Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年10月14日  「福音を告げ知らせるために」

聖書箇所:使徒言行録15章22〜35節(新P.242)
22 そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。
23 使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。
24 聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。
25 それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。
26 このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。
27 それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。
28 聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。
29 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
30 さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。
31 彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。
32 ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、
33 しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。
34 (†底本に節が欠落)
35 しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。

1.エルサレム教会から送付された手紙
(1)エルサレム教会が論議したこと

 前回、学びましたようにパウロとバルナバが所属するアンティオキア教会にユダヤからやって来た数名の者たちが「異邦人であってもモーセの律法に従って割礼を受けなければ救われない」と言うパウロが語った教えと全く違った教えを人々に語り始めました。この人たちによって起こった教会での深刻な論争に対して、アンティオキア教会はパウロとバルナバをエルサレム教会に派遣し、この問題に対する解決を求めたのです。なぜなら、パウロと違った教えを語る者たちは自分たちを「エルサレム教会のリーダーであるヤコブの元からやって来た」と主張していたからです(ガラテヤ2章11節)。
 彼らの主張をここでもう一度整理するなら「モーセの律法を守り、割礼を受けなければならない」と言うことは言葉を換えれば異邦人に対して「あなたたちもユダヤ人になりなさい」と言っていることになります。つまり、彼らの主張は結局、神の前に汚れている異邦人はそのままでは救われない、割礼を受けてユダヤ人になり、モーセの律法を守ってユダヤ人のように生活しなければだめだと言っていることになります。だから、この問題を取り扱ったエルサレムの使徒たちは会議の中で「異邦人は救われるのか」と言う課題を中心に話し合ったのです。この会議の中でペトロは自ら経験したローマの百人隊長コルネリウスの回心の出来事に基づき、神は「彼ら(異邦人)の心を信仰によって清めてくださった」(9節)のだから異邦人の救いは確かに神のみ旨によるものだと断言しました。
 また「主の兄弟」と呼ばれたヤコブもこのペトロの発言を受けて「預言者たちの言ったことも、これと一致しています」(15節)と語り、異邦人の救いは神が旧約聖書の預言者たちを通して約束されたことであったと語ったのです。このようにしてエルサレム会議の結論はパウロとバルナバたちが教えた福音は他の使徒や教会のメンバーが信じる信仰と全く同じであると言うものとなったのです。

(2)教会会議を通して働かれる聖霊

 そこでエルサレムのこの会議に出席したメンバーは教会に起こった混乱を一刻も早く静めるためにこの会議の決定事項を手紙に書き記して各教会に送りました。そしてその手紙を携えて教会に赴き、その内容を説明することができる使者を選んだのです。それがバルサバと呼ばれるユダとシラスの二人の人物でした。「バルサバ」と呼ばれる人物は以前にもイスカリオテのユダの欠員を補うべく選ばれた二人の使徒の候補の一人「ユストとも言うヨセフ」も同じ呼び名で呼ばれていました。そこからこのバルサバと呼ばれるユダは、使徒候補になったヨセフの兄弟ではなかったかと推測されています。もう一人のシラスはこの後、パウロの伝道旅行の同伴者としてもう一度登場してくる人物です。
 この二人が携えて行って、口頭を持って補足説明をした手紙の最も大切な要点は次の箇所です。

「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」(28〜29節)。

 この手紙の内容はヤコブがエルサレム会議で発言した「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです」(19〜20節)と言う言葉に沿って書かれたものです。
 ここで興味深いのはこの手紙がエルサレム教会の会議について「聖霊とわたしたちは…決めました」と言っている点です。使徒たちは自分たちの会議を通して聖霊が働いてくださったと言う確信を持っていました。そしてその決定事項は聖霊が自分たちに命じられたものであると受け取ったのです。私たちは現代でも教会の長老たちが集まる教会会議を通して神の教会に対する御心が表されると信じています。ですから、教会会議の決議には神に基づく権威が与えられているのです。また、教会会議自身は神の御心に従うために厳格に運営されなければなりません。時流に流されたり、発言者の持っている力によって決まってしまうものではなく、あくまでも聖書の言葉に基づいて人間の誤りが正され、正しい決議がなされなければならないのです。

