礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年1月13日  「永遠の喜びの根拠」

聖書箇所:詩編16編11節
1 【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
3 この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
6 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

1.ダビデの詩編
(1)喜びに満たされている人生

 今日から毎月第二週目の礼拝では使徒言行録のお話から離れて、月間聖句として教会の前の掲示板に貼られている聖書のみ言葉を取り上げて礼拝を献げて行きたいと思っています。私たちの教会の前の通りを毎日、様々な人が歩いて通り過ぎて行きます。ときどきその人たちの姿を見ていると結構、教会の掲示板の前で立ち止まって、そこに書いてある内容を読んでおられる方がおられるのです。せっかくですから、昨年ぐらいから掲示板に毎月違った聖書の言葉を教会員の奉仕者の方々に書いていただいて掲示しています。そこで今年はその聖句を掲示するだけではなく、この礼拝で取り上げて皆さんと共に考えてみたいと思った訳です。新しい試みですのでうまく続けられるかどうかまだわからないところがあります。よろしかったら、皆さんもお知り合いに声をかけてくだって、この第二週の礼拝に招いていただければ幸いです。
 さてこの一月に取り上げられている聖句は旧約聖書の詩編16編11節に登場するみ言葉です。

「あなたは命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い右の御手から永遠の喜びをいただきます」。

 短い聖句ですが、ここには「喜び」と言う言葉が繰り返し登場しています。この詩編を書いた詩人は自分が喜びに満たされており、しかも「永遠の喜び」をいただいているとここに告白しているのです。この詩人の語っている「喜び」とはいったいどのようなものなのでしょうか。そして私たちが彼と同じ喜びを自分の人生でも味わっていくには私たちはどうしたらよいのでしょうか。この時間これらのことについて聖書からお話したいと思います。

(2)問題のまっただ中での喜び

 この詩編16編は最初に「ミクタム、ダビデの詩」と言う文章で始まっています。この「ミクタム」と言う言葉の意味は今ははっきりとはわからなくなってしまいました。しかし、その次に登場するダビデと言う名前は聖書に親しんでおられる方なら誰もがよく知っている人物の一人であると言えます。今から約三千年ほど前のイスラエル、ユダヤの国の王として君臨した人物です。「王」と聞くと子供のときから臣下たちに守られて苦労知らずに育った人物のように思われがちですが、ダビデの場合はそうではありません。ダビデは元々、羊を飼う職業を生業とする普通の家で育った人間でしたが、神に選ばれてイスラエルの王となりました。しかも、彼がイスラエルの王となるまではもちろん、王になった後も彼の人生にはたくさんの問題や試練がつきまといました。ですからこの詩編16編にも彼のそのような人生を垣間見るような言葉が最初に登場しています。

「神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを」(1節)。

 彼は今、何かから守られなければならない危険な立場に立たされています。しかも、彼を守ることができるのは「あなた」つまり神以外にはいないと語るほどに、彼は地上の人々の助けではどうにもならない困難な問題にぶつかっているのです。ですから、ここから分かるのはこの詩編の語る「喜び」は問題のない人生、問題から解放された人生で味わうものではなく、問題のまっただ中に生きていながらも、その問題にも関わらず、あるいはその問題があったからこそ味わうことができる「喜び」と言っていいのではないでしょうか。

2.幸福とは何か

 ところで皆さんは「今、あなたは幸せですか」と質問されたらどのように答えられるでしょうか。おそらくここに集まっておられる皆さんは「はい、幸せです」とすぐに答えられるかもしれません。しかし中にはこの質問に対してすぐに「はい」とは答えることができず、躊躇しながら考えても、その答えをなかなか出せない方もおられるではないでしょうか。
 おそらく、この質問に答えることが難しいのは、この「幸せ」と言う言葉が私たちの日常でよく使われる言葉であるにも関わらず、その定義付けは曖昧で何を持って「幸せ」と言っていいのかよくわからないと言う問題があるからではないでしょうか。他人から見て、「幸せ」そうに見える人が自分ではそうではないと考えている場合があります。またその逆に、「幸せ」とはほど遠いような生活をしているように他人からは見られながらも、「幸せ」だと言う実感を感じながら生きておられる方もいるのです。
 実はこの詩編を記した詩人はこの幸せについて明確な定義を持っていることがわかります。なぜならばこの詩編は幸せについてこのように語っているからです。

「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」(2節)

 この詩人にとっての幸せとは「あなた」つまり神以外にはないと言うのです。言葉を換えて言えば、この詩人は自分の人生に神が共におられると言うことが幸せであると語っているのです。そしてこの詩編が語っている喜びはその幸せな人生からわき上がってくるような自然な感情と言っていいでしょう。
 実はこの「喜び」をよく示すような実話がダビデの生涯にはいくつか登場します。その一つは神の箱をダビデが住む町エルサレムに運び入れたときのお話です(サムエル記下6章)。当時この「神の箱」は神が共にいてくださることを象徴するようなイスラエルの民にとっては大切な存在でした。ダビデはこの神の箱がエルサレムに入場するさいに、その行列の先頭で喜び叫びながら力の限りに踊ったと言うのです。その姿を見たダビデの妻ミカルは彼をさげすみ、「今日のイスラエル王はご立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように」と皮肉に満ちた言葉を彼に投げかけています。しかし、ダビデは彼女の言葉を聞きながらも自分の行いを恥じることなく、かえって主を喜ぶのは当然だと言ってはばかりませんでした。
 このようにダビデにとって主が自分と共にいてくださることが幸いであり、それが喜びの源だったと言えるのです。

