Message 2012
礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年12月9日  「アレオパゴスでのパウロの説教」

聖書箇所:使徒言行録17章22〜34節(新P.248)
22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。
23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
24 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。
26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
28 皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。
29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
30 さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。
31 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
33 それで、パウロはその場を立ち去った。
34 しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

1.パウロの伝道説教
(1)アレオパゴスの真ん中に立つパウロ

 アテネの町でたくさんの偶像やその偶像がまつる神殿を目撃したパウロは憤慨し、そのアテネの町の人々に真の神を知らせるべく福音伝道の業を開始したと言うところを前回学びました。パウロはアテネの町の広場でそこを通りかかった人々を捕まえては真の神について語り合いました。そこに集まったのは一般市民だけではなくエピクロス派やストア派と言う学派に属する哲学者たち、つまり当時のアテネの町では最高の知識を持った人々も含まれていました。彼らはパウロの語る話を聞いて興味を覚え、「もっと話の内容を詳しく聞きたい」と彼をアレオパゴスの評議所に連れて行きました(19節)。
 アレオパゴスの評議所では通常、人々が持ち込む訴訟の裁きを行う裁判が行われていたのですが、パウロはこの場所で真の神についての福音を語り、人々はパウロの語る話にに耳を傾けました。「新しいことを」聞くことを好んだアテネの町の人々は自分たちを満足させるような知識がパウロから語られることを待ったのです。そこでパウロは彼らの真ん中に立って語ることになりました。

 「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った」(22節前半)。

(2)アテネの人々の信仰心の正体

 私たち牧師は通常、教会の礼拝やそのほかの集会で聖書のお話をしています。しかし、時々は教会以外の場所も聖書のお話することがあります。教会に集まって来られる方々は最初から「聖書の話を聞きたい。神様のことについて学びたい」という願いを持っていますから、その方々に聖書の話をするのはある意味で簡単です。しかし、そうではなく聖書や信仰の事柄について全く興味がないと考えている人の前で聖書の話を語るのはとても難しところがあります。私たちは最初にこれから話すことがその話をい聞いている人々の人生にとって大切なことであることを十分に示す必要があります。それができなければ、その聴衆は真剣になってこれから語られる聖書の話に耳を傾けてくれることはないのです。パウロはここで聖書や聖書の教える真の神に関心を持っていない人に、聖書の語る真理を示すために苦労しています。パウロはこう語り出しています。

 「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(22節後半〜23節)。

 すでにパウロがアテネの町を見学し、たくさんの偶像が建ち並ぶ風景を目撃していたことを学びました。彼はこの風景を見て怒りを感じたのですが、ここではその感情を人々にあらわにすることはありません。むしろ、その風景はアンネの人々の信仰心があついことを示していると彼は評価したのです。もちろん、パウロはそのアテネの町の人々が持っている信仰心が正しい信仰心ではないことを知っていました。しかし、ここでパウロは最初にアテネの町の人々の心を開くためにこのような表現をもちいたのです。最初から非難や怒りの言葉を並べても、それによって相手は心をしっかりと閉ざすだけです。それではパウロの語る話に耳を傾けることができなくなってしまいます。ですからパウロはあえてここでアテネの人々の心を開くために、彼らの信仰心の厚さを評価したのです。
 その上で、パウロはアテネの町で不思議な祭壇を発見したと語ります。それは「知られざる神に」と刻まれた祭壇です。おそらくアテネの町に立ち並ぶ偶像たちには一つ一つ固有の名前がつけられていたはずです。ところがそんな偶像の中でパウロは「知られざる神に」と言う名前がつけられた祭壇を見つけたと言うのです。そしてパウロはこの祭壇の名前をきっかけに「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」と聖書の教える神を語り始めるのです。
 もちろん、アテネの人々は「知られざる神に」と言う祭壇を通して、聖書の教える真の神を拝んでいたわけではありません。しかし、パウロはこのような祭壇を作らなければならなかったアテネの人々の信仰の問題点をよく理解していました。そこに住む住民の数よりもたくさんの神々の像を作って拝もうとしたアテネの人々の心、それでも満足できずに最後には「知られざる神へ」と言う名前のつけられた祭壇まで作らざるを得なかった彼らの信仰はどのようなものだったのでしょうか。おそらく決して自分たちの信仰に満足していたわけではないと考えることができます。いくら作っても、不安な心が残る、だからさらに新しい神々の像を彼らは作らなければならなかったのです。それはまるでアルコール中毒の患者がアルコールを飲まないと不安でならないと言うのと同じです。彼らは新しい神々を作らなければ不安でならなかったのです。そしてパウロはそのような不安を抱えて生きる人々に真の神を信じることが大切であることを教えようとしたのです。

2.被造物を創造され、保ち続ける神
(1)世界を作られた神

 パウロはアテネの人々に真の神について語ります。

 「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」(24節)。

 真の神は「世界とその中の万物を作られた」方である、神は創造者であり、私たちはその神の造られた被造物に過ぎないのです。だから真の神は人間の作った神殿に住むことはありません。昔、旧約聖書に登場する王ソロモンはエルサレムに広大な神殿を建設し、その神殿の落成式を行ったとき同じような言葉をその祈りの中で語りました。エルサレムの神殿は神を礼拝する場所であっても、神がそこに閉じ込められているところではありません。それは私たちが今、集まっている教会でも同じです。教会は神に私たちが礼拝を献げるために作られた場所です。ですからそれは神のためと言うよりそこに集う信仰者のために作られたものだと言えるのです。教会は神が私たち人間を助けるために与えてくださった場所なのです。

