Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年9月2日   ■説教:「神の言葉に対する二つの反応」

聖書箇所:使徒言行録13章44〜52節(新.P240)
44 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。
45 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
46 そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。47 主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」
48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
49 こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。
50 ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
51 それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
52 他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

1.ユダヤ人たちの反応
(1)ユダヤ人たちに向けて福音を語ったパウロ

 使徒言行録はこの13章の13節からパウロとバルナバたちのピシディア州アンティオキアでの伝道活動の報告を記しています。前回はこのアンティオキアでのパウロの説教を取り上げました(16〜41節)。このアンティオキアの町はトルコ中部の海岸からはかなり陸地に入った場所にあった町です。彼らがなぜ、このアンティオキアの町に向かったかと言う理由は定かではありませんが、一説では健康の不安を抱えていたパウロの療養のためであったと言う説もあります。ただ、この使徒言行録の記事を読んで見ると彼は病気療養どころか、かなり積極的にこの地でも福音伝道の業に従事していることが分かります。
 さて前回の部分の復習となりますが、旧約聖書の知識に基づいてなされたパウロの説教によって、この地にイエス・キリストの福音が宣べ伝えられることになりました。特にこのパウロの説教は安息日の日にユダヤ人の会堂で行われていた礼拝の中で語られました(14〜15節)。つまりこのパウロの説教に耳を傾けた聴衆の大半はユダヤ人たちであったと言うことになります。そこで彼らの反応はどうであったのかと言うことが42節に次のように記されています。

「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」。

つまり、パウロの話を聞いたユダヤ人たちはその話を喜んで聞き、「もっと話してほしい。次の安息日にもここに来て、今日の同じようにイエス・キリストの福音について語ってもらえないか」と願ったと言うのです。

(2)救いの確信と不安からの解放

 ユダヤ人たちがどうしてパウロの話に興味を持ったのかと言う理由は考えてみましょう。まず第一にパウロの話は旧約聖書の証言の土台の上に語られています。つまり、彼らは旧約聖書が約束し続けてきた救いが、このイエス・キリストによって実現したと言うことをユダヤ人たちは知ることができたと言うことになります。また、彼らはエルサレムで十字架にかけられたイエスが三日の後に墓から甦ったと言う噂をすでに耳にしていたかもしれません。しかし、彼らはここで実際に復活されたイエスに出会った復活の証人たちの語る証言を聞くことができたのです。また、パウロの説教にはこのようなすすめが語られています。

「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(38〜39節)。

 ユダヤ人たちは子供のときからモーセの律法を教えられ、その律法を厳しく守ることを求められていました。なぜなら、彼らは自分たちが神に受け容れられる者となるためにはこのモーセの律法を守らなければならないと考えたからです。しかし、人がどんなに熱心にこのモーセの律法を守ろうとしても、それを人間はこの地上の生活で完全に守ることは困難です。いえ、不可能であると言ってよいのです。そうなると、その信仰生活は「この律法を熱心に守れば、いつかは自分も神様に受け容れられることができるだろう」と言う自分の救いについての期待を抱くことしかできません。つまり、いつもでも「自分は救われた。神に受け容れられた」と言う確信を持つことはできないのです。 
 かつてユダヤの議会の議員の一人で、聖書についても、モーセの律法についても十分な知識を持っていたニコデモと言う老人がイエスの元を訪ねたことがありました(ヨハネによる福音書3章)。彼は自分が「神の国に入れるのかどうか」と言う不安を抱えていました。言葉を換えれば自分は本当に神に受け容れられているのかどうか確信を持つことができなかったのです。モーセの律法に頼る人々の信仰生活はこのニコデモと同じような不安に満ちたものとなってしまうのです。
 パウロはイエスを信じる者が神の前に罪赦されて、義とされると言う福音を彼らに語りました。自分ではなくイエス・キリストが私たちの罪をあがない、私たちを神の前で義としてくださったのです。ですから、このイエスを信じるならば「自分は本当に救われるのだろうか」と言う不安を抱く必要はなくなるのです。イエス・キリストを信じる者はこの方によって自分が救われていると言う確信を持つことができるのからです。これはまさにユダヤ人を不安から解放するよき知らせ以外のなにものでもありません。だから彼らはこのパウロの話を喜んで聞いたのです。

