Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年10月28日   「再び旅立つパウロ」

聖書箇所:使徒言行録15章36〜16章5節(新P.244)
36 数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」
37 バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。
38 しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。
39 そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、
40 一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。
41 そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。

1 パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。
2 彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。
3 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
4 彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。
5 こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。

1.パウロとバルナバの決裂
(1)確かめられた重要教理

 今度の10月31日は宗教改革記念日です。マルチン・ルターによって始まった宗教改革運動は、長いキリスト教会の歴史の中で忘れ去られようとしていた「私たちは信仰によってのみ救われる」と言う重要教理をもう一度再確認することから始まりました。もちろん、この教理がマルチン・ルターの発明したものではなく、教会が本来持っていた救いの教理ついての正しい理解であったことは私たちが現在学んでいる使徒言行録の記事からも明らかです。
 「救われるためにはモーセの律法に従って割礼を受けなければならない」と主張する人々の登場によって初代教会で起こった教理論争はエルサレムの使徒たちの会議によって、キリストを信じる信仰以外に救いのために人に求められる条件はないと言う結論に至ったのです。そして、この教理もエルサレム会議が勝手に作ったものではなく、聖書が教える正しい教理であったことは確かです。教会は「信仰によってのみ救われる」と言う教理を確認することで福音伝道をさらに積極的に進めることができる条件が整いました。そこで、使徒言行録の記事はパウロによって始まる第二次伝道旅行の物語をここから書き記しています。

(2)マルコを巡る二人の対立

 ところが、パウロたちによる伝道旅行の再開はその第一歩から大きな問題を抱えてしまいます。それは新たな伝道旅行の方針を巡って今まで協力して伝道に励んでいたパウロとバルナバの間で激し対立が生まれてしまったからです。その対立の原因を生んだのは「マルコと呼ばれるヨハネ」と言う人物によるものでした。パウロとバルナバはこのマルコを新たに始まる伝道旅行に同行させるかどうかで激しく対立し合ったのです。
 このマルコは使徒言行録の記事によれば確かに第一次伝道旅行の際にもパウロとバルナバに同行してキプロス島に行っています。しかし、その後パウロたちがキプロス島を離れパンフィリア州のベルゲに向かったとき、その旅から一人で離脱しエルサレムに帰ってしまっていたのです(使徒13章13節)。

 パウロとバルナバはこのマルコをこれから始まる伝道旅行に同行させるべきかどうかで衝突します。使徒言行録の記者はここでのパウロの主張を紹介しています。「しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた」(38節)。つまり、パウロは伝道旅行の目的遂行のために、過去にその任務を途中で投げ出してエルサレムに帰ってしまったマルコはふさわしくない、それだけではなくむしろ足手まといになると考えたのです。パウロのこの心配は決して取り越し苦労ではありませんでした。なぜなら、今度の旅はまず「前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか」(36節)と言うパウロの提案から計画されたものでした。そしてパウロは第一次伝道旅行の際、ユダヤ人やキリスト教の福音に反対する人々の激しい弾圧を受け、命さえ奪われかけた経験を持っていたのです。その同じ場所に向かうのですから、旅にはそれなりの決心を持って臨まなければならないものだったからです。パウロはマルコがこの厳しい任務に耐えることができないと考えたのです。
 一方、バルナバはパウロと違いこのマルコを伝道旅行に同行させることを希望しました。それはマルコがバルナバのいとこである(コロサイ4章10節)と言う特別な関係があったと言うこともその理由の一つであったかもしれません。しかし、それ以上にこのバルナバの願いは彼がいつも持っていた関心に沿うものであったとも考えることができるかもしれません。なぜなら、バルナバはいつも人を育てることに特別の関心を持っていた人物だったからです。かつて、キリスト教の迫害者であったパウロが信仰を得てキリスト者になったとき、彼をエルサレム教会の仲間に加えるようにと賢明に働いたのはこのバルナバでした。また、そのあと何らかの理由で故郷に帰っていたパウロを捜し出し、彼をアンティオキア教会の活動に参加させたのもこのバルナバでした。ですから伝道者パウロはこのバルナバの助けがあったからこそ、ふさわしい働きにつくことができたと言っても過言ではありません。そんなバルナバでしたから、このときの関心もどうしたらマルコを伝道者として育てることができるかと言うものであったかもしれません。もしかしたら以前、失敗を犯して自信を失ってしまっていたマルコにもう一度チャンスを与えて、彼を励ましたいとバルナバは思ったのかもしれません。

