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2012年12月2日 「何か新しいことを聞かせてほしい」
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聖書箇所: 使徒言行録17章16〜21節(新P.248)
16 パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。
17 それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。
18 また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。
19 そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。
20 奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」
21 すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。
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1.十字架につけられたキリストの福音
(1)古都アテネ
使徒言行録から続けてパウロの第二次伝道旅行の行程を学びたいと思います。ベレアの町でのパウロたちの伝道はその町のユダヤ人たちに好意的に受け取られ、成功したかのように思われました。しかし、すぐにテサロニケからやってきたユダヤ人たちの企てによってパウロたちの活動が妨害されることとなり、パウロはすぐにこの町を去らなくてはならなくなります。そのさい、パウロに同行していたシラスとテモテは新たに生まれたベレアの信徒たちが集まる教会を指導するためにパウロと別行動を取ってその町に留まります。そこでパウロ一人が一足先にアテネの町に到着し、後から追いついてくるはずの二人を待つことになりました(17章14〜15節)。
今日のお話はアテネ町に滞在するパウロがシラスとテモテの到着を待っているときに起こったと聖書は記しています(16節)。アテネの町は皆さんもご存じのように現在もギリシャの首都として有名です。当時、このギリシャの中心地は既にこのアテネの町からコリントの町に移っていたようです。このアテネの町より政治・経済などの分野においてはコリントの町が優勢をきわめていたと言うのです。しかし、それでもアテネはソクラテスやプラトンと言う哲学者たちを生み出した町であり、観光地として有名なパルテノン神殿のような古代遺跡が多数存在する文化都市です。アテネはギリシャの「古都」として有名だったのです。日本で言えば京都の町のような存在であったと言えるのでしょうか。
(2)知識ではなく福音を語る意味
今日の箇所にも登場しますが、このアテネにはたくさんの哲学者たちが住んでおり、彼らは日々研鑽を積んでいたようです。彼らはその上で新しい知識を吸収するためにどん欲であったことが分かります。今日の箇所でパウロはこの当時の社会でもっとも優れた知識を持つと言われたアテネの人々に対して福音を宣べ伝えています。私たちが学んで来たようにパウロの伝道方法は通常は旧約聖書の知識に精通しているユダヤ人たちを対象としていました。そのため彼は新しい町に入るとまずユダヤ人の会堂や祈りの場を伝道の場所として選んだのです。パウロがユダヤ人以外の聖書の知識とは全く関係のない異邦人に直接説教したのはリストラの町がはじめてでした(14章8〜18節)。しかし、この場合の対象は知識人ではなく一般の人々であった点は今日のお話と違っています。
ところでパウロはこの知識に長けたギリシャ人について自らの記したコリントの信徒への手紙一で次のように語っているところがあります。
「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1章22〜24節)。
パウロは自分たちに与えられた使命は十字架につけられたキリストを宣べ伝えることだとここで明言しています。ユダヤ人にとってイエス・キリストは十字架にかけられながら、そこで何ら不思議な業を行うことなく死んでしまいました。これはキリストが不思議な業、つまり「しるし」を行われる方だと信じる彼らにとってつまずき以外の何者でありませんでした。また、今日の物語に登場するギリシャ人たちは知識を追い求めています。このギリシャ人の持つ知識は自分たちの経験に基づいて成り立つことのできる理性的な知識です。その彼らにとって十字架のキリスト、しかも彼の復活はこの理性的判断では理解することができない「愚か」な事柄でしかありません。しかし、どんなに驚くべきしるしも、また高度に組み立てられた学問的知識も人を救いに導くことはできません。人を罪と死の呪いから解放し、救いに導くことができるのは十字架につけられたキリストの福音だけなのです。そしてパウロはその福音だけをすべての人々に語るとここで言っているのです。
