Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年11月4日   「わたしたちを助けてください」

聖書箇所:使徒言行録16章6〜15節(新P.245)
6 さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。
7 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。
8 それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。
9 その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
11 わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、
12 そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。
13 安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。
14 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
15 そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。

1.神の主権はどのように教会の上に実現したか

 すでにお話ししたことがあると思いますが、私たちが今、学んでいる使徒言行録は別名で「聖霊行伝」と呼ばれることがあります。使徒言行録はキリスト教会がペンテコステの出来事を通して、本格的な歩みを始め、パウロなどの伝道を通してローマ社会に広まっていった過程を記しています。そして使徒言行録の著者はこの教会の歩みを主イエス・キリストが教会に遣わされた聖霊の働きの結果であるとこの書物の読者たちに教えようとているのです。つまり、ここに書かれている出来事は使徒たち人間の働きのように見えますが、実はその使徒たちを用いた聖霊の御業の結果であることを明らかにするためにこの書物は書かれたと言えるのです。
 それではどのようにして聖霊は使徒たちを用いて、教会を成長させて行ったのでしょうか。聖霊が一つ一つ細かな指図を使徒たちに与えて、使徒たちはそれに従っただけであったのでしょうか。子供のころ私はテレビで鉄人28号と言うアニメーションを熱心に見た思い出があります。鉄人28号は正義の味方で悪者たちを倒す力を持っています。しかし、その鉄人28号が正義の味方なのは正太郎少年がリモートコントロールを操っているからです。悪くい言えば鉄人28号は正太郎少年の操り人形にすぎないのです。それでは聖霊と使徒たちの関係はどのようなものだったのでしょうか。使徒たちは聖霊の操り人形に過ぎなかったのでしょうか。そうではありません。この使徒言行録は教会の歩みが、使徒たちの決断にもとづいて進んで行ったことを教えています。この使徒たちは誤りを犯す可能性を十分に持っている人間でしかありません。使徒言行録の記事を読むと、彼らの出した決断が、予想もつかない大きな問題を生むきっかけになったりすることもあったことを記しています。
 たとえば次回私たちが学ぶ箇所ではパウロたちがフィリピの町の役人に捕えられて牢獄に入れられてしまう出来事が記されています。パウロたちがどうして牢獄に入れられたのか、その原因の一つにはパウロたちが下した決断とそれに基づいた行動があったと考えることができます。しかし、使徒言行録はそのような新たに起こった問題を通して、キリストの福音が当初は思いもつかなかった意外な人々に宣べ伝えられて行ったことを記しています。このような出来事を考えるときに私たちが分かるのは、聖霊は教会を誤りうる人間の決断と行動を通しても導かれていると言うことです。聖霊は私たちが教会のために熱心に考え、そして決断し、その上で行動することを望んでおられます。そして、その結果が私たちの思いもつかなかったような出来事であっても、聖霊はそのような私たちの歩みを通して導いてくださっているのです。

2.パウロの自由な行動の原理は何か
(1)計画変更

 さて、この聖霊と使徒との関係を理解する上で興味深いのは今日の聖書箇所に記された出来事です。ここではパウロたちの行動が「聖霊が禁じられる」(6節)とか「イエスの霊が許さなかった」(7節)と言う言葉を使って積極的に神の側からの介入があったことが分かります。そしてこの聖霊の介入の結果、パウロたちは当初の予定を変更せざるを得なくなっています。
 現在、私たちが学んでいる箇所はパウロによる第二次伝道旅行の行程が記されている箇所であると言えます。このパウロの旅は「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか」(15章36節)と言う彼の呼びかけによって始まったものでした。パウロはこの伝道旅行を成功させるために、意見の対立するバルナバと決裂した上で、エルサレム教会の有力メンバーでローマの市民権を持つシラスを新たな旅の同行者として選びました。その上で、パウロはリストラの町でギリシャ人とユダヤ人の両方の文化と習慣に精通し、人々の評判もよかったテモテをその旅の一向に加えています。つまり、パウロはここまで自分の計画を実現するために必要な条件を整えて旅に出発したのです。そのような意味でこの旅の目的を実現したいと言うパウロの思いは並々ならぬものであったはずです。そのパウロが自分の計画を大幅に変更しなければならなくなったと言うのですから、これは大変なことであったに違いありせん。
 リストラの町から第一次伝道旅行の行程は辿るならばピシディアのアンティオキアに向かい、そこから南に下って地中海に近いベルゲの町に行くのが正しいコースでした。その町々にはパウロがかつて伝道して、信仰を持った仲間たちが彼の到着とその指導を待っていたはずです。それなのにパウロは「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」と言うのです。その上で彼は「ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった」と言う出来事を体験します。この結果、パウロたちはベルゲに向かって南下するのではなく、むしろ北上を続けギリシャやマケドニアというヨーロッパ地方に渡ることのできる対岸の港町トロアスに向かうことになりました。
 この「聖霊が禁ずる」とか「イエスの霊が許さない」と言う言葉が具体的にどのようなことを指し示しているのかは実はよく分かりません。使徒言行録はそのことについて具体的な説明をしていないからです。確かにパウロとシラスは「預言の賜物」を持った人物でしたから、現在の私たちとは違って直接にこのことについての神の啓示を受けたとも考えることができます。しかし、ある人々はここではパウロたちに自分たちの努力では解決できないような困難な理由が生まれたから計画変更をしなければならなかったのではないかと説明しています。それはたとえばパウロの持っていた病気であると言う人もいます。聖書を読むとパウロと言う人物はどちらかと言うとエネルギッシュで活動的な印象を抱きがちです。ですからパウロは健康で屈強な肉体を持った人物のように勘違いしやすいのです。しかし実際のパウロは深刻な持病を持ち、直接彼に会った人に弱々しそうな印象を与えていたと言われています。いずれにしてもパウロはこのとき自分にはどうすることもできないような理由によって自分の計画を大幅に変更せざるを得なくなったのです。

