしは、ダビデに約束した/聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』/と言っておられます。35 ですから、ほかの個所にも、/『あなたは、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしてはおかれない』

と言われています。
36 ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。
37 しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。
38 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、
39 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。
40 それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。

41 『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、/お前たちにはとうてい信じられない事を。』」

42 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。
43 集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。

1.パウロの伝道方法
(1)パウロの伝道活動

 アンティオキア教会の派遣によって始まったパウロたちの伝道旅行の報告が今日も続いています。ここから使徒言行録の著者は今までは「バルナバとサウロ」と言うように記していたものを「パウロとその一行は」と言う表現に変えて記し始めます。つまりこれからの物語の中心はパウロに変るのです。そしてそれを物語るかのようにここではパウロのかなりながい伝道説教が記されています。
 キリスト教会の歴史の中でもっとも有名な伝道者と言えるパウロの活動と説教を私たちはこれから学んでいくことになる訳です。もしパウロが現代の日本に現れて、伝道活動を始めたならどんなことをしたのだろうか…大変に興味深い話題です。しかし私たちは簡単にそのパウロの伝道活動を想像することはできないようです。その理由はパウロの伝道には私たちの置かれた環境と違った特殊な事情がたくさん存在していたからです。

(2)まずユダヤ人に宣教する

 私たちはパウロと言えば異邦人、つまりユダヤ人以外の外国人に対して福音を宣べ伝えた人物として有名です。ところが興味深いことにパウロの伝道旅行では聖書やそこに記された神のことを全く知らない外国人に福音を語るケースよりは、むしろ聖書をすでによく知っているユダヤ人や、ユダヤ人でなくてもすでに聖書の教えある程度まで身につけていた外国人に向かって語るケースが多かったようです。
 それは今日の部分でも同様です。

「パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った」(14〜16節)。

 パウロたちは確かに海外宣教の旅に出発したのですが、彼は到着した場所でまずユダヤ人たちが礼拝のために集まる会堂を訪問し、そこで福音を語っていたようです。つまり、パウロは福音をその内容を全く知らない不特定多数の人に語るより、十分にその準備ができている人々であるユダヤ人たちに向けて語ろうとしたのです。
 当時、会堂での礼拝においてその礼拝を管理する会堂長は出席者の誰かを指名して、説教をしてもらうことができました。パウロはこのときその会堂の習慣に従って指名され、そこに集まった人々にキリストの福音を宣べ伝えることになったのです。そしてこのお話を聞く聴衆はすでに聖書の内容に熟知しているユダヤ人たちでした。ですから当然、パウロは彼らがよく知る旧約聖書の内容からキリストの救いについて説明しています。

2.パウロの説教
(1)イスラエルが選ばれた理由

 パウロが語って説教ですが、この説教の内容はある部分ではペトロがペンテコステの日にエルサレムに集う人々に語った説教の内容に似ているところがあります(2章14〜36節)。またある部分では教会の最初の殉教者となったステファノの説教に似ている部分があります(7章1〜53節)。しかし、結論から言えばやはりこの説教はパウロ独特の論旨によって進められていることが分かります。
 まずパウロはこの説教の最初に旧約聖書に記されているイスラエルの歴史に言及します(16節〜23節)。そこでは神がイスラエルの先祖を選び出してくださったこと、その子孫をエジプトの奴隷状態から救い出して、約束の地カナンを彼らにお与えになったことが語られています。このカナンの生活の中で神は450年の間、そのときにふさわしいリーダーを選び、彼らに民を導かせました。これが「士師」の時代と呼ばれるものです。しかしその後、神はイスラエルの民の求めに応じてイスラエルのために王を与えて、その王にまつりごと任せます。その最初の王がサウロであり、その後、サウロに変ってダビデがイスラエルの王となりました。そこでパウロは約束された救い主はこのダビデの子孫から現れたと語ります(23節)。つまり、パウロがなぜ旧約聖書に記されたイスラエルの民族の歴史に触れたかと言えば、その歴史とは救い主キリストが神から遣わされるための歴史であったことを教えるためでした。つまり、神がイスラエルの先祖を選んだことも、エジプトの地からカナンの地に彼らを導いたことも、彼らに士師や王を与えてくださったことも、すべてこのキリストを救い主としてこの地上に遣わすために立てられた計画であったとパウロは説明しているのです。
 続けてパウロは旧約聖書には言及されていませんが、当時の人々がよく知っていたバプテスマのヨハネの活動に触れ、彼が救い主を指し示し続けた人物であったことを語ります(24〜25節)。その上でこのイスラエルの歴史の目的でもある救い主イエス・キリストがエルサレムに住む人々やその指導者たちによって捕らえられ、ローマ総督ピラトの手によって処刑されたことが語られるのです(26〜29節)。

(2)イエスの復活によって成就した預言

 パウロはこのイエスの死の後に彼が復活されたことを語り、その出来事が旧約聖書の預言の成就であったことを説明しています(30〜37節)。それでは神はどうしてキリストを十字架につけ死なせた上で、彼を復活させると言うことをされたのでしょうか。パウロはその神のみ業の目的について次のように語ります。