2.パウロの憤り
さて今日の箇所の物語は次のような言葉で始まっています。
「パウロは…この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した」(16節)。
先ほども触れましたように古都であるアテネの町には様々な神殿や神々の像が建ち並んでいました。ある人は当時のアテネの町を表して「この町にはそこに住む住民よりもたくさんの像が建ち並んでいる」と語ったそうです。現代の私たちも古代ギリシャの彫刻を博物館や写真などで見ることができますが、それは非常に優れた芸術作品と言えます。ところが、私たちが芸術作品と考え、楽しんで見るこれらの彫刻ももともとはギリシャの伝説の神々を模し、礼拝の対象にするために作られたものなのです。パウロはこの数々の偶像を見て「憤慨した」、つまり強い怒りの感情を抱いたと言うのです。それではどうしてパウロはこんな感情を抱いたのでしょうか。
なぜならば、偶像は真の神の福音を宣べ伝えるパウロたちにとって最も忌み嫌うべき対象であったからです。もちろん、偶像自体は人間が作り出したものでしかありませんから、それ自身には何の力もありません。だからこそ、偶像には私たち人間を救う力はなく、それに頼る人を罪と死の呪いの中にとどめさせ、滅びへと誘う助けとなるのです。
この部分の箇所を説教しているある人はこのパウロの憤りと関係しておもしろ話をしています。あるときに教会の仲間との話し合いの中で「教会の牧師は世間離れしている」と言う話題が出ました。そのとき一人の教会役員が「教会の牧師はむしろそうあってほしい」と強く力説されたと言うのです。教会の牧師が教会の講壇から一般の新聞に書いてあることと同じ見解を語り、世の常識だけを説いていたとしたら、人々はなぜ教会に集まる必要があるのでしょうか。人々がわざわざ教会にやってくるのは、ここでしか聞けない話、ここでしか巡り会うことのできない真理がそこにはあるからです。だから牧師だけではなく、教会は世間離れしていてよいし、むしろ世間と歩調を合わせてしまってはだめだと言うのです。
アテネの町に立ち並ぶ偶像の数々を見てアテネの市民たちは何の疑問も抱くことはありませんでした。それが一般の常識だったからです。しかし、パウロだけはその偶像を見て強い「憤り」を感じたのです。それはアテネの市民とは全く違った感覚を彼だけは持っていたからです。そして彼は人々を真の救いに導く力のある十字架のキリストの福音を大胆に語ろうとしたのです。
私たちが神から委ねられている使命はこの十字架のキリストの福音を人々に証しすることです。私たちの力や知識を示すことではありません。そしてこのキリストの福音は私たちを通してだけしか、この世の人々に伝えられることができないのです。この世にあって教会とそこに集まる私たちはこの特別な使命を担っていることをここで改めて自覚したいと思います。
3.信仰は論理ではない
(1)哲学の目指すもの
さてこのギリシャの町でも十字架につけられたキリストの福音を語ろうと決心するパウロは、シラスとテモテの到着を待たずしてここで伝道を始めます。彼はまずユダヤ人が集まる会堂で聖書の知識に精通する人々に福音を語りました。またその一方で広場に居合わせた人々に向けて福音を語ったと言うのです(17節)。広場にはエピクロス派やストア派の哲学者たちもいてパウロの語る言葉に耳を傾けました。
哲学史を学ぶとこのエピクロス派やストア派がどのような主張する集団であったかがよく分かるでしょう。しかし、ここで彼らの学説を解説するのは専門家ではない私には無理ですし、そんな時間もありません。ただ、いずれの学派もむしろアテネの町に立ち並んでいる偶像には否定的な見解を持っていて、それらの偶像を作って礼拝するのは迷信であり、人の正しい判断を誤らせるものだと彼らは批判していたようです。
私たちは「哲学」と言うと大学の一般課程で学ぶような普通の人間には縁遠い学問の一つであると考えてしまうものです。「哲学」なんて青白い顔をしたインテリだけが考えることだと思っているかもしれません。しかし、もともと哲学は人がよりよく生きるためにはどうしたらよいのかと言うことを考えるために生まれた学問です。そのためにはまず人間は物事を正しく理解する方法を身につけ、真理が何であるかを見極める必要があります。つまり、哲学は人が幸せになるための方法を探る学問なのです。そのような意味で哲学と宗教は目的において共通いているところがあると言えるのです。
ただ哲学と宗教の大きな違いは哲学において大切なのは合理性、つまり理性を使って真理を究めようとすることであり、それに反して宗教は理性を超えた信仰を持って真理を受け入れることだと言えるのです
(2)聖書の合理的な解釈を求める人々
パウロの話を聞いた彼らの反応が使徒言行録に次にように記されています。
「「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである」(18節)。