2.伝えられた内容

 ところでこのエルサレム会議の決議事項で最も大切でありながら、理解することが困難でもあるのはヤコブの発言に基づいてこの手紙に書き記されたいくつかの禁止事項の存在です。ペトロもヤコブもはっきりと「異邦人たちにユダヤ人たちも負いきれなかった軛を懸けて悩ませてはならない」(10、19節)と断言したはずです。私たちはイエス・キリストを信じるならば、そのイエス・キリストが成就して下さった完全なる救いのみ業によって救われるのであって、他に何かの条件がそこに加えられる必要はないのです。それなのになぜ、エルサレムの使徒たちは異邦人たちにこの会議の結論と一緒に彼らが「避けるべきこと」、「慎むべき」禁止条項を書き記し、異邦人たちに伝えたのでしょうか。
 これらの禁止条項は私たち異邦人が救われるために守らなければならない救いのための条件なのでしょうか。もしそうならエルサレムの会議はイエス・キリストを信じるだけで救われると伝えたパウロとバルナバの教えた福音の内容と違った教えを主張したと言うことになります。しかし、このいくつかの禁止事項は救いに必要な条件では決してないのです。エルサレム会議は別の目的でこの禁止事項を手紙に書き記したのです。
 この禁止事項を理解するために重要なのは前回学びましたように、ヤコブがこの禁止事項をあげることとなった理由を書き記した文章です。

「モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです」(21節)。

 パウロの伝道旅行でも登場しますが、ユダヤ人はいろいろな国々の町々に移り住み、その町で会堂を作り、ユダヤ人の信仰共同体を営んでいました。彼らは外国に暮らしていても安息日ごとにモーセの律法を読み、またその律法を毎日の生活の中で守ることを忘れなかったのです。つまり、この禁止事項は彼らユダヤ人を配慮するようにと言う目的から語られたものだったのです。
 そして「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避け」ると言うこれらの禁止事項はユダヤ人が厳格に守ってきた条項だったのです。ですから、もしユダヤ人たちがこれらの自分たちの忌み嫌う光景を目にするならすぐに心を閉ざし、外部との関係を遮断することになりかねない行為だったのです。それでは教会はユダヤ人たちに福音を語る機会を失ってしまいます。だからこそ、エルサレムの会議はこのユダヤ人たちを配慮してこれらの行いを避け、彼らとのトラブルが起こらないように気をつけないさいと助言したのです。

3.自由を愛のために用いる
(1)ユダヤ人を愛するために

 この禁止事項が救いに必要な条件ではないと言うことはパウロの書き記した手紙を読んでも分かります。もしエルサレム会議がこれらの条件を救いに必要な条件であると判断したなら、パウロはこの事柄に対して手紙の中でも何かを語っているはずです。しかし彼は何も語ってはいません。パウロはその手紙の中でこの禁止事項の存在自身にさえも一切触れてはいないのです。むしろ、パウロはキリストによって救われた信仰者はモーセの律法やその他、今まで人間を縛りつけてきたものから自由にされていると強調したのです。
 ただパウロも信仰者に与えられた自由を何のために使うかについて厳しく次のように教えています。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです」(ガラテヤ5章13〜14節)。

 パウロはここで私たちに与えられた自由を兄弟に対する愛を実現するために使いなさいと言っているのです。そしてヤコブはこのような意味でユダヤ人に対する愛を示すためにこれらの禁止事項が重要であると異邦人たちのために教えた考えることができるのです。

