1.占いの霊にとりつかれた女奴隷
(1)フィリピ教会の最初の信徒たち
思いがけない神の介入によって自分が立てた伝道旅行の計画を変更せざるを得なかったパウロたちは、ヨーロッパ大陸側に位置するフィリピの町に到着し、そこで伝道を開始しました。そして、このフィリピの町でパウロはリディアと言う女性と出会い、福音を伝えたところ、神が彼女の心を開かれて福音を信じる者とされたと言う出来事について前回学びました。パウロの記した書簡集の中には「フィリピの信徒への手紙」と言うこの町の信徒たちに送られた手紙が存在しています。この手紙を読むとこのフィリピの教会のメンバーは福音伝道に励むパウロのために機会あるごとに祈り、パウロを助け励ましていたことが分かります。使徒言行録の著者はこのようにパウロにとって関係深いフィリピの教会がどのように始まったかをここで記しているのです。
そこで今日の使徒言行録の箇所では占いを商売としていた女奴隷からパウロが悪霊を追い出すと言う出来事が紹介されています。その結果、彼女から悪霊が出て行ってしまったことで、それを望まなかった人々からパウロたちは反感を買い、捕えられ、フィリピの町の牢に入れられています。そしてこの牢で起こった不思議な出来事を通して、この牢で働く看守とその家族が信仰者となったことが記されているのです。つまりリディアや看守の家族から始まってフィリピの信徒の群れが形成されていったことがここには語られているのです。
(2)パウロたちに付きまとう女奴隷
リディアの入信を経ても相変わらずパウロたちはフィリピの町にあった祈りの場に向かっています(16節)。そこには神を信じる婦人たちが集まり集会を続けていたわけですから、パウロはなおもそこに集う婦人たちに働きかけて彼女たちをキリストに導こうとしていたのです。ところが彼らがその祈りの場に行く道の途中で、彼らに新たな事態が生まれ、物語はまたパウロたちの予想していなかった方向に進んでいきます。
「わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた」(16節)。
「占いの霊に取り付かれた女奴隷」と言う人物がここに登場しています。ここで彼女から利益を得ている「主人たち」と言う言葉が複数形で記されています。彼女の背後には彼女から出る利益を分配していた集団があったと言うことになります。つまり彼女は「霊に取り付かれて」いるだけではなく、彼女を手段に利益を得ようとする何人もの人々にも何重にも支配されていたと言うことが分かるのです。
その彼女がパウロたちに付きまとい、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」(17節)と叫んだと言うのです。そして、これが何日も続くのでパウロたちは「たまりかねて」しまったと言うのです(18節)。一見、この彼女の証言は事実に則した正しいことを言っていて、パウロたちに不利益をもたらす行為ではないようにも思えます。それではどうしてパウロは彼女のこの行為に「たまりかねた」と言うのでしょうか。
おそらくこの女奴隷はパウロたちの持っていた権威やその力を借りて、自分を宣伝しようとしたのではないかと思われます。「自分の持っている占いの力はあの人たちの本性をすぐに見分けることができるものである」と人々に自分を宣伝したかったのではないかと言うのです。だからパウロは彼女のそのような魂胆を見抜いて最初は彼女を無視していたのかもしれませんがやがて、それが幾日も続いて繰り返されたので「たまりかねる」ことになったのです。しかし、パウロはこの女奴隷を直接非難することはありませんでした。パウロは決してこの女奴隷自身に怒りを覚えたのではありません。むしろ彼はこの女奴隷を苦しめ、彼女の人生を支配してきた「霊」に対して憤りを感じ、次の様に命じたのです。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」と(18節)。
(3)占いの正体
「占い」は私たちの住む日本ではとても一般的なものです。テレビを見ても、雑誌を見ても様々なところで占いが登場し、持て囃されています。また、「占い師」と言われる人が様々な場面で活躍してもいるのです。ところがこの「占い」や「占い師」は聖書の世界では忌み嫌われるものであり、それに関わってはいけないものと命じられていました(レビ19:26,申18:9‐14,列下17:17)。聖書は「占い」を異教の習慣であり、真の信仰とは相容れないものだと教えているのです。今日、お話の女奴隷のところでも彼女が悪霊にとりつかれてそのような業をしていたことが記されています。「占い」と言ってもピンからキリまでありますが、実はその背後には神に敵対して、人間を支配しようとする「悪霊」が働きていると言えるのです。
