Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年9月30日  「信仰に踏みとどまる」

聖書箇所:使徒言行録14章21〜28節(新P.242)
21 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、
22 弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。
23 また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
24 それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、
25 ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、
26 そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。
27 到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。
28 そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。

1.逆戻りする旅路

 皆さんは自分の生まれ故郷についてどのように普段、感じられているでしょうか。「故郷には良い思い出もあれば、悪い思い出もある」そう考える人も中にはおられるかもしれません。この使徒言行録の登場人物であるパウロは現在のトルコに位置する「タルソス」と言う町の出身であったことがわかっています。今まで使徒言行録を読んできてパウロとバルナバの一行はデルベと言う町に至り、そこでも福音を語り、多くの人々をイエスの弟子としたと言うことが今日の箇所の最初の部分に記されています(21節)。その後、パウロたちはどうしたのでしょうか。聖書の巻末の地図をごらんになられるとわかるのですが、このデルベの町から東に向かうとパウロの生まれ故郷であるタルソスの町がありました。さらにこのタルソスから東に行けば、彼らのこの伝道旅行の最初の出発地であったシリアのアンティオキアの町があります。もしこの時の彼らがこのアンティオキアに帰る目的を持っているならば、このデルベの町から東に向かった方が簡単であったはずです。ところが、パウロたちはこの時、東に向かうのではなく、逆の西に向かって、ちょうど自分たちが今まで来た道を引き返すと言うコースを選んでいます。考えてみると、このコースを戻ると言うことは彼らにとって都合のよいものではなかったはずです。なぜなら、これらの町々にはパウロたちの活動を快く思わず、その活動を妨害したり、パウロたちの命まで奪おうとした人々が待っているからです。つまり、パウロたちがこの時に選んだ旅路は、彼らに命がけの決断を求めるほどの厳しいコースだったのです。そしてパウロたちは自分の命をかけてもこのコースを辿らなければならないという使命感を持って旅を進めたのです。

2.多くの苦しみを経なくてはならない

 パウロたちが「どうしてもしなければならない」と感じていたこと、それは「弟子たちを力づける」ことであったと聖書は記しています(22節)。確かにこのコースを辿れば、パウロたちの敵がそこには待ち構えています。しかしその一方で、そこには同様にパウロたちの伝道によって救い主イエスを信じた新しい仲間たちが待っていたのです。その新たに弟子として加わった人々を力づけることが大切であるとパウロたちは考えために彼らはこのコースを戻ることを選んだのです。
 洗礼を受けてキリスト者となるとき、私たちは誰もが何らかの感動を持って信仰生活を出発させます。しかし、人間の感情に根拠を置くような感動は必ず月日が経てば薄らいでいくものです。その感動が薄らぎ始めると同時に、私たちは様々な疑問を抱き始めます。あるいはキリストに救われたと言う事実よりも、現実に自分たちの生活に起こる出来事に目を向けてしまい、喜びのない信仰生活を送る人も現れます。ましてや、自分の生活に困難な出来事や試練が訪れたとしたら、その人の信仰生活はどうなってしまいでしょうか。パウロはここで新しく弟子となった人に勧めています。

 「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(22節)。

 おそらくここで思い浮かぶのはパウロたちの伝道を妨害し、彼らを苦しめた人たちの存在です。彼らはパウロたちばかりではなく、キリストの福音を信じて新たに弟子となった人たちにも同じような態度をとったはずです。そうなると、彼らの信仰生活は平穏無事と言うわけには行きません。彼らの信仰生活は厳しい迫害を受けることが予想されます。パウロはここで今、自分たちの受けている様々な苦しみと、自分たちの救いの完成と言う出来事は決して無関係ではないと教えています。むしろ、私たちの救いが完成されるために、信仰者は多くの苦しみを受ける必要があると言っているのです。この試練と私たちの信仰の関係ついて、パウロと同じように初代教会における重要なメンバーだっった使徒ペトロはその手紙の中で次のような言葉を残しています。

 「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(ペトロ一1章7節)。

 試練は私たちの信仰にとって都合の悪いものではなく、私たちの信仰が確かなものとなるための助けとなるとペトロはここで語っているのです。そしてパウロも私たちの救いの完成のために試練は私たちの信仰生活に必要であることを語っているのです。それでは私たちがこの試練に勝利して、信仰生活を全うするためにはどうしたらよいのでしょうか。