3.神は何を私たちにしてくださるのか
(1)自分を守ってくださる相続財産

 それではどうしてダビデにとって神が共にいてくださることが幸いであり、その喜びの源であったと言えるのでしょうか。ダビデはこの詩編の中で続けて語っています。
 「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。

 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます」(5〜7節)。

 ダビデは「主はわたしに与えられた分」つまり、自分の財産は神ご自身であると言っているのです。「測り縄」は土地を測量するために用いるものです。この地上の財産の中でもっとも代表的なものは土地であるかもしれません。しかしその一方で、この土地を巡っての財産争いは絶えることがありません。ところが、神を相続財産とする者つまり、信仰を相続財産とする者は争う必要がありません。地上の土地をはじめとする財産はそれを相続する自分自身が守らなければなりませんが、神を相続財産とする者は、その神によって守られるからです。
 ここに語られる「わたしの杯」とは人生自身を象徴する言葉ですし、また運命とはその人生がゆくべき道筋と言っていいでしょう。そのすべてを主が支えてくださると詩人は喜びを持って語っているのです。

(2)励まし、諭してくださる神

 ここで興味深いのは神が私たちの人生をどのように支え、導いてくださるかと言うことです。先ほど申しましたようにダビデの人生は危機の連続であるようなまことに厳しいものでした。しかしこの詩編はそのような人生の中でも自分が主をたたえることができる理由について次のように語っているのです。

「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます」(7節)。

 このお正月にも日本ではたくさんの人々が初詣と言って神社仏閣にお参りに行きました。日本人が通常考えている神と人間との関係は、ときどき自分が必要なときに神様がいると言うところに行って、自分の願い事を伝えて来ると言うものがほとんどです。あとは神様が自分の伝えた願いにどのように答えてくれるかどうかを待つだけと言ってよいでしょう。
 しかし聖書の語る神はそうではありません。むしろ聖書の語る神は私たちに近づき、私たちに語りかけてくださる方なのです。神は危機や困難の中にある私たちに語りかけてその思いを励ましてくださいます。またどうしていいか分からない問題の中で悩みにふけりながら夜を迎える私たちに神は語りかけて、私たちの過ちを諭し、正しい道を示してくださる方がなのです。神は今も私たち一人一人に聖霊なる神を遣わし、聖書のみ言葉をもって励まし、諭してくださるのです。ダビデは身を持ってこのような体験を何度もして、神のすばらしさを褒め称えているのです。

4.神を信頼する生き方
(1)自分の前に神をおく

 それでは私たちがこの詩編の記者の語るような幸いを、そしてそこからわき上がる喜びを自分のものとするためにはどうしたらよいのでしょうか。詩編の記者は8節で次のように語っています。

「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません」(8節)。

 「わたしは絶えず主に相対しています」と語られています。この後で説明する新約聖書のペトロの引用でここは「わたしは絶えず主を私の前に置く」と訳されています。私が目を向けるとそこにいつも神がおられると言う意味の言葉です。私は絶えず神から目を離さないとも言っていると考えてもよい言葉です。だから「わたしは揺らぐことがない」と言うのは、神から目を離さないことの結果であると言っていいでしょう。つまり、私たちの心が揺らぎ始めるのはこの神から目を離して、他のものに目を向けたり関心を向けてしまうからです。詩編記者はその誤りについて4節のところで語っています。

「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」

 ここで「ほかの神」と言っていますが、これは神ならぬものを頼りとすることすべてを言い表しています。それらのものには私たちを励まし、諭す力はありませんから、かえって私たちを不幸にするだけなのです。だから私たちがすべきことは真の神を、私の前に置くこと、その方に目を向けながら地上の生涯を送ると言うことなのです。

(2)地上の死をも超えた「永遠の喜び」

 ところでこの詩編16編の10節の言葉は新約聖書にも引用されるとても有名な言葉の一つです。私たちがこの礼拝でずっと学んできている使徒言行録の最初の頃に登場したペンテコステの出来事のところがそれです。ここでイエスの弟子であったペトロはペンテコステの日に起こった奇跡的な出来事に驚いて集まった人々にこの物事の意味を説明するために詩編16編を引用しています(2章25〜28節)。特にペトロはこの10節の言葉を重ねて引用して次のように語ります。

 「(ダビデは)キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました」(2章31節)。 

 この言葉はイエス・キリストが墓から甦ること表した預言の言葉であったとペトロは語っています。実は旧約聖書の詩編の言葉を普通に読めばこの10節は神が自分を死の危険から救い出し守ってくださるという意味でしか読めないと言われています。つまり、この詩編の言葉は元々はこの地上の生涯を守り導いてくださる神のみ業を褒め称えているものと考えられていいのです。
 しかし、この詩編の教える本当の祝福は主イエスの復活によってさらに明らかにされたとペトロはここで語っているのです。私たちと神との関係は私たちの地上の死をも超えて、永遠に続くものであると言うことを主イエスの復活は私たちに明らかにしてくださったからです。
 私たちもまた、この詩編の詩人と同じように主を私の目の前に置き、主に目を注ぎながら信仰生活を送ろうではありませんか。私たちの喜びの源なる神を信じて生きることが私たちの幸せだからです。

【祈祷】
天の父なる神様。
「あなたは命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い右の御手から永遠の喜びをいただきます」。
今月、私たちに与えられたこのみ言葉を瞑想する機会を与えてくださりありがとうございます。ダビデがあたなと共に生きることで受けた幸いと喜びも私たちも受けることができるようにしてください。この幸いと喜びを私たちのものとするために死から甦ってくださったイエス・キリストのみ業に信頼しつつ、信仰生活を送ることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。