2.ユダヤ人たちの反応の変化

 ところが今日の箇所を読むとせっかくパウロの語るイエス・キリストの福音を聞き、喜んでその話を聞いた人々の反応が変ってしまったことが記されています。

「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」(44〜45節)。

 ユダヤ人たちは自分たちだけではなくて町中の人々がパウロの話を聞こうとして集まって来る姿を目撃して「ねたみ」の心を抱きました。その結果、パウロたちに対する好意は消え去り、返ってパウロたちを罵り、彼らの活動を妨害し始めたと言うのです。
 「ねたみ」と言う人間の感情は不思議なものです。私たちは億万長者の生活を見ても「うらやむ」ことはあっても「ねたむ」ことはありません。「ねたみ」は自分と同じような立場や環境の中に生きている身近な人々に対していだく感情です。ユダヤ人たちはふだん同じ町で生活している人々がパウロの話に耳を傾けることにねたみを覚えたのです。「毎週のように会堂に通い、熱心に礼拝を守っている自分たちと違って、町の人々は礼拝にも出席せず、自分勝手な生活をし続けていたのに、どうして彼らも自分たちと同じように救われることができるのか。それではいままで自分たちがやってきたことは無意味なことだったのか。それではけしからん」とユダヤ人たちはパウロの話すことに今度は反対し始めたのです。
 イエスがかつて語られたたとえ話の中にぶどう園の労働者の話があります(マタイによる福音書20章1〜16節)。主人に雇われて一日中、ぶどう園で働いた労働者に払われた賃金と、一時間前にやってきて働き始めたばかりの労働者に主人が支払った賃金が全く同じであったために、一日中働いていた労働者が不満を語ったと言うお話です。このときのユダヤ人たちはまさにこのたとえ話に登場する一日中働いていた労働者たちと同じ思いに駆られて、町の人々に「ねたみ」の思いを抱いたのです。
 私たちはたとえ長く信仰生活を送ってきたとしても、後から新しく信仰生活に入るために教会で洗礼を受ける人たちを見て決して「ねたむ」ことはありません。私たちは自分たちが今まで送ってきた信仰生活が決して損であったとは思っていなからです。私たちはイエスを信じて、罪赦され、神の前に義とされました。それは決して私の努力の結果ではありません。そして、私たちはこの信仰によって自分が神に受け容れられ、救われたと言う確信を持つことができたのです。この地上の生活の中でこの救いの確信を持って生きることができるすばらしさは何者にも変えられない宝のようなものです。だから神が私たちと共にいてくださる、私たちを守り導いてくださると言う信仰の確信を誰よりも先にいただくことができたことは私たちにとって決して損ではなく、返って喜びであると言えるのです。

3.パウロたちの決断
(1)困難と試練に対する勝利の秘訣

 パウロはキリストの福音を聞いて喜んだユダヤ人に対してこうアドバイスしたと記されています。

 「集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた」(43節)。

 「神の恵みの下に生き続けるように」とパウロは彼らにアドバイスしたのです。しかし、彼らはこの恵みの下にとどまり続けることができなかったのです。私たちのうちに実現したキリストによる救いは完全なものです。しかし、私たちはこの地上にとどまる限り、弱さを持っていることは確かです。その弱さの故に、私たちの感情はたえず揺らぎ、せっかく示された神の恵みから私たちを遠ざけようとするのです。しかし、私たちはどんなに努力してもこの自分の弱さを自分で克服することはできません。だからこそ私たちはすでに示された神の恵みにとどまり続ける必要があるのです。そうすれば神が私たちを導いてくださり、私たちが抱えている問題を解決してくださるからです。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネによる福音書15章5節)。