3.信仰に踏みとどまるために
(1)本当に信仰を持ち続けることができるのか

 私が教会に行って、洗礼を受けキリスト者となったのは大学生のときでした。そんな私が洗礼を受けて、まだその感動も薄れてはいないときのことです。学校の授業の帰りに電車に乗っていると懐かしい高校時代の友人数人と久しぶりに顔を合わせることになりました。お互いに最近の様子などを語り合っているとき、私は「実は最近、教会に行くようになって、洗礼を受けたんだ」と彼らに打ち明けました。すると、そこに言わせた友人がお互いにうなずきながら「今度は、どのくらい続くのかな」と私に問うた風景が今でも私の脳裏に残っています。
 私の友人たちは私が「熱しやすくて、冷めやすい」という性格を持った人間であることをよく知っていました。つい最近までは、彼らの前で社会矛盾を厳しく批判し、「成田空港の反対運動に参加すべきだ」と叫んでいた人物が、急に「クリスチャンになった」と言い出した訳ですから、友人たちがそう問うたのも無理はありません。はっきり言って、その友人の言葉を聞いて、一番心配になったのは私自身でした。そのとき、私は言葉には言い表しませんでしたが、「本当に自分は信仰を持ち続けることができるのか」と言う不安を感じました。そんな私が今まで信仰を持ち続けることができたのは自分の力ではなく、神が私の信仰を守ってくださったからだと言わずにはおれません。

(2)神は教会を通して私たちの信仰を守られる

 パウロはここで新しく弟子にされた人々に「信仰に踏みとどまるように励まし」ました。しかし、パウロはそれを「あなたたちが自分の持っている力で信仰を持ち続けるように」と勧めたのではありません。その証拠にパウロはこの勧めを語りながら次のようなことをしているのです。

「また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」(23節)。

 キリストの弟子たちが集まるところには必ず教会は生まれます。しかし、その教会が毎週礼拝を献げ、またそこに集まる兄弟姉妹たちがともに慰め、励まし合って信仰生活を送るためには、その教会を導くリーダーたちが必要になります。パウロはこのとき教会のために「長老たちを任命し」たのです。そして断食をして、主に新しく弟子となった人たちが信仰に踏みとどまることができるようにゆだねました。言葉を換えて言えば、主は教会の働きを通して私たちの信仰生活を守ってくださるのです。私たちの信仰が今日まで守られているのは、神が私たちのために教会を与えてくださり、その教会の活動を通して私たちの信仰生活を導いてくださったからなのです。ですから私たちが信仰に踏みとどまるためには、教会にとどまり続ける必要があるのです。どんなに困難な出来事があっても、また試練に出会ったとしても、私たちは教会を離れないで教会生活を続けるべきなのです。そうすれば、神は教会の礼拝を通して、また兄弟姉妹との交わりの通して、私たちの信仰生活を守り導いてくださるからです。

4.神がともにいてくださる
(1)神が異邦人たちに信仰の門を開かれた

 パウロとバルナバは新しく弟子となった人々の信仰生活が主によって守られるように、彼らを励まし、彼らのために教会の役員を選び、その組織をしっかりとしたものとしました。そしてその任務を果たした後、彼らは自分たちをこの伝道旅行に派遣したアンティオキア教会に戻り、伝道旅行の報告を伝えようとしたのです。

 「そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」(26〜27節)。

 ここにはとても興味深い表現が記されています。「二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された」と書かれています。つまりアンティオキア教会の人々はパウロとバルナバが福音を伝えることができるために神の恵みに彼らをゆだねたのです。と言うことはアンティオキア教会の人々がパウロたちの報告を通して聞きたいと願ったことは、営業マンが自分の優秀さを示すために行う営業報告のようなものではなくて、神の恵みがどのようになったのか、つまり神が彼らを通して何をしてくださったのかと言うところにあったことが分かります。
 それゆえにパウロたちはここで「神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」と言われているのです。パウロたちの報告は自分たちの活動報告と言うよりは、神のみ業についての報告であったのです。ですから異邦人たちがパウロたちの伝道を通して弟子となったことは、偶然ではなく神のみ旨であると判断することができたのです。

