礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年10月6日  「果たすべき責任」

聖書箇所:ローマの信徒への手紙1章13〜15節
13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。
14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。
15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

1.ぜひ知ってほしいこと
(1)ローマ伝道へのパウロの思い

 今日も使徒パウロの記したローマの信徒への手紙から学びたいと思います。前回も学びましたように、この手紙を記したパウロと、この手紙の受け取り人であるローマの教会の人たちの間にはまだ何の面識がありませんでした。ですからパウロは、そのような人たちに自分のことを受け容れてもらい、さらには自分の語る福音のメッセージに耳を傾けてもらうために苦労しながら、この手紙を書き始めています。
 そもそもパウロがそのような苦労をしながらもローマの人々にこの手紙を書き送ったのはパウロ自らがローマに行く計画を持っていたからであり、その計画に備えるためにこの手紙を書いたことも学びました。ですからパウロはこの手紙の中で自分がローマに行くことによって自分に与えられている「霊の賜物」を使いローマの教会に仕え、自分もローマの人々から励ましを受けたいと言う希望を持っていることを語ります。しかし、パウロにとってローマに行こうとする計画の最も大切な動機はやはり、ローマに行って、福音伝道を行い、キリストを信じる人々を新たに増やしたいためだと言うことを今日の箇所で彼は改めて強調して語っています。

「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」(13節)。

 パウロはここで「ぜひ知ってほしい」と言う言葉を使って自分がローマに行いたいと考える最も大切な理由を明らかにしています。それは「ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで」からだと言うのです。つまりパウロがいままで各地を巡り歩いて伝道旅行をして、多くの信仰者が得て、新たに教会が作られたように、ローマの都でも同じような実りを得たいと思っていると言うのです。

(2)パウロの伝道者としての熱意

 パウロはローマ行きの願いが実現されるために「何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」と述べています。この手紙を書いた当時、パウロは様々な教会から献金を預かり、エルサレム教会に届けるという計画を持っていました。ご存知のように、パウロはこの計画によって、彼はエルサレムに赴き、そこで逮捕され、囚人として取り扱われながら最後にはローマの都にやって来ます。当時のパウロには貧しいエルサレム教会を助けるという使命と同時に、今まで自分が伝道してきた教会に起こる様々な問題に対処し、指導する責任がありました。そのような多忙な職務の結果、パウロは今までローマ行きを何度も計画しながらも、それが実現しないままに時が過ぎていったのだと言っているのです。
 ですからパウロは自分が今までローマに訪問できなかったのは、ローマの人々を無視しているのでも、彼らについて無関心であったのではないことを知ってほしいとここで言っているのです。むしろ今でも、あなたたちに対する関心は変わらないし、その思いは強まっているとパウロはここで言うのです。
 使徒言行録を読んできて分かるようにパウロは伝道者としてたいへんに多忙な生活を送っていました。その上でパウロはさらにローマにも行って見たい、さらにはイスパニアにまで行く必要がると考えていたのです。私たちは今日のこの短い箇所からパウロの伝道者としての思い、つまり福音をすべての人に伝えたいと言う彼の思いがどこから生まれてきているのかを考えてみたいと思います。

2.すべての人に対して果たすべき責任がある
(1)すべての人に福音を伝える

「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」(14〜15節)。

 私は「果たすべき責任がある」とパウロはここで語ります。この「責任」と言う言葉を他の聖書は「負債」、つまり「借り」と訳しています。こちらの方が原文の意味を直接表す言葉だと言えます。無責任な人ならともかく、まじめな人なら人から借金をしていれば、それを返さなければ落ち着かないはずです。パウロも自分の責任を果たさない限りは、まるで借金を返していない人のように落ち着けないような心境であったと言えます。そしてパウロがここで自分に与えられた責任と「福音を告げ知らせる」ことだと言うのです。
 その上でパウロはこの福音を告げ知らせる対象について「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも」福音を伝える責任を持っていると語っています。簡単に言えばパウロはすべての人に対して福音を伝える必要があると言っているのです。
 まず「ギリシア人にも未開の人にも」と言う言葉ですが、ここでの「未開人」と言うのは文明が発達していない未開の地域に住む人と言うよりは、原語ではむしろギリシャ語を分からない人々と言う意味を持った言葉になっています。つまり、ギリシャ語を話せなくても文化が発展している地域はありますい、そうでない未開の地域もあるわけです。それではパウロはどうしてこのような言葉を使って人々を区別しているのでしょうか。なぜならば、伝道においてギリシャ語を話せる人々というのはパウロにとって特別な相手となるからです。パウロの時代のギリシャ語は現代で言えば英語に相当するような様々な国で用いることができる国際語でした。パウロはこのギリシャ語に堪能であり、自由にギリシャ語で自分の思いを表現することができました。ですから、相手がもしこのギリシャ語が分からない人たちであるならパウロが福音を伝えるのはたいへんに困難になってきます。
 また「知恵のある人もない人にも」と言う言葉も同様の意味を持ちます。パウロが語る聖書の言葉、また福音のメッセージを容易に理解することのできる知恵を持っている人と、それを聞く理解力を持っていない人の間では、伝道するための努力は大変に異なってきます。当然人間であるならば簡単にできる方を選ぶことになります。しかし、パウロここでは福音を伝える対象を自分の都合で選り好みすることはできないのだと言うことを言っているのです。それはどうしてでしょうか。神がすべての人に福音を伝えたいと願っておられるからです。それではどうしてすべての人に福音を伝えることを神が望んでおられるのでしょうか。それは福音を知らされなければ誰も救いを受けることができないからです。

