Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年10月7日   「神は何の差別もされない」

聖書箇所:使徒言行録15章1〜21節(新P.242)
1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
2 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
3 さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。
4 エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。
5 ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
6 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
7 議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。
8 人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。
9 また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。
10 それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
11 わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」
12 すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。
13 二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。
14 神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。
15 預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。
16 『「その後、わたしは戻って来て、/倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、/元どおりにする。
17 -18それは、人々のうちの残った者や、/わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、/こう言われる。』
19 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
20 ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。
21 モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。

1.教会に起こった混乱
(1)別の教えを語る人々

 今週は教会に起こった教理的な問題を解決するために開催されたエルサレムでの教会会議について学びます。まず、どうして初代教会がこのような会議を開催することになったかについてですが、使徒言行録の著者はその理由について次のように記しています。

「ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた」(1〜2節)。

 パウロたちの伝道によってユダヤ人ではない異邦人のクリスチャンたちがたくさん教会に誕生しました。彼らはパウロの口から「イエス・キリストを信じることで人は神の前に義しい者とされ、救われる」と言う福音を聞きました。だから彼らはその福音を受け入れてイエスを信じ、喜びをもって信仰生活を始めたのです。しかし、そのような彼らの元にユダヤからやって来た何人かの人たちが、彼らに向かって「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教え始めたのです。つまり、彼らは「イエス・キリストを信じるだけで救われる」と語ったパウロたちの教えに反した教えを公然と教会で語り始めたのです。
 こうなると、異邦人のクリスチャンたちの間に混乱が生まれます。「自分たちはこのままでは救われないのか」と言う疑問が生まれるからです。せっかくパウロの伝道によって信仰に入った異邦人たちが信仰についての疑問を抱き始め、今まで持っていた信仰生活の喜びも失いかけるような出来事が起こったのです。

(2)求められたエルサレム教会の見解

 この問題がなおさら深刻であったのは、パウロの教えとは違う教えを語り出した者たちが「ユダヤから下って来た」と言われている点です。彼らは使徒たちが所属していうるエルサレム教会からやって来た者たちだと言うのです。そうなると彼らはエルサレムにいる使徒たちの指示によってパウロと違った教えを語っていたとも考えることができます。パウロの記したガラテヤの信徒への手紙の中でパウロたちの属するアンティオキア教会にエルサレム教会の「ヤコブの元からやってきた者たち」が教会に混乱をもたらした様子が記されています(2章11〜14節)。
 このヤコブはエルサレム教会のリーダーでイエスの実の兄弟であったと考えられています。このときパウロと違った考えを披露した人々はこのヤコブの権威を借りて自分たちの主張を語ったと考えることができます。こうなるとパウロたちがいくら説得してもそれだけでは解決がつきません。パウロの考えに異を唱える人々がやって来たと言っているエルサレム教会に行って、どちらの主張が正しいのかを判断してもらいこの問題の決着をつけなければなりません。そこでパウロとバルナバはエルサレムにいる使徒や長老たちと話し合うためにそこにアンティオキア教会から送り出されたのです。