(2)配慮はそれぞれの人に対して異なっている

 パウロは私たちに与えられた自由について他にも次のように語っています。

「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない」(コリ一6章12節)。

 「すべてのことが益になるわけではない」とパウロはここで語ります。つまり、私たちに与えられた自由を私たちが自分の身を滅ぼすために使ったとしたら、神がキリストによって与えてくださった自由を悪用することになると言うのです。だからこそ、私たちはこの自由を細心な注意を持って行使する必要があるのです。
 そこでパウロはこの自由を自分はどのように使っているのかについて次のように語ります。
 「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」(コリ一9章19〜22節)。
 パウロはこの自由を自分に与えられている福音伝道のために有効に用いるのだとここで言っています。パウロはあるときにはユダヤ人に配慮して自分の行動を考え、また逆に律法もたない異邦人に対しては彼らのことを配慮して行動すると言っているのです。なぜなら、それによってすべての人をキリストに導き、キリストによって与えられた自由を彼らにも与えるためです。
 エルサレム会議の記した禁止事項はユダヤ人たちに対して有効です。しかし、異邦人たちに対してはこれらの禁止事項は逆の意味で誤解をもたらす可能性がありました。たとえば、もしキリストの福音をよく理解していない人が、信仰者がこの禁止事項を厳格に守っている姿を見たとしたら、「やはりキリストを信じるだけではだめで、モーセ律法も守らなければならないのだ」と勘違いされる可能性があったからです。だからキリスト教会がユダヤ人の信仰共同体の範囲を遙かに超えて世界に広まっていったとき、使徒たちがここで語った禁止事項は教会にとって特に重要なことがらでは無くなって行ったと考えることできるのです。世界に広がって行った教会はユダヤ人ではなく、ユダヤ人以外の人々を配慮する必要があったからです。

4.異教社会で愛を実現するために

 ですから日本のような異教社会でキリスト教を信じて生きると言う場合、私たちが配慮すべき事柄は初代教会の人々が遭遇した事情とはかなり違ってくるかもしれません。よく、私は牧師として「仏式の葬儀に出席した場合にキリスト者はどのような態度を取るべきか」と言う質問を受けることがあります。私はその質問に対して「このようにしなさい」と言う細かな指図を与えることはほとんどありません。なぜならそこで配慮されるべき内容はその相談者によって大きく違ってくると考えるからです。
 もちろん真の神のみを信じる私たちにとって仏や亡くなった死者を拝むと言う礼拝行為は全く意味がありません。つまり、焼香をしたからとか、焼香をしなかったからと言って私たちに何かの害が加わることはなにもないのです。だからと言って、私たちが仏式の葬儀に出席して、周りの人々を無視して自分勝手な行動を取ったらどうでしょうか。事情によっては悲しみを覚えながらその葬儀に出席している人たちの悲しみをさらに深くさせることになるかもしれません。それは全く愛に欠けた行為となりかねません。だから肉親を失って悲しみに暮れる遺族を慰め励ますために、葬儀において何をし、何をすべきではないか。言葉を換えれば私たちの愛を彼らにどのように表現すべきかと言うことは、それを行う自分で判断し、決めなければならないのです。
 しかし、たとえばそこに信仰を求めている求道者やまた信仰に入って間もない人がいたならどうなるでしょうか。いくら自分たちは死者を拝んでいるのではなく、遺族を配慮して、仏式の葬儀の通りに従っているのだとは考えていても、その信仰者の姿を見た彼らは、「キリストを信じていても、死んだ人を拝むのだ」と言う誤解を抱き、彼らを躓かせることもあり得るのです。
 このような意味ですべてのケースに通用するようなアドバイスはすることは私にはできません。しかし、私たちが忘れてはならないことは私たちは既にキリストの救いによってすでに自由にされているということです。だから、私たちをキリストの愛から引き離し、私たちを滅ぼすものはこの世には一切存在しないのです。だからこそ、私たちは大胆に失敗を恐れずに、人に対する愛を示すことができるのではないでしょうか。そしてその愛の最高の目標はその人をキリストの救いへと導くことであることを私たちは忘れてはならないのです。私たちはそのような意味でエルサレム教会の決定が異邦人とユダヤ人の信仰共同体との関係において大切であったことを知るのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちにキリストにあって真の自由を与えてくださったことを心から感謝いたします。私たちがこのキリストの血潮を持って勝ち取られた自由を、自分勝手な行いのために使うのではなく、兄弟への愛のために使うことができるようにしてください。私たちが与えられた場で、誰に対して何を配慮すべきかを理解することができるように聖霊を遣わして助けを与えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。