礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年1月6日  「エフェソの12人の弟子」

聖書箇所:使徒言行録19章1〜10節(新P.251)
1 アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、
2 彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
3 パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。
4 そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」
5 人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。
6 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。
7 この人たちは、皆で十二人ほどであった。
8 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。
9 しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。
10 このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。

1.論争を巻き起こした聖書箇所
(1)再洗礼の問題

 今日の聖書の物語は教会の歴史の中で大きな論争を引き起こした箇所として有名です。まず、第一に今日の箇所で「ヨハネの洗礼」しか受けていなかった12人の「弟子」がパウロから「主イエスの名によって洗礼を受けた」(5節)と言う物語が登場します。この箇所は宗教改革時代に活躍した再洗礼派の人々の主張を根拠づける箇所として彼らによって用いられました。再洗礼派はカトリック教会で洗礼を受けた人々も、真の信仰を得て自覚的クリスチャンとなるためにはパウロの元で洗礼を受けなおしたこの12人の人々と同じように再び洗礼を受けなおさなければならないと主張したのです。
 これに対してカルヴァンやルターのような宗教改革者たちはカトリック教会で受けた洗礼も有効であって、その人がプロテスタントになっても再び洗礼を受け直す必要はないと主張しました。私たちの教会でも教会員となるために、どこか他の教会や教派で既に洗礼を受けている人に再び洗礼を受けなさいと勧めることはありません。正確に言えば、基本信条と言って、カトリック教会もプロテスタント教会もギリシャ正教会も認めている教えに立つ教会ならば正しい教会であるならば、その教会で執行された洗礼は有効であると認め、洗礼を受けなおす必要はないと考えているのです。

(2)聖霊のバプテスマの問題

 今日の箇所で歴史的な論争の火種となった問題はもう一つあります。それは洗礼を受けても、「聖霊のバプテスマ」を受けて異言と言ったような聖霊の特別な賜物を行使できないならば真の信仰者とは認められないと主張する人々の問題です。これは今日の箇所の後半部分でパウロが洗礼を受けた12人の人々の上に手を置くと彼らに聖霊が降り、異言や預言を語り出したと言う部分がこのようなグループの主張の根拠となっているのです。つまりこの人々にとってはその人が正しい信仰を持っているかどうかは、その人に聖霊が降り、超自然的な賜物を受けるかどうかで判断できると言うのです。
 私たちが聖書を読むときに大切な原理と言うものがあります。それは聖書の中で語られている内容はいつの時代でも、またすべての人々に適用できる一般的な教えもありますが、それとは別にその時代の特殊な環境におかれている人々にのみ適用される出来事もあると言うことです。そして、教会にとって大切な教えは、聖書の一部の箇所をもって主張されるのではなく、他の聖書の箇所との関係を考慮して主張されなければならないと言うことです。
 このことを考えて今日の箇所を読むとき、再洗礼の問題も異言の問題もむしろ、教会に与えられた一般的な教えと主張するよりは、この時に特殊な事情の元で起こった出来事であると考えたほうがよいと言えるのです。そのような意味で私たちはこの箇所を学びながら、その特殊性と同時に、現代の私たちにも大切な教えが何であるかについて考えて見たと思います。

2.12人の「弟子」とパウロとの出会い
(1)エフェソを再訪するパウロ

 さて前回、パウロがエフェソの町で伝道をした際に、エフェソの町の人々が「もうしばらく滞在してほしい」とパウロに要望したにもかかわらず、彼は急いでこの町を去り、エルサレムに向かったことを学びました(18章19〜21節)。パウロはこの人々の願いが終始自分の心にかかっていたのでしょうか、今日の箇所で再びこのエフェソの町を訪問しています。
 エフェソの町ではパウロの不在中にも彼の協力者であったプリスキラとアキラの夫婦が教会のために働いていました。彼らは特に聖書の知識に富み、雄弁であったアポロをキリスト教会の正式な伝道者として育てる役目を果たしたことを私たちは学んだはずです(24〜28節)。今日の箇所ではまず、このアポロの名前が冒頭に記されて物語が始められています。

「アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会(った)」(1節)。

 この出来事はアポロがプリスキラとアキラたち送り出されてコリントに向かった後に起こったと聖書記者は記しています。今日の記事を読んでみるとパウロに出会った人々が「ヨハネの洗礼」を受けていると語られています。そして以前学んだアポロの箇所でも、彼は「ヨハネの洗礼しか知らなかった」(25節)と言う記事が記されていました。このような記述からここで登場する人々とアポロは「(洗礼者)ヨハネの洗礼」と言う同じ言葉から何らかの関係があったのではないかと想像することができます。ただ、アポロの場合、聖書記者は「彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていた」(25節)と彼の教理理解は不完全ながらも、彼が主イエスに対する確かな信仰を持っていたことを紹介しています。ところがここで登場する12人の場合にはそのような記述が記されていません。むしろその反対に、パウロはこの人たちに出会うと次のような疑問を感じ、問いただしたと言うのです。

「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」(2節)。

(2)聖霊の働きと私たちの信仰

 私たちの持っている信仰と聖霊の働きには切って切り離すことができないような不可分の関係があります。パウロはローマの信徒への手紙の中で私たちの信仰と聖霊の働きとの関係を次のように述べています。

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」(8章15節)。

 私たちが神を「アッバ、父よ」と呼び、信じることができるのは「霊」の働き、つまり聖霊の働きの結果であると彼はここで語ります。また、イエスはご自分がやがてこの地上を離れて天に昇られることを預言しながら次のような約束を弟子たちに向けて語っています。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハネによる福音書14章16〜17節)。

 つまり、イエスは私たちが神と共に生きることができるために聖霊を助け主ととして私たちに送ってくださると言っているのです。私たちはこの聖霊の助けによって信仰を持ち続けることができるのです。だから聖霊が共にいてくださらなければ私たちの信仰生活は一刻たりとも維持することはできないのです。
 パウロがこの人々に「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と質問したのは、パウロがこの人々の信仰生活を知り、きわめて深刻な違和感を感じざるを得ないような思いを抱いたと言うことを示しているのです。つまり、この人達は自分たちを「弟子」であると称しながら、パウロから見ればそうでなないような信仰生活を送っていたと考えることができるのです。

(3)洗礼者ヨハネに従う古い信仰生活

 パウロの質問に彼らは「聖霊があるかどうか、聞いたことがありません」と即座に答えています(2節)。しかし、実際には旧約聖書はすでに聖霊の働きを教えていますから、彼らは聖霊の存在を知らなかった訳ではないと考えられます。この言葉はむしろ「その聖霊の働きが自分たちの信仰生活と関わりがあるとは知りませんし、聞いたこともありません」と彼らが述べたと考えることができます。
 パウロはこの人達の答えを聞いて続けて質問します。「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」。彼らがキリスト教会の会員であり、そこで教えを学んでいるとしたら、自分たちの信仰生活と聖霊がどんなに深い関にあるかと言うことを知らないはずがありません。案の定、彼らはパウロに次のように返答しています。「ヨハネの洗礼です」と。
 この12人の弟子はもしかするとこの言葉から考えると、洗礼者ヨハネを自分たちの模範と考えて、ヨハネと同じように世俗的な生活を離れて、禁欲的な隠遁生活を送っていたのかもしれません。福音書にはこのヨハネの弟子たちがかつてイエスに対して次のような疑問を投げかけたことが書き記されています。

「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」(マタイによる福音書9章14節)。

 この質問に対してイエスは今は断食をして悲しむ時ではなく、喜ぶべきときなのだと言う反論を語っています。そしてパウロもこの箇所で「ヨハネの洗礼を受けた」と言っている人々に次のように語っています。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」(4節)。つまり、洗礼者ヨハネの教えに本当に従いたいならば、古い信仰生活を捨て、ヨハネが指し示した救い主イエス・キリストを受け入れて、新しい信仰生活を始めなければならないと教えているのです。イエス・キリストを信じる信仰生活、それは聖霊によって導かれる喜びに満たされた信仰生活です。決して恐怖や悲しみに支配される信仰生活ではありません。