(3)別々の行動

 結局、パウロとバルナバの二人の衝突は解決が付かず、二人はこの後、それぞれ別々の行動をとることになりました。そしてパウロの活動を中心に紹介して行く使徒言行録の記事では、バルナバの名前はこの後再び登場することはなくなります。ただこの問題の張本人であるマルコについてはパウロの記した手紙の中に何度か名前が登場しています(ピレモン23節、テモテ二4章11節、コロサイ4章10節)。これらの手紙に読むとマルコはパウロのよき協力者として紹介されています。たとえばパウロはこのマルコについて「マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです」(テモテ4章11節)と言っているほどです。つまり、パウロと激しい対立をしてまでマルコを思いやったバルナバの働きはこの後に実を結び、マルコは伝道者として立ち直り、やがてパウロを支える大切な協力者となったと考えることができるのです。
 このように二人の対立はそれぞれの持っている関心の違いに由来するものであったと考えることができます。そしてこの後のマルコとパウロの関係を考えると、パウロとバルナバの関心はそれぞれ教会にとって大切なものであったことが分かります。教会は信仰において一致することが大切ですが、その他の点で様々な意見の相違が生まれることがあります。その原因の背後にはそれぞれの持っている関心の違いや、賜物の違いと言うものがあるのからかもしれません。しかし、神はその違いを持っている私たちをそのままで教会のために用いることができる方であることを使徒言行録の記事は教えるのです。

2.新たな同伴者シラスとテモテ
(1)新たに加わった二人の協力者

 さてパウロはここからバルナバに変わってシラスと言う人物を伝道旅行の協力者として選び、共に旅に出発しています。このシラスはエルサレム教会が会議の決定事項を手紙に記して、その手紙をアンティオキア教会に持って来た二人の特使の一人でした。つまり、彼はエルサレム教会の有力なメンバーの一人であったと考えることができます。ですからシラスの存在はパウロの伝える福音がエルサレム教会の伝えている福音と全く同じものであることを証言できる大切なものだったのです。またこのシラスはユダヤ人でありながらパウロと同じようにローマの市民権を持っていたと言われています(使徒16章37節)。つまり、ローマ帝国の支配地域で自由に活動するためにはとても好都合な条件を持っていた人物なのです。
 そしてこのシラスと共にパウロはルステラと言う町でテモテと言う人物をもう一人の協力者として加えています。テモテはギリシャ人である父親とユダヤ人である母親の間に生まれた人物でした。パウロの記した手紙にはこのテモテの母と祖母が熱心な信仰の持ち主であったことが記されています(テモテ二1章5節)。このような立場からテモテはギリシャとユダヤの両方の伝統をよく理解していたと考えることができます。その上に彼の評判は教会でとてもよかったと紹介されています(2節)。パウロはこのテモテを「わが子」と手紙の中で呼ぶほどに愛したようです。

(2)どうして割礼を授けたのか

 使徒言行録の記事によればパウロはこのテモテに割礼を授けたと言われています(3節)。キリスト者には割礼など必要ないと主張し、割礼の必要性を説くユダヤ主義的キリスト者と激しく対立したパウロであったのに、ここではまるでその主張を覆すようにマルコに割礼を授けたと言うのです。しかし、使徒言行録はこの理由について次のように説明しています。「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた」(16章2節)。つまり、このテモテの割礼は救いのため、あるいは神との関係から必要であったと言うのではなく、ユダヤ人に対する対策として施されたと言っているのです。私たちは既にエルサレムの会議の結論に付加された禁止事項「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです」(15章29節)がユダヤ人を配慮するために付け加えられたものであると言うことを学びました。そしてパウロはこの場面でエルサレム会議の判断と同じようにユダヤ人を配慮するためにテモテに割礼を授けたと考えることができるのです。たとえば、パウロは伝道のためにユダヤ人の会堂で説教することが多くありました。このユダヤ人の会堂で説教することができるのはユダヤ人、つまり割礼を受けた者だけに与えられる特権でした。ですから、テモテはここでパウロから割礼を受けることで、パウロと同じようにユダヤの会堂に自由に出入りし、そこで説教する権利を得ることできたと言えるのです。福音伝道のためにユダヤ人にはユダヤ人のようになると語ったパウロ(コリント一9章20節)は、ここでも福音伝道の進展のためにテモテに割礼を授けたと考えることができるのです。