(2)自分に与えられた使命を忘れない

 もし私たちが持っている計画が、自分たちの力ではどうにもならない問題のために実現が不可能となったとしたら、私たちはどうするでしょうか。パウロのようにすぐに計画を変更し、新たな行動に向かうことができるでしょうか。それともそのまま立ち止まってしまうでしょうか。パウロが計画を変更することができたのは、彼が自分に与えられている使命を忘れることがなかったからであると考えることができます。パウロは神によってキリストの福音を伝える使徒として選ばれました。しかも、彼は自分が異邦人に福音を伝えるための使徒として神に選ばれたと言う自覚を持っていました。パウロはここで目先の計画がどうにも実現できないことが分かったとき、この自分に与えられた使命にもとづいて新しい計画を立て直したのです。
 私たちが問題にぶつかって立ち止まってしまって、その先になかなか進めない原因の一つは、私たちが自分に与えられている使命を忘れてしまったときに起こると考えることができます。これは卑近な例かもしれませんが、私は人前に立つと上がってしまってうまくしゃべれないことがよくあります。上がってしまうと、それがお腹が痛くなったり、のどが息苦しくなったりと言う幾つかの身体症状に出て、さらに苦しむことになります。神学校を卒業してすぐに私はそれらの問題を解決するためにたくさんの本を読んでみましたが、いっこうに良い方法を見つけることができませんでした。努力しても何の効果も上がらず、むしろこの問題のために悩み続けることが多かったのです。そんなとき私は一つのことに気づきました。それは私に与えられている使命は何かと言うことです。私に与えられている使命は伝道者として福音を宣べ伝えることです。人前に立って上がらないことが私の使命ではないのです。だから、上がってしまって、身体的な様々な症状が出てしまうのは私にとって都合の悪いことではありますが、それで福音が語られなくなる訳ではないことが分かったのです。「そうだうまくしゃべれないなら、しゃべる内容をあらかじめ文章にして配ってしまえばどうだろうか」。そう考えたのが、私が説教原稿を印刷して皆さんに配ることになったきっかけです。おもしろいことにこの説教原稿を配ることで、この教会の礼拝では会うことができない人から「説教原稿読んでいますよ」と言う言葉を聞くようになりました。自分の計画は雄弁で堂々として、語り口さわやかな説教者になることでしたが、その計画は結局いまだに実現してはいません。しかし、それでも福音を伝えるという使命を少しでも果たすことができることは神の助けであると感謝しているのです。

3.人の働きと神の働きの関係
(1)幻によって得た確信

 さて、パウロはこのように自分ではどうにもならない理由の故に当初の計画を変更せざるを得ませんでした。しかし、パウロは今申しましたように自分に与えられた使命を忘れることなく、それを果たすために計画変更を行い、新たな町に旅立ちました。そこでパウロたちがたどり着いたのはトロアスと言う港町でした。このトロアスでパウロたちは自分たちの今後の行動を決める重要な体験をしています。