2.エルサレム会議

 パウロとバルナバはアンティオキアからエルサレム向かう途中の地でも各地の教会を訪れ、パウロたちの伝道旅行によってたくさんの異邦人たちが回心したことについて報告しています。それに対して各地の人々はパウロたちの報告を喜んで受け入れたと記されています(3節)。そしてエルサレムに到着したパウロとバルナバをエルサレムの教会の人たちも喜んで迎え入れています。そこでパウロとバルナバは自分たちの伝道によって異邦人たちが回心した出来事を「神が自分たちと共にいて行われたことである」と報告しています。つまり異邦人たちの回心は神のみ業であるとパウロは語っているのです。ところがこの席でエルサレムから下って来た人々が語った内容と同様の見解を示す人々が現れます。それはファリサイ派から信者になった人たちでした。彼らは、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」(5節)と主張しました。
 初代教会を騒がせた異端には大きく分けて二つのグループがありました。一つは『グノーシス主義』と言ってこれはギリシャやオリエント地方一体に伝わる宗教思想をキリスト教の中に取り込むと言った形から生まれた異端思想です。ですからこのグノーシス主義は主にユダヤ人ではない、異邦人クリスチャンがもたらされたものと考えることができます。
 そしてもう一つ大きな問題になったのは今日の記事に登場する『ユダヤ主義的キリスト教』と言うものです。こちらの方はむしろ異邦人ではなく、ユダヤ人の側から持ち込まれたものと考えることできます。ユダヤ人たちは旧約聖書に従った生活を子供のときから厳格に守って来ていました。彼らは生まれてすぐに割礼を受け、日常でもモーセの律法に従って生活していたのです。特にこの会議で発言した「ファリサイ派から信者」たちはこの律法を最も厳格に守ったグループの出身者たちでした。彼らは福音書に登場するファリサイ派の人々とは違ってイエスを救い主として受け入れ、教会の仲間となっていました。しかし、彼らの信仰生活は依然として子供のときから守ってきた習慣をそのまま守っていたと思われます。
 ここで問題なのは彼らが自分たちの習慣を新たに教会に加わった異邦人たちも守るべきであると主張した点です。これでは彼らは口先では「イエスを信じた」と言っていたとしても、「ユダヤ人にならなければ救われない」と言っているようなものですから、彼らが元いたファリサイ派の人々の見解を同じになってしまいます。

3.ペトロの主張

 この「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言う主張に対して最初に語り出したのは使徒ペトロでした。ペトロは自分の経験に基づいてつぎのように語ります。

 「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした」(7〜9節)。

 ペトロはかつてローマ軍の百人隊長であったコルネリウスの元を訪れて、彼や彼の周りにいた人々を信仰に導きました(使徒言行録10章)。この出来事はペトロの発案や計画によるものではなく、神がペトロとコルネリウスに幻を見せ二人を導いたことによって実現しました。むしろ最初、ペトロ自身はユダヤ人の習慣に従って異邦人と交わることは好ましくないと考えていたのです。その彼に神は幻の中で「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(同15節)と語られたのです。たとえ彼らが割礼を受けておらず、モーセの律法を守っていなかったとしても神はすでに彼らを清めてくださったのです。だから彼らはキリストを信じることができ、更にその証拠として聖霊を受けたのです(同44〜48節)。ペトロは自分が体験したこの出来事を背景にして異邦人たちが救いに与ることができるのは確かであると語ったのです。

 その上でペトロは「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。」(10節)とユダヤ主義的な見解を持った人々の主張を批判しています。

 そもそもユダヤ人である自分たちがイエスを信じることになったのはなぜなのか。割礼を受けて、モーセの律法を守ることでは自分たちは救われることができないと知ったからではないかとペトロは語ります。それなのにどうして自分たちを救うことができなかったものを異邦人たちにも押しつけるのか。それはおかしな主張に過ぎないとペトロは語ったのです。その上で彼は「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」(11節)と言うパウロたちの主張と同じ見解を語りました。

4.ヤコブの判断
(1)預言されていた異邦人の救い

 そしてこのペトロに続いて発言したのはイエスの兄弟ヤコブでした。つまりアンティオキア教会にユダヤから下って来て「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と主張した人々の後ろ盾となっていると考えられていた人物です。しかし、意外にもヤコブはここで先に発言したペトロの意見に同意を示しています。しかも、彼はその同意の根拠として旧約聖書の預言が異邦人の救いについて教えているのだと語ったのです。

『「その後、わたしは戻って来て、/倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、/元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、/わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、/こう言われる。』(16〜18節)

 ヤコブが引用するのは旧約聖書のアモス書9章11、12節のギリシャ語訳聖書からの引用です。ここでアモスは一度は絶たれたダビデの王権を神によって回復されること、そしてその王権の元に異邦人を含む人々が集められることを語っています。これはダビデの子孫として生まれたイエス・キリストによって実現した救いを表しています。その救いにあずかって教会に集まる人々には異邦人も含まれていると語っているのです。
 ヤコブはこの預言に基づいて「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」(19節)と言っています。エルサレム会議はこのヤコブの発言を最後に「異邦人たちに割礼や、モーセ律法を守ることを求めなくてもよい」と結論づけています。つまり、救いのためにはイエス・キリストに対する信仰だけしか求められないと言っているのです。
 ヤコブはこの後、異邦人たちにいくつかのことを守るようにと指図を残しています。これは「モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです」(21節)と語られているように、むしろモーセ律法を守っているユダヤ人をつまずかせることのないようにする配慮であり、決して救いのために求められているものではありません。このヤコブの指図については次回のこの会議の決定を知らせる手紙の内容の中にも登場しますので、そのときもう一度整理して考えてみたいと思います。