彼らはパウロの語る話の内容をほとんど理解することができませんでした。特にパウロが語っていたのは「イエスと復活」についてであったと記されています。「復活」はギリシャ語では「アナスタシス」と言う言葉で表現されます。そこで彼らはパウロがイエスと言う男性の神とアナスタシアと言う女性の神について語っていると言うような頓珍漢な誤解をしたようです。ただ彼らは使徒言行録がわざわざ記すように「すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである」(21節)と言われるようにパウロの語る新しい知識に熱心に耳を傾けようとしています。
そこで彼らはパウロをアレオパゴスにつれて行きます。アレオパゴスはアテネの町の評議所がおかれていた場所で、そこでは通常は裁判などが行われていました。しかし、この記事からは彼らがパウロを裁判にかけるためにアレオパゴスに連れていったとは想像することができません。おそろく、そこでならば広場と違ってじっくり討論ができると彼らは考え、パウロを連れて行ったのだと思います。
ここでの彼らの発言の内容に、彼らの求める知識がどのようなものであったかが分かるところがあります。
「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19〜20節)。
つまり、彼らはパウロが語る福音の内容がキリストの十字架の死やその復活と言ったような「奇妙なこと」であると思っています。そこでその奇妙な出来事に「どんな意味なのか」を知りたいと彼らは願ったのです。言葉を換えて言えば、ギリシャ人はパウロの語る福音を合理的に説明してほしいと願っているのです。これはある意味で、聖書を興味本位に読もうとする現代人の傾向と似ているところがあります。
聖書には確かに私たちの理性では割り切れない不思議な出来事がたくさん記されています。そのままでは現代人はそこに記されている事柄を受け入れることができないのです。そこで行われるのは聖書の合理的な解釈です。イエスの行われた奇跡は実際に起こったことでなく、その表現を通して私たちに大切な意味を教えていると考えるのです。キリストの復活も事実ではないが、その表現を通して私たち人間に何らかの真理を伝えようとしていると解釈するのです。このように合理的解釈とは聖書の真理を人間の理性に合うよう解釈すると言う行為です。パウロの話を聞いたギリシャ人もまた現代人の多くと同じように聖書を理解しよとして、このような操作を行ったのです。
(3)教会が証しする真理とは
しかし、それによって理解され受け入れなれる真理は結局は人間の知識が作り出した偶像でしかありません。つまりその知識には私たちを救う力は全くないのです。パウロがギリシャの学者たちと最も違っている点は彼が自ら語っている福音の中心となる十字架につけられたキリスト、復活されたキリストは彼の考え出した学説ではなかったと言うことです。彼はむしろ復活されたキリストご自身に出会って、変えられた者なのです。パウロは哲学者たちのように真理を究めたのではありません。彼はイエス・キリストと言う真理に出会った人物なのです。生ける真理であるキリストが自らパウロにご自身を示してくださったからこそ、パウロはこのキリストによって人生を180度変えられたのです。
教会が伝えるものは哲学者たちが考えた思想とは違い、実際にキリストの生涯を通して神を知り、復活されたキリストに出会った人々の証言を伝えるのです。確かに、それはユダヤ人にはつまずきを与え、ギリシャ人には愚かなもののように見えますが、私たちを救うことのできる神の言葉だと言えるのです。世間はこの言葉を語ることはできません。むしろこの言葉を語ることができるのは「世間とは全く違った場所である」私たちの教会だけであることを今日も覚えたいと思います。
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【祈祷】
天の父なる神様
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」という確信を持って福音を語ったパウロの姿を学ぶことができました。世の様々な出来事や価値観に振り回されてしまう私たちは、教会に託されたこの福音の真理の大切さを忘れてしまうことがあります。どうか私たちにこの福音のすばらしさをもう一度自覚させてくださり、私たちに託されている福音伝道の使命の大切さを悟ることができるようにしてください。そして人を罪と死ののろいから解放することのできる福音を私たちが大胆に証しすることができるようにしてください。私たちのために十字架にかかり復活された主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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