 このイエスの言葉の通り、私たちは困難な出来事に遭遇したとき、また厳しい試みに出会ったとき、イエスにとどまり、神の恵みの下にとどまり続ける必要があります。そうすれば神のみ業が私たちを問題の解決と勝利へと導いてくださることを信じたいと思います。

(2)パウロの決断

 パウロたちはここでユダヤ人たちの「ねたみ」から起こった激しい反対に出会いました。しかし、パウロたちはそこで福音を語ることをやめることはありませんでした。「そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った」(46節)と語られています。そしてこうユダヤ人たちに語っています。

「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」。

 ユダヤ人たちは神の言葉を聞いたのに、パウロの話すことに反対し、自らを永遠の命に値しない者としてしまったとパウロは彼らの罪を断罪しています。そしてその上でパウロたちはここで重要な決断をくだします。「わたしたちは異邦人の方に行く」。ユダヤ人以外にもキリストの福音を聞く機会を待っている人たちがいます。パウロは自分たちに神から与えられた時間を使って、その人々のために福音を語ろうと決断したのです。
 ユダヤ人の心理学者ビクトル・フランクルは強制収容所に収容される際に、それまで大切に持ち歩いていた自分の研究論文をドイツ兵に取り上げられてしまいます。それはフランクルとって自分のすべてとでも言ってよい大切な論文でした。彼は後にこのときのことを思い出しながらこう語っています。「自分はそのとき奪われた大切な論文の事を思って、悔やむこともできたし、それを奪っていったドイツ兵を恨むこともできた。しかし、自分はそれをしなかった。なぜなら、自分の人生に与えられた時間をそのために使うことが自分にとって無意味であると言うことを知っていたからだ」。そしてフランクルは収容所の中で再び、新たな研究論文を書き始めます。それが後に世界の名著の一つとも呼ばれるようになった『夜と霧』が生み出されるきっかけとなったのです。
 パウロたちは自分たちの働きを妨害するユダヤ人たちとの争いに自分に与えられた時間を使うことはありませんでした。なぜなら、彼らは神が自分たちに何を望んでおられるかを知っていたからです。

 「主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」(47節)。

 この旧約聖書のイザヤ書に語られた神の言葉に基づいて、パウロたちは自分たちが今何をしなければならないかを知り、新たな決断をここで下したのです(49章6節)。

 私たちに神が与えられている人生の時間は貴重なものです。私たちはその人生の時間を今どのように使っているでしょうか。過ぎ去って行った過去の出来事を悔いることでその時間を使ってしまっていないでしょうか。終わることのない、そして後味の悪い隣人との争いのためにその時間を使っていないでしょうか。私たちはこの人生の時間を有効に使うために、まず聖書に示された神の言葉に耳を傾けるべきなのです。
 ユダヤ人たちは他の町の人々をねたむのではなく、自分たちが学んできた神の言葉を彼らに伝え、共にイエス・キリストによって救われた喜びを分かちあうことができたはずです。それなのに彼らはそれをしませんでした。だからその責任の報いを彼ら自身が受けとらなければならなかったのです。
 「神の恵みの下に生き続けること」。それは私たちが自分の人生をもっともよく生きることができる大切な唯一の鍵であることを私たちはもう一度この出来事がから学びたいのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
キリストを信じる私たちに救いの確かな確信を与えてくださる恵みを感謝いたします。この地上に生きる限り様々な弱さを持つ私たち、私たちがあなたの恵みの下に生き続けることができるようにしてください。私たちの抱える問題をあなたはもっともふさわしい形で解決してくださることを信じます。私たちがあなたの恵みの下に生き続けることで、私たちが正しい判断をし、この地上の人生をもってあなたの栄光をあらわすことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。