(2)どうしてプラスアルファーはだめなのか

 いずれにしても、エルサレム会議はユダヤ人であっても、異邦人であっても救いはただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ与えられるというパウロたちが伝えた福音の内容を正しいものと結論づけたのです。そしてこれはこのときに初めてこの会議によって発見された真理ではなく、弟子たちがイエスから教えられた真理であり、教会が最初から持ち続けてきた見解だったのです。このエルサレム会議はその真理を改めて公に確認したと言うことができます。
 最後にこのエルサレム会議が確認した内容が当時の異邦人キリスト者たちだけではなく、現在を生きる私たちにとっても大切であることについて少し考えてみたいと思います。
 なぜならば現在の教会の中にもキリストを信じる信仰によってのみ救われると言う教会に与えられた大切な教理をゆがめてしまう誤りが入り込む可能性があるからです。
 「キリストを信じるだけではなく、割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救われない」と言う当時のユダヤ人キリスト者と同じ発言をする人は現在にはいないかもしれません。しかし、「たばこや酒を飲んだら救われない」とか、「教会が定めるこれこれの決まりを守らなければ救われない」と誰かが主張するなら、これもまたエルサレム会議が否定した考えと同じものだと言えるのです。これらの主張の要点はキリストを信じることに何らかの条件をプラスアルファーすると言うところにあります。そしてこの主張が根本的に誤っている点は、イエス・キリストによる救いの完全性を否定してしまう点にあります。なぜならイエス・キリストは私たちのためにただ一度だけ十字架にかかり、その命を捧げることで、私たちに命を与えて、その救いを成就してくださったのです。神はこのイエスの十字架の贖い以外に何らかの償いや代価を私たちに求めることは一切ありません。それなのにそのほかにも何かが必要だと主張することは、この神の恵みを否定し、ペトロが語るように「神を試みる」(10節)ことになると言えるのです。
 第二の点は、このイエス・キリストによる救いの完全性を否定し、何らかの人間的業が私たちのたちの救いのためにさらに必要であると言う主張が正しければ、私たちの救いは不完全なものとなると言う点です。私たちの行いはいつも不完全であり、地上においてそれが完成すると言うことは決してありません。ですから私たちの救いは私たちが地上を去るときまで分からないと言うことになってしまいます。そうなると私たちはイエスを信じて救われたのではなく、救われる可能性を見つけ出しただけと言うことになります。これは逆に言えば、私たちがどんなに熱心にイエスを信じたとしても、私たちには救われない可能性もあると言うことになります。これでは救われるためにたとえその人が熱心に信仰生活に励んだとしても、それは脅迫観念に駆られた信仰生活になってしまいます。これでは私たちの生活には喜びも感謝も生まれません。
 しかし、私たちが信仰生活において喜びを持ち、また神に心からの感謝を捧げることができるのは、私たちに与えられたキリストによる救いが完全であるからです。神は私たちのためにすでにキリストによって完全な救いを与えてくださいました。だから、私たちはこのイエスを信じることで、すでに完全な救いを神から受け取ることができたと確信することができるのです。
このようにエルサレム会議が確認した真理は現代を生きる私たちの信仰にも深く関わっていることを覚えたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様
キリストにあって完全な救いを与えてくださるあなたの恵みに心から感謝いたします。私たちは主イエスを信じる信仰によって、私たちの犯したすべての罪が許され、あなたの前に義しい者とされることができます。これによって私たちは人間を縛りつけていた罪とのろい、そして古き掟から自由にされていることを感謝いたします。私たちがこのような偉大で、すばらしい恵みをあなたからいただいていることに心を向けることができますように。そして私たちの人生を持ってあなたの喜び、あなたの栄光を表す、あなたへの感謝に満たされた信仰生活を送ることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。