(2)福音を聞く以外に救われる道はない

 以前にも皆さんにお話したと思います。あるとき私は教会ではないところで奉仕をする機会がありました。その場所で働いている一人の信仰者が、自分と同じ職場で働いている仲間を私に紹介するときに「この人はクリスチャンではないのですが。私よりもクリスチャンらしい方なのですよ」と言われたのです。私はこの言葉を聞いてすぐに疑問を感じました。クリスチャン、つまりキリスト者とはイエスを救い主と信じている人のことを言うのです。ですからどんなにその人がまじめで、人々から評判が良くてもイエスを信じていない以上は「クリスチャン」とは呼べないはずなのです。その人のことを私に紹介した人はどうやら「クリスチャン」とは品行方正な生活態度とか、それについての人々の評判を表していると勘違いしているようです。
 キリスト教信仰についてのこれは人々が抱くよくある誤解の一つです。さらに言ってしまえば、キリストの教信仰を主観的な心の状態のように誤解する人もたくさんいます。キリスト教信仰は他の宗教で言う「悟り」と言うような心の状況を表すものではありません。ですから、たとえ山に登って一人で修行を積んでも、それだけでは救いを得ることはできません。逆に言えばその人が悟りなどとはほど遠いような悩みを抱える生涯を送っていたとしても、また失敗だらけの生活を送っていたとしても、その人が福音を受け容れ、キリストを信じているならば間違いなく「クリスチャン」であると言えるのです。
 つまり、人はどんなに清廉潔白な生涯を貫き、また、心を磨くための厳しい修行をしても、それだけではキリスト者にはなれないのです。私たちがキリスト者になるには、まず伝えられたキリストの福音に耳を傾け、それを受け容れてキリストを救い主として信じなければなりません。そのような意味で、まず誰かが福音を知らない人にその福音を伝えなければ、誰もキリストを信じることはできないのです。福音が伝えなれなければ、誰も救われることはできません。パウロがここで強調しているのはその事です。ですからすべての人に福音を伝えなければなりません。その責任を私たちは神様から与えられているとパウロは語るのです。

3.支払い済みの負債と自分の使命
(1)パウロの熱意はどこからやって来るのか

 パウロはこのような意味ですべての人に対して福音を伝えると言う責任が自分に与えられていうことを深く感じていました。そしてそれはまるで自分に課せられた負債のようなものだとまで言うのです。しかし、もしその負債が自分の能力を遙かに超えるものであるならどうでしょうか。その負債を残して、どこかに逃げてしまうと言うことも起こるはずです。ところがパウロは伝道者として極めて多忙であり、しかも様々困難にも出会っていたにもかかわらず、その責任を果たすためにさらにローマに行きたいと考え、その後にはイスパニアまで足を伸ばしたいと考えているのです。パウロは特に責任感の強い人だからそのように考え、行動することが出来たのでしょうか。実はそうではなく、このパウロの伝道対する熱意は彼が伝える福音の内容に深く関わっていると考えてよいのです。
 パウロが伝える福音、それはこのローマの信徒への手紙を読む中で明らかになってきますが、簡単に言えばキリストを信じれば、私たちは罪赦され、神様の御前で罪のない義人として認められると言うこと言います。そしてパウロの伝道に対する熱意はこの救いの出来事から生まれるものと考えていいのです。

