Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年9月23日  「恵みの神に立ち返れ」

聖書箇所:使徒言行録14章8〜20節(新P.241)
リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。
9 この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、
10 「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。
11 群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。
12 そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。
13 町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。
14 使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで
15 言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。
16 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。
17 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」
18 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。
19 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。
20 しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。

1.いやされるのにふさわしい信仰
(1)真の神を知らない人々に語られた説教

 パウロとバルナバによって始まった第一次の伝道旅行は今日の箇所で登場するリストラの町からさらにデルベにまで至り、次に同じ経路を逆戻りしてパウロたちの最初の出発地であったアンティオキアに戻って終わります。この後に訪れるデルベの町の出来事はほとんどこの使徒言行録には触れられてはいないのに対して、このリストラの町での出来事はかなりの部分を使って紹介されています。そして、この町でのパウロたちの伝道は今までなされた伝道方法とはかなり違っているように見えます。何度もこの礼拝で確認したように、パウロたち伝道のために新しい町を訪れるとまず、そこに住むユダヤ人たちが礼拝のために集まる会堂を行き、その礼拝の席で、旧約聖書の証言に基づく説教をしています。その点では、彼らの伝道の対象はまず海外に移り住んでいたユダヤ人たちであったと言うことができます。
 ところがこのリストラの町ではユダヤの会堂はまったく登場していません。物語はリストラに住んでいた足の不自由な男とパウロと出会いからいきなり始まっているのです。しかも、この出来事をきっかけにパウロの周りに集まってくる人々は明らかに異教の神々を信仰している異邦人たちであったことが分かります。そしてパウロはそこに集まった人々にキリストの福音を証しする説教をしていますが、この説教は今までのユダヤ人に向けて語られた説教とはかなり異なっています。なぜなら、ここでのパウロの説教は旧約聖書を知らない、つまりは聖書の証しする真の神を知らない人々にその神を証しすると言う内容になっているからです。
 現代の欧米社会では毎日曜日に教会の礼拝に熱心に出席する人々は少なくなっていると言われています。しかし、それでありながらも欧米の社会で生まれ育った人々はキリスト教の影響を全く受けることなく生きることはできません。彼らのほとんどは何らかの形でキリスト教の教えについて、また聖書の教える内容について知っているのです。それに反して、私たちの住む日本の社会ではむしろキリスト教について、また聖書について何も知らないと言う人がたくさんいます。そうなると欧米の社会で語られる伝道説教とこの日本での伝道説教はかなり違ってくるはずです。そのような意味でここでのパウロの説教はむしろ私たち日本人にも通じるようなものとなっているのです。

(2)足の不自由な人の信仰

 さて、この物語は先ほども少し触れましたようにリストラの町に住んでいた足の不自由な男とパウロとの出会いから始まっています。彼は「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった」(8節)と語られています。当時、このように体に障害を持ち、通常の仕事に就けない人々は道ばたで物乞いをして生計を立てるというのが普通でした。おそらく彼が「座っていた」と言われるのは道ばたで物乞いをしていたと言うことではないでしょうか。この物語には後でゼウスの神殿に仕える祭司たちが登場します。つまり、この町にはゼウスを祭る神殿があり、その神殿を参拝する人々で賑わっていたと考えることができますから、彼はその参拝客を目当てに道ばたで物乞いをしていたとも考えることができるのです。

「この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」(9節)。

 パウロはこのリストラの町でユダヤ人の会堂ではなく、町の街頭でそこに集まる人々に対してキリストの福音を語ったようです。この男はこのパウロの話に関心を持ち耳を傾けていました。そしてパウロはこの男に気づき、じっと彼を見つめて観察し、彼に「いやされるにふさわしい信仰があるのを認め」たと言うのです。この言葉から「いやし」にはそれにふさわしい信仰が求められると言うことが分かります。ところがその「癒されるにふさわしい信仰」の内容については、ここでは何も説明がされていません。ここからわかることは彼が子供の頃から足が不自由で、まだ一度も歩いたことがない人物であったと言うことです。つまり、彼の抱えていた問題は人間の提供する何らかの手段や、ましては自分の努力では全く解決することができないものであったことが分かるのです。その彼がパウロの語るキリストの福音の言葉に熱心に耳を傾けていました。つまり、今まで自分の人生に何の可能性も希望も見いだせないままに生きていた人物が、パウロの語るキリストの福音に深い関心を抱いて耳を傾けていたと言うのです。
 そしてその彼の信仰を見抜いたパウロは彼に向かって「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と語りかけています。すると彼はパウロの語った言葉に応えるかのように「躍り上がって歩きだした」と言うのです。

2.偶像を離れて、生ける神に立ち帰れ

 さて、お話はこれで終わりではありません。この出来事がきっかけとなってここで物語は新たな展開へと進んで行きます。

「群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ」(11〜12節)。

 このリストラの町には昔、ゼウスとその子であるヘルメスが人の姿をとってやって来て、一組の老夫婦が彼らをもてなしたと言う伝説が伝えられていたと言います。そこでこの不思議な業を目撃した人々はパウロとバルナバをギリシャの神々が人の姿を借りて現れたと考え、大騒ぎしたのです。ここで「リカオニアの方言で」と言う言葉が付け加えられています。おそらく、パウロたちは町の人々がリカオニアの方言で語っていたので、最初、町の人々が何を騒いでいるのかよく理解できなかったのです。だから、二人はやがて町の人々が自分たちを神々と考え、礼拝しようとしていることに気づき、大変に驚き、慌てたのです。