「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」(9〜10節)。

 パウロが幻を見たと言うのは、おそらく夢を見たと言うことだと考えることができます。クリスマス物語に登場するヨセフが夢の中で天使のメッセージを受けたように、古代の人々は夢を神の特別な啓示手段と考えていたからです。パウロは計画を変更して、このトロアスまでやって来たのは神のみ旨であると考えていました。そしてこの夢を通してその訳がマケドニア人への伝道のためであると言う確信を得たのです。パウロはそれ故にすぐに決断して海を渡り、対岸のフィリピの町に向かいました。
 このフィリピの町は当時、ローマの皇帝によって様々な優遇措置が執られていた特別な町で、特に引退したローマの軍人たちが多く住む町だったと言われています。つまりフィリピの町はマケドニアにありながらローマの町そのものであったと言えるのです。そしてマケドニア伝道こそが神のみ旨だと確信したパウロはすぐにこの町で福音伝道を開始しています。

(2)主が心を開かれる

 当時、ユダヤ人の成人男性が10人いればどこの町でもユダヤの会堂が建てられたと言われています。ところがこのフィリピにはユダヤ人の会堂がありませんでした。だからその代わりに川岸に祈りの場があって、そこに何人かの婦人たちが集まって集会を守っていたのです(18節)。パウロはこの祈りの場を捜し出して、そこに集まる人々に福音を語りました。福音を語る際にパウロはまず旧約聖書の知識がある人々をその対象に選びます。なぜならば、これらの人々は旧約聖書の預言にもとづいて救い主の到来を待ち望んでいたからです。そこでパウロは「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人」に出会っています。パウロはそこに集うすべての人々に福音を語ったのですが、このリディアだけはパウロの話を注意深く聞いていました。その理由を使徒言行録の記者は次のように記しています。

「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」(14節)。

 主が彼女の心を開かれたので彼女はパウロの話に熱心に耳を傾け、やがてその福音を受け入れて家族全員で洗礼を受けることになったのです(15節)。ここにはとても大切なことが記されています。それは人が福音に耳を傾け、その福音を受け入れるためには、まず主がその人の心を開いてくださらなければならないと言うことです。つまり、私たちの心は本来、福音に対して閉ざされていて、その福音に耳を傾けることも、信じることもできないものなのです。そして私たちが今、福音に耳を傾け、その福音を受け入れて信仰者として生きることができているのは、主が私たちの心を開いてくださった結果なのです。私たちはこの箇所から、私たちの心を開いてくださった主の御業を思い起こすことができます。

(3)福音を宣べ伝えることの大切さ

 同時に私たちがここで覚えたいのは、主が心を開いてくださるならばたとえその人がどのような人であっても福音を受け入れ、信仰を持つことができると言う真理です。しかし、福音を伝える私たちには、誰が、そしていつ、主に心を開かれるかれ信仰を得ることができるかは明らかにはされていないのです。だからパウロはこのときもそこに集うすべての人々に向かって福音を語りました。私たちも可能な限り、この福音を多くの人々に伝える必要があるのです。
 今はインターネットでの放送になりましたが、私が長い間、奉仕をしている「朝のことば」と言うキリスト教の放送番組は以前、早朝に放送されていました。経費や様々な事情で早朝の放送になったのです。だから「こんな早朝に誰が聞いているのだろうか」と思うような時間に放送されていたのです。あるとき、トラックの運転手がこの放送を聞いて教会に導かれたと言う話を私は耳にしました。仕事柄そんな時間だからこそラジオを聞いている人がいるのです。また、病気の人や問題を抱えていた人が夜も眠れずに迎えた明け方、ラジオから流れるこの放送を聞いて、信仰に導かれたという話も聞いたことがあります。神は私たちが思ってもいないときに、また思ってもいない人の心を開いて信仰を与えてくださるのです。そしてその神の御業が実現するためにはまず、先に福音を知らされた私たちがその福音を多くの人々に伝える必要があるのです。
 パウロの計画変更の背後にはどこにあっても、またいつであっても神が自分たちの働きを用いて、多くの人を信仰に導いてくださると言う確信があったと言うことを私たちは覚えたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちの人生においても、私たちには予想もつかぬ出来事によって自分たちの立てた計画が中断されたり、計画を変更しなければならないことが起こります。そんなとき、私たちがそこで立ち止まってしまうことがないようにさせてください。私たちがあなたから与えられた使命にもとづいて、新しい歩みを、確信を持って始めることができるようにしてください。私たちの誤りうる決断と行動を通しても、あなたはご自身の計画を地上に実現してくださることを信じます。私たちがあなたに信頼して、自分たちにできる働きをし続けることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。