聖書箇所:使徒言行録14章1〜7節(新P.241) 1 イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。 2 ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。 3 それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。 4 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。 5 異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、 6 二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。 7 そして、そこでも福音を告げ知らせていた。
1.人の妨害と神の計画 今日も使徒言行録から続けてパウロの伝道活動について学んでいます。ご存じのようにパウロの伝道範囲は現在のトルコ、また地中海を渡ってギリシャ、さらにはイタリアのローマにまで至るような大変に広範な地域に渡っています。さらにパウロはこれらだけでは満足せず、現在のスペイン半島にまで伝道する計画を持っていたと言われています。このようにパウロは極めて活動的な伝道者であったことが分かりますが、この使徒言行録を学ぶと、彼らの伝道活動の意外な秘密も分かって来るのです。それは、パウロのこの広範な伝道活動は「ここで成功したから、こんどはあそこでも」と言った成功体験の積み重ねによってなされたものではないと言うことです。むしろ、パウロの伝道に対してどこで必ずそれにそれに反対し、彼らの活動を妨害する者たちが現れまています。パウロはその妨害する者たちから自ら逃れるか、あるいは追い出されるか、いずれにしてもパウロにとって思わしくない理由が元になり他の場所に伝道の活動を移さなければならなかったことが分かるのです。つまり、彼があれほどまでに様々な場所に赴いて福音を伝える使命を果たすことができたのは、彼にとってはこの思わしくない様々な妨害活動があったからだと言うこともできる訳です。 この東川口教会の伝道は北米キリスト改革派教会と言うアメリカの教会から派遣されたヤング宣教師によって始まりました。実はこの北米キリスト改革派教会が日本伝道に着手したのは戦後のことでした。それまで北米キリスト改革派教会の宣教師は中国大陸で伝道活動を行っていました。ところがご存じのように戦後になり中国大陸では共産党が新たな政権を作り、全土を支配することになりました。この共産党政権はキリスト教の宣教活動に対して反対し、中国大陸で働いていた宣教師たちを追放してしまいます。その追放された宣教師たちが本国に帰国する際に立ち寄った日本の地で、当時、誕生したばかりの日本キリスト改革派教会の存在を知り、彼らと協力して日本伝道を開始すると言うことになったのです。つまり、中国での伝道活動の中止が、北米キリスト改革派教会の日本宣教の開始につながり、東川口教会の伝道にまでつながっているのです。 人の目には思わしくない出来事、私たちの立てた計画を覆してしまうような厳しい出来事が現実に起ります。しかし神はその出来事を用いて福音をさらに多くの人々に伝えようとしてくださっていることを私たちは教会の歴史を学ぶことで知ることができるのです。 2.町にとどまり続けたパウロ さて、このようなパウロの通常の伝道活動のスタイから考えると今回取り上げられているイコニオンでの活動では意外なパウロたちの伝道の姿勢が示されています。なぜなら、パウロたちはここで彼らの活動に反対する人々の妨害活動に出会いながらも、なお、そこで宣教活動を継続して、かなり長い期間に渡りこの場所にとどまったことが聖書に記されているからです。そこで、聖書学者たちのある人たちは2節の部分の最初の反対者の妨害活動は本来の使徒言行録にはなかったと考えて、主張します。また、後代の写本の中には2節の言葉に「主は速やかに平和を与えてくださったので」と言う文言を加えられていて、パウロたちがイコニオンの町に長くとどまり続けた理由を説明しているものもあるのです。しかし、そのような見解を取ると3節の「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った」と言われている言葉の意味が分かりにくくなってしまうと説明する人もいます。確かにこの3節の言葉は明らかにパウロたちが妨害者たちの活動を恐れずに勇敢に福音を語り続けたと言っているように読めます。ですから、パウロたちはこのイコニオンの町で反対者たちの妨害に会いながらも、この町にとどまり続け多くの人々に福音を伝えたと読む方が相応しいと言えるのです。 3.福音に対する二つの反応 それではなぜパウロたちはこのイコニオンの町に長くとどまり、そこで福音を伝え続けたのでしょうか。さらに本文に基づいてそのことを考えて見たいと思います。 