3.それでも神は働かれる

 さて、使徒言行録の著者はこれらの一連の出来事の最後を次のような言葉で結んでいます。

「こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった」(16章5節)。

 これはとても不思議な結びの言葉だなと私は思います。なぜなら、今日取り上げられた物語の出来事は、ある意味で教会に起こった出来事としてはふさわしくないような事柄が取り上げられているからです。
 どうして、ここまで一緒に伝道に励んだパウロとバルナバは決裂し、別々に行動することになったのでしょうか。信仰者ならもっと、心を開いて話し合い、忍耐して和解するまで話し合い、一致して行動すべきではないかと考えることができるではないでしょうか。そもそも信仰者の模範としてはそのような結論に至ることがもっとも好ましいと言えるはずです。ところが、二人はそうしていません。どちらも自分の説を曲げることなく、決裂して終わるのです。
 またある人は考えるかもしれません。たった一度のマルコの失敗を厳しく責めて、伝道旅行への同行を許さなかったパウロの態度はあまりにも厳しすぎるのではないかと…。信仰者であるならもっと寛容な態度を取り、むしろマルコが立ち直るために愛を持って迎え入れるべきではなかったかと…。
 しかも問題はパウロだけではありません。バルナバもまたマルコに対してあまりにも肩入れしすぎているのではなか、自分のいとこで身内だからどうしてもマルコを贔屓目に見てしまっているのではないかとも考えることもできます。しかし、贔屓目と考えるならパウロもマルコにはとても冷たい態度をこのときとっていますが、今日の箇所に初めて登場したテモテには自分の子供と同様に見なして、細やかな態度で接していることがパウロがテモテに記した手紙から伺いえます。それはテモテがパウロの指導によって信仰に入り、伝道者になったパウロにとって特別な存在であったからではないでしょうか。
 確かに信仰者であるならばだれも特別に扱ってはならない、教会の兄弟姉妹を同じように平等に愛すべきだと言うことができます。しかし、実際の私たちはそのように行動することはなかなか困難なのではないでしょうか。自分の身内に対しては特別な関心を払い、また同じ信仰の仲間であっても、それぞれに対する関心の距離は様々な事情によって異なるってくるのです。今日の物語を読むとき、ここには信仰者であるパウロとバルナバの人間的な面が見え隠れしているように思えます。その人間的な面が問題を生み、二人の決裂にまで至ったと考えることができるのです。
 しかし、その上で使徒言行録の著者は「こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった」と物語を結びます。すべてのことが話し合いで解決し、教会は伝道のために好条件を整えた、だから教会が成長することができと言っているのではないのです。不完全な人間がそれぞれの弱さを持って集り、ときには様々な対立が生まれることがありました。しかし、神はそのような人々を用いて教会を成長させてくださったと聖書は教えているのです。
 もちろん、私たちは教会の一致のために、またそれぞれの弱さを補い合って、愛し合って行く必要があります。しかし、その上でなお、私たちは解決のできない問題があり、そのために私たちが伝道のために好条件を満たすことができないときもあるのです。それでも神は私たちをそのままで用いて教会を成長させてくださることが出来る方なのです。人間の目から見ればそれがどのような悪条件であったしても、神はそれをも用いてご自身の教会を守り、導いてくださることを私たちは覚え、その神に信頼して行きたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちは教会の成長のために、いろいろな条件をそろえたいと考え、またそのために努力します。しかし、あなたは私たちの持っている条件がどのようなものであれ、それを十分に用いて教会を成長させ、導く力を持っています。私たちにそのあなたを信頼する信仰を与えてください。厳しい現実を嘆くのではなく、あなたに信頼して、私たちにできることを忠実に行うことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。