だいぶ以前、私が青森で奉仕しているときに、一人の青年の深刻な悩みを聞いたことがあります。彼はあるとき一人の「霊媒師」とでも言うのでしょうか、不思議な力を使って様々なことを言い当てることのできる女性に出会いました。彼女はその青年が何も教えていないのに、その青年の周りの様々な事情を見事に言い当てると言うのです。その上で、その青年に「これからあなたの人生に良からぬ大変なことが起こる」と予言したのです。すっかり、その女性の力を信じ切ってしまっている青年は、彼女からそんな予言を聞いて不安になってしまってどうにもならないと言うのです。マインドコントロールというのはこのようなものなのでしょうか。その青年は怯えてしまって「その女性からはもう逃げることができない」と嘆いたのです。
こんなに深刻な悩みとは行かなくても、私たちの場合も、朝、テレビで「今日のあなたの運勢は最悪です」とか言われると、その日一日いい気持ちがしないのではないでしょうか。「占い」や「占い師」はこのように方法で私たちの心を支配する「悪魔」の力だと聖書は教えているのです。それではなぜ、私たちはこのような「占い」と言う方法を通して簡単に心を支配されてしまうのでしょうか。それは私たちの心の中に「不安」と言う得体のしれないものが存在しているからです。そして「占い」や「占い師」はその私たちの持っている「不安」につけ込んで私たちの心を支配しようとするのです。
しかし、聖書はこの「不安」の原因は私たち人間が神から離れて生きようとする限り、無くならないものだと教えます。そしてその不安から人が本当に解放されるためには「占い」ではなく、神を信じ、神と共に生きる必要があるのです。そして神が私たちの人生を支配してくださるのなら、明日何が起こるかを占い師に頼って知る必要はないとも言えるのです。
2.不当逮捕
さて、この女奴隷にとりついていた霊はパウロの命令によって、つまり、そこで働いてくださるイエス・キリストの霊の力によって、たちどころにこの女性から出て行ってしまいます。この後、この女性がどのようになったかを聖書記者は何も語っていません。なぜなら、この物語はパウロたちにこの後で起こる出来事を説明するためにここに紹介されていると考えることができるからです。
そして、この出来事の後に騒ぎ出したのは女奴隷を通して利益を得ていた「主人たち」です。彼らは「この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った」(18節)と言うのです。ここの箇所、言語では霊が出て行く」と言う言葉と「金もうけの望みが出て行ってしまった」と言う言葉が同じ「出て行く」と言う言葉で表されています。つまり女奴隷を支配しして、彼女に占いの力を与えていた悪霊に望みをおいていた彼らは、その悪霊から女奴隷を解放したパウロたちに腹を立て、捕えて、役人たちに引き渡すことになったのです。
もちろん、自分たちの利益の機会を奪ったと言うだけでパウロとシラスを罪に定めることはできません。ですから彼らはその理由となる罪状をここででっち上げているのです。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております」(20〜21節)と。
やがて、この騒ぎは町中に広がりその町の群衆も女奴隷の主人たちと一緒になって騒ぎ立てたので、高官たちはパウロとシラスをその場で鞭打ち、牢屋へと閉じ込めます。女奴隷を悪霊から解放し、自由にしたパウロとシラスがここでは返って自由を奪われ牢屋に閉じ込められると言うことが起こったのです。そして高官たちはパウロの悪霊を追い出すことができる力を警戒したのでしょうか。パウロたちをわざわざ一番奥の牢に閉じ込め、その足に足かせをかけるという厳重な処置をとって逃げ出さないようにしたのです。ここでパウロたちは絶体絶命のピンチに追い込まれたように見えますが、実はこれによって神の御業が実現するための舞台が整えられたとも言うことができます。
3.看守と家族の救い
(1)獄中で讃美し、祈るパウロ
「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈ってい(ます)」。二人は少し前にフィリピの高官たちの命令で群衆の前でむち打たれ、傷を負っていました。傷の痛みを感じながら決して環境がよいとは言えない牢獄の中で自由を奪われた状態にあったのです。しかし、そのような中でも彼らの心は神に向けられていました。パウロはテモテへの手紙二の中でこのように語っているところがあります。