「町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした」(13節)。

 ゼウスはギリシャ神話に登場するオリンポスの神々の主神であり、その子であるヘルメスは言葉の神として人々に信じられていました。ですから人々は年上のバルナバをゼウスと考え、雄弁に説教を語るパウロをヘルメスの化身と考えたのでしょう。そしてバルナバとパウロはやっとこの時点で、人々が何をしようとしているかに気づき、驚き慌てるのです。

「使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(14〜15節前半)。

 人々に真の神を伝え、偽りの神々を祭る偶像崇拝から離れるようにと説得するためにやってきたパウロたちがここで人々によって偶像とされようとしていることに気づきます。ここで語られている「服を裂く」と言う行為は彼らの驚きと強い怒り、つまりは強い抗議の姿勢を表しています。
 私たちも周りの人々から自分のしたことを高く評価されたり、ほめられたり、もてはやされたりすればよい気持ちになるものです。しかし、もし人々が私たちに対して現実以上の期待を抱くようになるならばどうでしょうか。それはその期待を抱く人にも、また期待を抱かれる私たちにも決していい結果をもたらすものではありません。大切なのは私たちが皆、同じ人間同士であり、皆、弱さを持つ存在であること、だからこそ私たちは真の神の助けを必要としていることを認めることにあるのです。

3.恵みの神の証し(16〜20節)
(1)神は何もしていないのではない

 パウロは人々の大変な勘違いに対して強い抗議の姿勢を示しました。しかし、彼はこの出来事が伝道に結びつく好機と考え、真の神についての証しを人々に語り始めています。

「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(15節後半〜17節)。

 真の神こそ天地万物を創造された方であるとパウロは語ります。そしてその神は過ぎ去った時代、人々を思い思いの道に行くままにさせていたと言うのです。ノアの方舟の時代のように神を忘れて好き勝手に生きる人々をたちどころに滅ぼしてしまうのではなく、彼らをそのままにさせていたというのです。しかし、神はだからと言って人間に無関心であったわけではなく、絶えず彼らに恵みを施し、ご自身の存在を証しし続けてくださったと言うのです。「恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」。私たちがこの地上の生活を平穏に生き、また楽しむことができるのは皆、この恵みの神のみ業であるとパウロは語るのです。
 ところが人類はこの恵みの神の確かな証しを今は理解することができません。なぜなら、人間の認識機能は歪められてしまっているからです。それが聖書の言う、罪に陥った人間の姿なのです。だからこそ、神は聖書を私たちに与え、ご自身を正しく理解できる別の方法を提供されたのです。また、聖霊を送り私たちに信仰を与えられる神は、同時に私たちの失われた機能を回復させてもくださるのです。つまり、いまやイエス・キリストを信じる者とされた私たちは、聖書だけではなく、恵みの神の日々のみ業を通じて、その神を正しく知ることができるようにされるのです。パウロの説教を聞いて、人々が彼の主張のどこまでを理解したのかはここでは分かりません。しかし、彼らはこのパウロの話を聞いてパウロとバルナバにいけにえを献げることを中止したと言うのです。

(2)キリストの思いを通してなされる伝道

 私たちは今日の箇所から福音伝道の一つの特徴について最後に考えてみたいと思います。それはこの物語のきっかけとなった出来事にヒントが隠されていると思います。リストラの町に足の不自由な男が座っていました。そもそもパウロはどうしてこの男に感心を持って近づいたのでしょうか。「彼は自分たちの仕事に役に立ちそうだ」とパウロは考えたからでしょうか。おそらく利害関係を考えるならこの町にはもっとパウロたちのために役に立ちそうな人がいたはずです。しかし、パウロがこの男に目をとめたのは、彼がいつもイエス・キリストに目を向け、またそのイエスに関心を持って生きていたからではないでしょうか。聖書に語られるようにイエスは病んでいる人々や傷害を持って生きている人々に強い関心を持っていました。また進んで彼らに癒しのみ業を行われたのです。パウロはそのようなイエスの関心を知っていました。だからいつも、「イエスならまずここで何をされるだろうか」と考え行動したのではないでしょうか。だから、パウロはこのリストラの町でこの足の不自由な人にまず目をとめ、しっかりと観察したのです。
 パウロはこの男を見つめ彼が癒されるにふさわしい信仰を持っていることを確認しています。先ほどはこの男がどんな信仰を持っていたかについて少し考えましたが、この言葉をパウロの側から考えるならば、パウロはここで確かに彼の上にイエスが働いてくださることを確信したと言うことになります。
 福音伝道において大切なことは私たちが主イエスの抱く関心と同じ関心を抱くと言うことではないでしょうか。「主イエスならここで何をされるだろうか。何を大切にされるだろうか」を私たちが考えるとき、私たちがそこで何をなすべきかが自ずと明らかになります。そしてもう一つ大切なことは、そこでイエスが私たちの信仰を通して豊かに働かれると言うことを確信することです。主イエスが働かれると言う確信がなければ、私たちの行動は必ず行き詰まってしまうはずですし、自分の力だけを頼りにすれば、私たちは何もできなくなってしまいます。私たちは自分を偶像とするのではなく、生ける神を頼って生きなければならなにのです。
 このように福音伝道は自分を証しするのではなく、生きた神を証しする業です。そして、この物語はその福音伝道の特徴をよく私たちに伝えているのではないでしょうか。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちの心の目を開き、あなたの恵みを理解することができるようにしてください。私たちが主イエスの関心に目を向け、それを実現できるようにしてください。そして私たちの日々の歩みの中であなたのみ業が豊かに表され、生ける神が私たちと共にいてくださることを、私たち自身が人々に証しできるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。