「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(38〜39節)。

 キリストの十字架と復活は私たちの罪が赦されて、私たちがこの方によって義とされるためだったとパウロは語ります。なぜなら誰もモーセの律法の力で自分を神の前に義とすることはできないからです。ただ、キリストが勝ち取ってくださった義を私たちは信仰を通してそのキリストから受けことができるのです。私たちが義とされる道はそれ以外にはないと言うのです。誰もキリストなしに義とされることはできない、つまり、キリストなしには私たちの救いは実現しないと語るこのパウロの論旨は、パウロが自らの記した書簡において披露した見解と全く同じものです。

3.信じる者に与えられるキリストの義
(1)どうして義は必要か

 それでは今度は、このパウロの説教を逆に読んでもう一度整理してみましょう。パウロはまず、聴衆に対して自分たちには罪が赦されて、神の前で義とされることが必要であることを力説しています。そしてイスラエルの民はこの義をモーセの律法によって獲得することができると考えていましたが、それは不可能であったと語るのです。
 それではどうして人は罪の赦しと神の前で義とされることが可能となるのでしょうか。それを可能としてくださるのが救い主イエス・キリストです。イエス・キリストは十字架と復活の出来事を通して私たちの上に罪の赦しと神の前に義とされる恵みを与えてくださるのです。そして旧約聖書に記されている救いの歴史、イスラエルの歴史はこのイエス・キリストによる救いが地上に実現する神がどのような道筋を整えられたかを示すものだったのです。さらに旧約聖書が示した約束はことごとくこのイエス・キリストによって成就されたとパウロは語っているのです。

(2)人間には無理

 私たちはこのパウロの説教により、私たちの救いはイエス・キリストによってのみ可能であり、それ以外の方法では不可能であると言うことを覚えたいのです。なぜなら、私たちはこの真理を容易に理解できないばかりに、神以外のところに自分の救いを求めることがあるからです。
 先日、キリスト教のラジオ放送である日本人の神学者がドイツのブルーム・ハルトと言う牧師の生涯を紹介する講演をしていました。私はだいぶ前にこの講演者が記したブルーム・ハルトの伝記を読んだことがあり、ですからそれを思い出しながら私はその話を聞くことができました。ブルーム・ハルトと言う牧師は第一次大戦後に現れたドイツの有名な神学者たちバルトやトゥルナイゼンやブルンナーと言った人々に影響を与えた人物です。しかし彼自身は小さな村の牧師を経た後、病気の人々を収容する療養所付きの牧師として一生を捧げた人物であったと言います。
 この小さな村の教会で働く平凡な牧師であったこのブルーム・ハルトにあるときその生涯を変えるような出来事が起こりました。それは自分の牧会する一つの家族に起こった不思議な出来事を通じてでした。それは現在のオカルト映画に登場するような様々な心霊現象にも似たような出来事です。平凡な一人の牧師であったブルーム・ハルトはこの出来事を解決する方法を知りません。ですから、彼はこの事件に遭遇した悪戦苦闘を繰り返し、疲れ果て、自分の無力さを痛感することしかできなかったのです。
あるとき彼はこの出来事に対処するために教会の長老たちと話し合い、一つのことを決めます。それは自分たちがこの問題の解決を聖書が示すところにのみ求めること、つまりそれ以外の知識や方法には一切頼らないと言うことを確認したというのです。どうして彼らがこのような覚悟をすることになったのかと言えば、彼らには自分たちが体験している出来事が人間の力では全く解決することのできない闇の力によるものであることがよく分かったからだと言うのです。彼らを苦しめている闇の力、つまり悪魔の力に勝利できるのは神の力だけです。人間の提供するどんなに優れた力も方法も闇の力には全く太刀打ちできないのです。だから彼らは聖書の言葉の中にのみ自分たちの助けを求めたのです。そして彼らはやがてこの事件の後、イエス・キリストの力が絶対であることを身をもって知ったと言うのです。

(3)人間を苦しめている問題の正体

 パウロはここで私たちの人生にとってその罪が赦されることが必要だと語っています。聖書はこのようにいつも私たちの罪を問題にします。なぜなら、私たちが抱えている様々な問題の背後にはこの罪の問題が隠れているからです。そして実はこの罪の問題の背後には、私たち人間を支配する闇の力、悪魔の力が潜んでいるのです。それは人間の力では太刀打ちできない力です。つまり罪は全く私たちにとって解決が不可能な問題なのです。それを解決することができるのは神の力だけなのです。そして神はイエス・キリストによる救いを実現することによってこの闇の力に勝利し、私たちに救いの恵みを与えてくださったのです。
 先に紹介した第一次大戦後に出現したドイツの神学者たちの流れを「神の言葉の神学」と言うことがあります。なぜなら、彼らは人間の問題を解決するものは、神の言葉の中にしかないと主張したからです。なぜならば、人間の問題の背後には闇の力が潜んでおり、この闇の力に対して人間の知識や力は一切無力でしかないからです。そしてキリストの福音は神がこの闇に力に勝利したことを私たちに明確に伝えるものであると言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちの抱える罪の深刻さの故に、あなたはイスラエルを選び、イエス・キリストを私たちのために遣わしてくださいました。私たちはそれなのに、いつの間にか自分の抱える問題の深刻さを忘れ、あたかも人間の力でそれが解決できるように考えてしまう愚かな過ちに陥ることがたびたびです。だから、私たちはキリストによって実現された救いのすばらしさをも理解できなくなってしまうのです。私たちが対峙する悪と罪の力に対抗すべく、私たちをあなたの元にとどまらせ、私たちがあなたの力とその救いのすばらしさを確信することができるようにしてください。
救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。