(2)事実を解釈する判断基準

 ここで使徒言行録の文章はパウロとバルナバの報告をわずか一行あまりの文字数で記しています。しかし、実際の彼らの報告はかなり詳細で、時間のかかるものであったと想像することができます。二人は「しばらくの間、弟子たちのと共に過ごした」と続けて語られています。彼らはこの間も、自分たちの伝道報告をたくさんの人々に伝え続けたのかもしれません。皆さんもよくご存じのようにヤング宣教師は三年に一度くらいのペースで「ホームサービス」と言ってアメリカに帰国することがありました。これは休暇のためにアメリカに帰ると言うのではなく、その期間に時間をかけてアメリカの各地を巡って日本での宣教の報告をするためのものでした。
 パウロたちも伝道旅行の一部始終を教会の人々に詳しく報告したはずです。そこで彼らは伝道旅行でのどんな出来事を、どのように人々に伝えたのでしょうか。今まで、私たちがこの使徒言行録の記事を通して学んできたように、この伝道旅行でパウロたちは様々な事件に遭遇しました。新しい町で伝道を開始すると、確かに多くの人々が彼らの語る福音に耳を傾け、新しく弟子となりました。しかし、そうなると必ず彼らの働きを快く思わない人々が現れ、彼らの伝道活動を妨害し始めます。だから、彼らはその妨害を避けて、新しい町に転々と活動の拠点を移さざるを得なかったのです。それだけではありません。私たちが前回に学んだリストラの町では、ユダヤ人たちに唆された群衆がパウロに取り囲んで石を投げつけ、パウロは一時「死んでしまったものと思われた」ほどの状態になっています(14章19〜20節)。つまりパウロは彼らに殺されはぐったのです。いったいこんな経験をしたパウロたちの報告はどのようなものになったのでしょうか。
 松下幸之助について以前こんな話を聞いたことがあります。若い頃、とても貧しかった幸之助はあるとき港で船の荷物を運ぶ労務者として働いたことがありました。ところが彼はそのとき誤って冬の冷たい海に落ちてしまうと言う失敗を犯します。彼はそのときすぐに海から引き上げられて無事だったのですが。この出来事の後、彼は二人の人からそれぞれこんな話を聞くことになったというのです。
 一人は幸之助に「お前はなんて運の悪いやつなんだ。よりによってこんな冷たい冬の海に落ちるなんて。きっとこれからもお前の人生にはろくなことが起こらないぞ」と。しかしもう一人は幸之助にこう語ります。「お前はなんてついているやつなんだ。こんな冬の冷たい海から無傷で助けられるなんてたいしたものだ。きっとこれからもお前の人生にはよいことが起こるかもしれないな」。同じ出来事を捉えながらもながらも全く違った二つの解釈を幸之助は聞いたと言うのです。
 使徒言行録の伝えるパウロの短い報告には「神が自分たちと共にいてくださった」と言う文章が記されています。パウロはどのように自分たちの経験した事実を理解したのか、その鍵がこの言葉に隠されています。どんなことが起こっても神が私たちと共にいてくださる。だからどんな出来事にも意味があり、神のためにならないこと、また自分たちのためにならないことはないと彼らは考えていたことが分かるのです。

 「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5章3節)。

 私たちは自分の人生に起こった出来事の中で自分にとって都合のよいことだけに目を向けて、そうではないことには目を向けないこともできます。しかし、パウロが私たちに教える人生の見方はそれとは違います。たとえそれが私たちにとって苦難でしなかないものでも、そこから私たちは必ず希望を見出すことができるのです。なぜなら、私たちの人生に神が共におられるからです。
 私たちはこの礼拝に集い、神のみ言葉を聞く中で絶えず「私たちの人生には神が共におられる」と言う恵みの事実を告げ知らされます。そして、私たちはその恵みの事実を通して、私たちの人生に起こる出来事を理解し、そこで新たな希望を見出すことができるのです。神が私たちが信仰に踏みとどまることができるようになるために、私たちに教会を与えてくださっていることに感謝したいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちの思いや感情は絶えず定まらず、また私たちの持つ力には私たち自身の信仰生活を支える力はありません。だからこそ、あなたは私たちのために教会を作り、私たちをその教会に導いてくださいました。そしてその教会の礼拝で語られるみ言葉を通して、あたなは私たちに与えられた恵みをいつも示してくださいます。そして、私たちに与えられた苦難もまた、私たちに希望を与えるためにのものであることをも教えてくださいます。どうか私たちが信仰に踏みとどまり続けることができるように、教会を通して助けを与えてください。私たちの教会があなたの恵みをすべての人々に分け与える場所となることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。