このイコニオンの町は前回学びましたピシディア州のアンティオキアの町から東に90マイルのところ、つまり145キロほど離れた場所にあった町です。パウロとバルナバはいつものとおりまずこの町でユダヤ人が礼拝のために集まる会堂に入り、そこで福音を語りました。その結果、大勢のユダヤ人やギリシャ人が信仰に入ったと言われています。ここで登場する「ギリシャ人」はユダヤ人の会堂に出入りしている人たちですからユダヤ教に改宗したギリシャ人と考えてよいかもしれません。 そしてここでもやはりパウロたちの福音伝道に対して、逆の反応を示す人々が登場しています。パウロが語るイエス・キリストについての福音を信じようとしないユダヤ人たちです。彼らは他の異邦人たちを扇動し、パウロやバルナバたちに悪意を抱かせます。ところが、このような妨害にも関わらずパウロとバルナバはこの町で大胆に福音を語り続けたのです。彼らのこの活動の結果、「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた」(4節)と語られています。イコニオンの町の人々が福音に対する立場によって二分されてしまったと言うのです。通常はパウロの活動を快く思わないユダヤ人がその活動を妨害するのですが、ここではユダヤ人も異邦人も町中の人々が二つのグループに分かれてしまうのです。 そして「異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとした」(5節)と続けて語られています。指導者たちが使徒たちに反対するグループに加わり、パウロとバルナバに乱暴を働き、石を投げつけて彼らを殺そうとしたのです。日本には君が代や日の丸について賛成の人もいれば、反対の人も存在しています。しかし、一度、指導者たち、つまり公権力を持つ人々が一方の立場を指示することになれば、もう一方の側に立つ者たちはこの権力によって罰せられることになります。パウロたちに対する妨害に公権力が加わったとき、二人はこの町を離れる決心をしています(6節)。 4.恵みの言葉への証し (1)主に信頼する このようにパウロとバルナバは最後にはこのイコニオンの町を脱出することになりますが、彼らはそれまで反対者たちの悪意に満ちた妨害にも関わらず、かなりの長い期間にわたってこの町にとどまり続け、キリストの福音を伝えました(3節)。彼らのこの粘り強い活動の根拠について使徒言行録の著者はここで簡単に述べています。 「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである」(3節)。 二人が頼ったのは「主」であったと語られています。人間の力や計画が無用であると言うのではありません。しかし、私たちは人間の力や計画に頼りすぎて、主に信頼することを忘れてしまうと言うことはないでしょうか。パウロたちは主に信頼し、その主が自分たちに委ねてくださった福音伝道の使命をこの町でも全うしようと努めたのです。 「自分に自信が持てない。自分を好きになれず自己嫌悪に陥る」。先日、聖書研究会の出席者の中でそんな話題が登場しました。自分に自信がなければ私たちは生き方において消極的になってしまいます。聖書はその私たちに主に信頼するようにと教えています。それは私たちが無理をしてでも、もっと積極的になれと教えるのではありません。聖書は神を信頼しなさいと私たちに教えるのです。そしてその神が私たちに与えてくださったこと、つまり私たちにできることにどんなに豊かな可能性があるかと言うことに気づきなさいと教えるのです。主に信頼して、私たちが自分でできることをするなら、神がそこで豊かに働かれ、大きな業をなしてくださるのです。ですから、大切なのは私たちが主に信頼して、私たちに委ねられた業を忠実にすることなのです。 (2)主の証し このように主を頼みとして勇敢に福音を伝えるパウロとバルナバに対して、主はここで何をされたのでしょうか。使徒言行録は次のように語ったています。「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである」。 「不思議な業」と言われていますから、おそらく彼らの手を通して様々な奇跡的な出来事がこのときに起ったのかもしれません。主はそのような出来事を人々に示すことで、パウロたちが語っている「恵みの言葉」が真実であることを証しされたと言うのです。 私の母が亡くなってからやっと先日、納骨式を終え、遺骨を墓に葬ることができました。しかし、納骨式は終わったのですが、茨城に残された家の管理や、その他の手続きがたくさんあって、その作業に今も追われる毎日を送っています。市役所や年金事務所、銀行や郵便局、そこで様々な書類を提出して、その書類に自分の名前を書き、その上で印鑑を押します。印鑑はこの手続きをしたのが本人自身であると言うことを証明をするために使われるのです。 「恵みの言葉を証しされる」と言うのは、言葉を換えれば「恵みの言葉に印鑑」を押すと言うことです。