「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(2:9)。
どのような状況にあっても神の言葉によって示される福音は私たちの心を自由にし、そして私たちの心を慰め励ます力があります。困難にぶつかると私たちは神を讃美することも、祈りを捧げることもできなくなることがあります。しかし、だからと言って私たちが神を讃美できるときは、祈りを捧げることができるときはいつやってくると言うのでしょうか。
旧約聖書には預言者エリシャが干ばつで苦しみ今にも饑えて死ぬしかないような状況に立たされていたやもめに会い、彼女に最後に残されたわずかな小麦粉と油でパンを作って自分に持ってくるようにと命じているところがあります(列王記上17章)。しかし、神はエリヤのためにこの最後の小麦粉と油を提供したやもめを守り、その壺の粉が尽きず、油もなくならないと言う奇跡を行ってくださったのです。私たちが今、自分に残されているわずかな力を使って神を讃美し、神に祈りを捧げるなら、神は私たちを必ず助けてくださるのです。
(2)イエスに自分の身を委ねて生きる
さて、このパウロたちの獄中での祈りに神が答えてくださったかのように、ここで不思議な出来事が起こります。
「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」(26節)と言うのです。
そしてこの出来事は特にその牢を守っていた看守に大きな影響を与えました。「目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした」(27節)のです。当時のローマの法律では囚人を逃してしまった役人は、その囚人に代わってその刑罰を受けなければならないと決まっていたようです。役人としての自分の立場に守られて深い眠りに入っていた看守はここで、地震によって目が覚めると、自分の立場が180度変ってしまったことに気づきます。今まで自分が牢に閉じ込めていた囚人たちと同じ立場に自分が立たされていることが分かったのです。それは彼にとって決して絶えられるものではありませんでした。だから彼はその場で自殺しようと考えたのです。
ところがその彼にパウロの声が届きます。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」(28節)。この声に促されて彼が牢の中を確かめて見ると囚人は誰も逃げ出していませんでした。彼の立場は守られた訳です。ところが、一度自分の立場の危うさを知った彼は、そのままでは平安を得ることができませんでした。だから彼はパウロたちにこのように質問したのです。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(30節)と。
パウロとシラスはこの看守の質問に即座にこのように答えています。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)。
ある説教者はこの「主イエスを」と言う言葉をギリシャ語本文から説明して、正確には「主イエスの上に」となると言っています。そして「信仰」とは私たちがこの主イエスの上に乗ってしまうこと、自分の身を丸ごとこの主イエスに委ねてしまうことだと解説しているのです。本来、人間と神との関係はこのようであったに違いありません。人は神にその人生を委ねることをとおして、神の祝福を受け、人間としてその人生を全うすることができたのです。しかし、神から離れてしまった人間はそれを自分の力で果たさなければならなくなりました。もちろん、私たちにはそれをする力はありませんから、私たちは何か他のものに頼らざるを得なくなったのです。しかし、神以外に私たちを担うことが出来る者はこの世には誰もいません。むしろ、女奴隷が悪魔や主人たちに支配され、その人生を利用されていたように、私たちも良からぬ力によって支配され、返って自由を失ってしますのです。そしていつも心には不安を抱えていきなければなりません。しかし、主イエスはそんな私たちを喜んで担ってくださり、私たちの人生を助けてくださる方なのです。
看守と家族はパウロからキリストの福音を聞きました。そしてその家族は神を信じる者とされたのです。
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