(2)私たちのために支払われた代価

 私が昔、神戸の改革派神学校で学んでいたときのことです。あるとき茨城から私の古い友人が私を訪ねて来てくれたことがありました。そのとき友人は「せっかく神戸まできたのだから、雑誌に紹介されている神戸牛ステーキを食べさせるお店に行きたい。おごってあげるから一緒に行こう」と私を誘いました。そこで私たちは一緒にその店に行ったのです。そこは今までには一度も足を運んだことが無いような高級なお店でした。出されたステーキもあまり喉に通らなかったせいもありますが、そこで注文したのは一品ぐらいのものでした。ところが友人は最後にお店から渡された請求書を見て、私にこう耳打ちしたのです。「神戸牛のステーキがこんなに高いものだとは思っていなかった。自分の財布のお金では足りない」。幸いそのとき、私もそのときお金を少しだけ持っていましたので、それを足して何とか支払いを終えることができました。もしあのとき、私に持ち合わせがなかったら私たちはその店を出ることができなくなっていたはずです。
 聖書によれば、私たち人間にはその生涯の最後に神から請求書が回ってくると言われています。そこには神の律法に従って、私たちがこの地上の生活でどれだけ神に反した生き方をし、罪を犯してきたかと言うことを計算し、それに見あう代価が計上されています。ところが私たちにはそれを支払うべき力を持っていません。そのままではまるでお金がなくて店の外に出られない人のように「どうしよう、どうしよう」と心配するしかありません。ところがそんな私たちに「大丈夫ですよ。その請求書に書かれた金額はすべて支払われています」と言う言葉が伝えられます。その上で「あなたの請求書はすべてあの方が支払ってくださいました」と言って私たちに十字架のイエスの姿が示す、これが私たちに聖書が伝えている福音の正体なのです。ですから私たちがたとえ今どんな生涯を送っていても、また今までどんな人生を送っていても、最後の支払いは済んでいると言うことを伝えるのがキリストの福音なのです。
 私たちの毎日の生活の中での私たちの関心のほとんどは自分に向けられています。なぜなら私たちは自分の請求書の額を気にしながら、それをどうして払うことができるだろうと心配しているからです。そして福音はその私たちに神の救いのみ業を伝えるのです。さらにその神の救いのみ業を受け容れることが私たちの信仰であると言えるのです。

(3)キリストに返す

 かつてインドで貧しい人々のために働いたマザーテレサの活動が日本にも紹介されたとき、日本からもたくさんの若者が彼女の元を訪ねていったと言います。自分の人生に悩む多くの若者はもしかしたら「自分の人生の意味をそこでつかめるかもしれない」と考えてインドまで足を運んだのです。しかし、その多くの若者はマザーテレサたちがしている過酷な奉仕を生活に耐えきれなくなって、疲れ果てて日本に舞い戻って来たと言います。
 どうしてそうなってしまうのでしょうか。それは信仰についての誤解から生じています。多くの人は自分の生活態度を改められば、また修行に打ち込んで自分の心を清めれば救われると思っています。だから、マザーテレサと同じようなことをすれば自分も同じような悟りを得られるのではないかと考えるのです。しかし、マザーテレサの活動の秘密は彼女たちの生活態度や心の状態にあるではありません。まず、彼女がキリストの福音を聞いて、その福音を受け容れ、キリストを救い主と信じたこと、そこに彼女の活動の秘密があるのです。自分に突きつけられた罪の代価に対する請求書をすべてイエス・キリストが十字架で払ってくださった。そのキリストのために自分は自分の人生で何をしようかと考えたことが、彼女の活動の原動力だからです。
 パウロの伝道活動の秘密もこれと同じです。キリストが自分のためにすべてを支払ってくださったのです。それならそのキリストのために自分は何をすべきなのか。彼はすべての人に福音を伝えるのが自分に与えられた責任であり、キリストに負債をお返しする方法なのだと考えたのです。

【祈祷】
天の父なる神様
どんなに優れた知恵と知識を持った人でも、また品行方正な生活態度と穏やかな心の状態を持った人でも、福音を聞くことがなければ、その救いにあずかることはできません。しかし、あなたは私たちにその福音の言葉を伝えてくださり、またその福音を受け容れるための信仰を与えてくださったことを心から感謝します。どうかキリストにあって罪赦され、義と認められた私たちが、この救いによって変えられた人生をあなたのために使うことができるように聖霊を持って私たちを導いてください。そして私たちもそれぞれ福音を伝える責任をその生活の中で果たすことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。