(2)造られたものを保ち続ける神

 神殿は人を神に導き、その信仰を助ける場所であって、神を助ける場所ではありません。そのことは次のパウロの言葉から明白です。

 「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」(25〜26節)。

 パウロはこの説教の中で何カ所かギリシャ人のよく知っている言葉を引用しています。この25節の前半に登場する「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません」もその一つです。これはこのときパウロの話に耳を傾けていたエピクロス派の主張であったと考えられています。エピクロス派は神は完全なのだから、人間のようなほかの存在から何も助けを必要とはしていないと教えていました。その上で彼らは自分の内でいつも完全に満ち足りている神は人間に対して何の関心も持っておられないと彼らは教えたと言うのです。神には人間の存在が必要ないからです。しかし、パウロはこの同じ言葉を使って真の神がむしろ人間をはじめとするご自分が造られたすべてのものに関心を持ち、その存在に深く関わってくださっていることを教えています。むしろ、神がそのすべてのものに関心を持ち、深く関わってくださらなかったならば、それらのものは一瞬たりとも存在し続けることできないとパウロは教えたのです。

3.神は近い
(1)人生の目的は神に出会うこと

 パウロはこのように真の神である創造主とその被造物との深い関係を語ると共に、特に私たち人間と神との関係を強調して次のように語っています。

 「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」(27節)。

 パウロはここで真の神の創造とそれに続くすべてのみ業の目的を「人に神を求めさせるためである」と語っています。つまり、神が私たち人間を創造してくださったのは、私たち人間が真の神を探し求め、その方に出会うためであったと言うのです。だから私たち人間の人生はこの神を探し求め、出会うことによって完成するとことができると言うのです。私たちの教会の信仰を紹介するウエストミンスター小教理問答書の第一問は「人のおもな目的は、何ですか」言う問いに。「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と答えています。私たち人間は神と出会い、神と共に生きることによって初めて本来の人生の目的を回復することができると言うことがこの信仰問答の文章でも語られているのです。

(2)私たちは神の内に生きている

 パウロはここで私たちに人間と神との近さをさらに次のように語ります。

「皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです」(28節)。

 パウロはここではストア派の詩人の言葉を引用していると考えられています。『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』とストア派の詩人は詠んだと言うのです。ただストア派はこのように神について語りながらも、神が人格を持って、私たち人間の応答を待っていてくださるとは教えていません。ストア派の神は無人格であり、人間に近くはあっても、何も人間に働きかけることはありません。しかし、パウロの教えようとする真の神は違ういます。人間が金や銀、石で作った像のように自らは何もできない者ではなく、むしろ私たち人間からの応答を求められるのです。ここでパウロはその人間の側の応答を「悔い改め」と言う言葉で表現しています。その人間の側の悔い改めを神は望んでおられると言うのです。
 「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」(30節)と…。

4.イエスが地上にやってきた訳

 ところで真の神がこんなにも私たち人間に深い関心を持ち、私たちの正しい応答、つまり「悔い改め」を望んでおられることを私たちはどこで知ることができるのでしょうか。パウロはそのことについて次のように語ります。

 「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」(31節)。

 ここでパウロが語る「先にお選びになった一人の方」とは救い主イエス・キリストのことです。神はその方を私たちに遣わすことで私たちの正しい応答を求めておられると言うのです。そして、この方が神から遣わされた方であることが「この方を死者の中から復活」させた神のみ業を通して分かると言うのです。
 私たちは今ちょうど、待降節、アドベントの期間の礼拝を守っています。救い主イエス・キリストの誕生は、神がこの方を私たちのためにこの地上に遣わしてくださったことを表しています。真の神は私たちに深い関心を持ち、その関係を保とうとされています。神はこのご自身の抱く私たちに人間に対する愛を私たちに改めて知らせるために御子イエス・キリストをこの地上に遣わしてくださったのです。ですから御子イエス・キリストは神が私たちにために与えてくださった最高の贈り物なのです。
 クリスマスに私たちも仲間たちとプレゼントを交換することがあります。心を込めて準備したプレゼントを渡すとき、私たちはどのような思いを抱くでしょうか。これを受け取った相手は、この贈り物を喜んでくれるだろうか、笑顔で受け取ってくれるだろうか…そんな思いを抱きながら私たちは贈り物を贈るのではないでしょうか。これと同じようにクリスマスの日に私たちにのために御子イエス・キリストを送ってくださった神は、私たちの応答を求めておられるのです。それがパウロの言う「悔い改め」です。そして私たちが悔い改めて、真の神に私たちの心を向け、この方と共に生きることを決断するとき。神の創造のみ業の目的が私たちの人生の上に実現するのです。目的のない人生は空しいものです。しかし、誤った目的を持って生きる人生は悲惨以外の何者でもありません。神は私たちが空しい人生、悲惨な人生を送ることを望んではおられないのです。神と共に喜びを分かち合い、神と共に歩む人生を送るために、神は私たちに救い主イエス・キリストを送れたことを私たちはこのアドベントの礼拝でもう一度心にとめたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様
天地万物を創造されたあなたなは、私たち一人一人がその人生であなたを探し求め、あなたに出会うことを望んでくださいました。そして私たちがあなたを見出すことができるようにと、御子イエス・キリストをこの地上に遣わしてくださいました。御子イエス・キリストによって示されたあなたの私たちに対する愛に、私たちが答えて生きることができるようにしてください。そのためにこのアドベントの期間を用い、私たちがあなたの愛を知り、喜びをもってあなたをみ業を褒め称えることができるようにしていください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。