3.聖霊によって導かれる信仰生活

 この12人の抱えていた信仰生活の問題についてある説教者は「御霊の実」の問題だと言っています。パウロはガラテヤの信徒への手紙5章22節で「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と教えています。
 もし私たちが自分の信仰生活と聖霊の働きとの密接な関係を信じていなかったとしたら、そこにはどんな信仰生活が成り立つと言えるでしょうか。結果的に言えば、聖霊の働きを信じられない人にとって、頼るべきものは自分の力以外にはありえません。つまり、そのような人々の信仰生活は、自分の力で信仰を得て、自分の力で信仰を懸命になって維持することになってしまう訳です。そのような信仰生活に果たして本当に「喜び、平和、寛容」と言ったものが存在することができるでしょうか。それは不可能です。なぜなら、パウロの言うようにこれらの「霊の賜物」は聖霊の働きを受け入れ、聖霊に信頼して歩む信仰者に与えられる賜物だからです。
 まず、私たちの持つ信仰は聖霊の与えてくださったものではなく、自分が努力して勝ち取ったものだと考えて見ましょう。果たしてそのような信仰の持ち主は神に対して本当に感謝を献げることができるでしょうか。むしろ、神に感謝をささげるのではなく、自分の払った努力に対する神の評価を当たり前のように求める傲慢な信仰者にならざるを得ません。私たちの神に対する感謝は、私たちのたちのような罪人のために御子イエス・キリストを遣わしてくださり、その命に代えてまで私たちを愛してくださった神にささげられるものです。神はその救いを私たちが自分のものにするために私たちに一人一人に聖霊を遣わし、信仰を与えてくださったのです。聖書の語る愛とはこの私たちに与えられた神の絶大な愛によって起こされる私たちの側の反応と言っていいでしょう。
 さらにもし、私たちが得た信仰生活が私たちの力によって維持されるものだと考えるならどうでしょうか。私たちの持っている力は確かなものではありません。だからその信仰生活は、今日は大丈夫でも明日はどうなるかわからないと言うものになります。私たちが信仰生活について不安を抱いたり、心配になるときは必ずと言っていいほど、聖霊の働きを忘れて、自分の力を見つめていることから起こると言えるのです。なぜなら聖霊の働きに信頼できない人の信仰生活は不安や恐れだけが存在して、平和を得ることはできないからです。
 また、「寛容」についても同じことがいえます。私たちがもし自分の信仰のことで精一杯で他を顧みる余裕を持っていないなら、私たちは寛容な生き方をすることができません。私たちは既にキリストによって救われており、その救いの確かな証印を聖霊によって押されていると言う信仰的な確信があるからこそ、寛容さを持つことができるのです。
 もしかしたらこの12人の弟子たちは外面的には熱心な信仰生活を送っているように見えながらも、彼らにはこの御霊の実が感じられないとパウロには思えたのかもしれません。そこでパウロはあなたがたがヨハネの教えに正しく従いたいならば、彼が指し示した救い主イエスを受け入れるべきだと教えたのです。

4.新しい信仰生活へ

 彼らはパウロのこの教えを聞いて、イエス・キリストを信じる決心をしています。ここでの彼らの洗礼は彼らのその決心を形に表すもの、彼らの信仰告白の表現であると言えます。そしてこの彼らの信仰が聖霊の働きによって起こされたものであることを他の人たちにも理解できるように起こっているのが次の「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした」と言う一連の出来事だと言うことができます。つまり、これらの出来事は彼らが聖霊の働きによって主イエスへの信仰を告白し、その聖霊の導きによって新しい信仰生活を始めることができたことを教えているのです。
 このような意味で彼らが受けた洗礼や、彼らが語った異言や預言といった出来事は、彼らがおかれていた状況の中で行われた特殊な出来事であると言えます。聖書は私たちも同じようにするようにとは求めていないのです。しかし、この出来事を通して終始問題にされている聖霊の働きと私たちの信仰との関係は私たちにとっても決して忘れられてはいけない大切な真理です。
 私たちの信仰と聖霊の働きは密接な関係にあります。そして私たちに信仰を与え、今日もこのように私たちを導いてくださる聖霊こそが、私たちに豊かな聖霊の実を与えてくださるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちに約束の助け主である聖霊を送り、私たちに信仰を与え、主イエスが勝ち取ってくださった恵みのすべてを私たちのものとしてくださる聖霊の働きに心から感謝します。いつの間にか、この聖霊の働きを忘れ、自分自身の力に頼ることで、愛や平和、そして寛容を失ってしまう私たちです。どうか私たちを守り、聖霊の働きにいっそう頼る信仰者としてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。