パウロたちの語っている福音が彼らから出たものではなく、主の語られた福音であり、彼らの活動もまた、主が彼らを通してなされていると言うことを証しするために主はここで印鑑を押してくださったと言うのです。 そのような意味でパウロがここでなした 「不思議な業」は決して彼らの活動の目的ではなく、彼らが語る福音が主の福音であることを証しするためのものだったと言うのです。ここから学べる点は、私たちが語る福音が真実であると言うことを証しするのは、私たち自身ではなく、主であると言うことです。 聖書の言葉を人間の科学で証明しようとする試みが今でも一部のキリスト者の中で行われています。一見、それは熱心な信仰から生まれてきた活動のように見えます。しかし、聖書の言葉を人間の科学で証明すると言うことは、聖書の上に人間の科学の権威があると言うことになります。しかし、いつの時代にも必ず限界があり、また誤り得る人間の科学が聖書の正しさを証明することは不可能です。むしろ、聖書の言葉が真実であることを証明されるのは主ご自身、神ご自身であると言うことを私たちは覚えるべきです。 ですから私たちに大切なのは聖書の言葉を忠実に伝える使命です。私たちが聖書の言葉を忠実に伝えるならば、神ご自身がその言葉が真実であるという証しをしてくださるからです。 5.大胆にみことばを語る 「不思議な業」と言う言葉からこの主の証しが私たちの日常生活からかけ離れたものであると考えてしまってはいけないと思います。むしろ、この言葉は私たちに聖書の言葉を受入れさせ、それを信じさせてくださる神のみ業を語っていると言っていいのです。つまり、この礼拝に集まって、神を信じ、キリストを救い主と告白して信仰生活を送ることができている私たちは誰でも必ずこの「不思議な業」を体験していると言うことになる訳です。なぜなら、主の働きがなかれば誰も神を信じることはできないからです。 以前、ある説教者がこんなことを語っていたことを思い出します。その方が目が不自由なキリスト者の群が主催する集会に講師として呼ばれて、たくさんの目の不自由な人と出会い、お話する機会がありました。そこで一つのことに気づいたとその方は言うのです。そこに集まる人の内で結構、たくさんの人々が「これが私たちを信仰に導いた聖書の言葉です」と証しする箇所が同じであったと言うのです。それは皆さんもご存じのヨハネによる福音書9章に登場するイエスの言葉です。ここでイエスは道で物乞いをしていた生まれつき目の不自由な人について弟子たちにこう語ったと言うのです。 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。 その集会に集まった目の不自由な方々が口をそろえたように「この言葉が私の人生を変えました」、「私はこの言葉を通して神様に出会い、その救いを受けることができました」と喜んで証しをされる姿に出会ったと言うのです。しかし、その言葉を聞いていてその方は不思議な思いに駆られたと言うのです。この9章に登場する生まれつき目が不自由な人はここでイエスの「不思議な業」を体験することになり、目が見えるようにされました。しかし、その集会に集まっている人たちはそうではありません。依然として彼らの目は不自由なままなのです。しかしそこに集まった人々はそのことについて不満を漏らす人はいません。そして喜びを持って語るのです。「私の心の目は開かれた。イエス様を見ることができるようにされた。闇に閉ざされていた人生に本当の光が与えられた」と。 確かに主イエスはみ言葉を通して私たちの上に今でも「不思議な業」をなされているのです。私たちにの人生を全く変えてしまうような業が今、起っています。主の言葉が語られるときに、それを聞く人々の人生の上に主の「不思議なみ業」が実現するからです。ここに私たちが主のみ言葉を大胆に語ることが重要である理由があるのです。私たちが主のみ言葉を大胆に語ることで、実際に絶望の淵に立たされた人々の上に、希望の光が与えれます。罪の奴隷として死に運命づけられた人々に、豊かな罪の赦しと、永遠の命が与えられるのです。そこで神が今でも語られたみ言葉に証しの印鑑を押してくださるからです。 主に信頼し、大胆に福音を宣べ伝えたパウロとバルナバのように、私たちも自分の生活の中で与えられた機会を通して、福音を語りたいと思います。そうすれば、主は必ず私たちの語る福音に自ら印鑑を押し、その言葉が真実であると証明してくださるのです。
【祈祷】 天の父なる神様 人の語る福音の言葉を「不思議なみ業」を持って証しされるあなたは、確かに私たちの人生の上にも同じように働いてくださいました。あんたのこのみ業によって私たちの心の目は開かれ、今、イエスを救い主として信じることができていることを感謝いたします。 私たちも主に信頼して、福音の言葉を語り続けることができるようにしてください。困難の中にあってもあなたがそのみ業を証ししてくださることを信じ、そこに私たちの希望を置くことができるようにしてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。