礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年1月27日  「高き目標を目指して歩む信仰生活」

聖書箇所:ヘブライ人への手紙13章14節(新P.413)
「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。」

1.その信仰を見倣う
(1)教会が危険な場所となる?

 今日は午後に今年度の教会の会員総会が開催されます。そのため、例年と同じようにこの礼拝では今年度の年間テーマと年間聖句を取り上げてお話をしたいと思います。この年間テーマと年間聖句は順序からいえば、まずこの年間聖句から決めました。それは「ローズンゲン」という聖書日課が2013年の年間聖句として取り上げているその同じ聖句から選んだものです。ついでではありますが、今年度の新しい試みとして始まった毎月第二週の伝道礼拝ですが、その説教のテキストになる教会の月間聖句もこのローズンゲンが提供しているものをそのまま取り上げています。
 このローズンゲンが2013年度の年間聖句として選んだものがヘブライ人への手紙13章14節です。そしてこの本はこの聖句を今年取り上げる理由を最初のページで説明しています。その文章の一部を少しここで引用してみたいと思います。
 「世の中の何か負担になる事、いら立たせる事、妨げになるような事々から守られんがために小さな砦を築き、安全な場所を作ろうとする教会は昔も今もそういう意味で危険です。ここでヘブライ人への手紙は私たちに有無を言わせぬ冷静さをもって「私達はこの地上に永遠の都を持っていない」と表明するのです。私達がいずれは死ぬ身だからというだけではなく、一つの目標に向かって歩み続けているからです。私達の前を行かれるイエス・キリストは経験を重ね、変化を遂げるために休息、自由、癒しの場を用意していて下さっています。私達はイエス・キリストと共に「来るべき都」を目指して進んでいます。新しい天の聖徒では、神が皆の涙をぬぐわれ、そこには苦悩も悲しみも叫び声も無いとヨハネは黙示録に書いています」(P.3)。
 この文章の中で私がたいへんにショックを受けたのは私達がこの地上の生涯の中で小さな砦を築くように「安全な場所を作ろうとする教会」は危険だと言っているところです。なぜなら、私たちはむしろこの地上の生活の中で疲れ果て、また傷ついて、その癒しを求めて教会に集うのではないかと考えているからです。しかし、ローズンゲンが言っているように本来の教会はそのような場所ではなく、私たちがイエス・キリストが指し示す人生の目的地に向かうための中継地点でしかないのです。ローズンゲンはそのことを忘れたら教会は私たちの人生の大切な目的を見失わせるような危険な場所になってしまうと言っているのです。

(2)本当の慰めやいやしはどこで与えられるのか

 また、ここには私たちが慰めや癒しについて持っている誤解があると言っていいかもしれません。ローズンゲンは真の癒しと慰めは、私たちがキリストに従って目的地に向かうためにキリストが与えてくださるものなのだと言うのです。だからその「休息、自由、癒しの場」は永遠の都を目指し信仰生活を歩み続ける者達に、キリストが与えてくださるものだと言えるのです。しかも、キリストはご自身の救いのみ業を通して天の都に私たちのためにさらなる祝福を準備してくださっているのです。だから、私たちはこの地上の小さな砦に留まるのではなく、天の都を目指して信仰生活を続けることが必要なのです。言葉を換えて言えばキリストは天の都を目指して信仰生活を続ける者にのみ、真の休息と自由と癒しをこの地上でも、また天においても与えてくださるからです。
 ヘブライ人への手紙はこの年間聖句の言葉が登場する段落の最初のところで「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(13章7〜8節)と語っています。ヘブライ人の著者は「私たちに神の言葉を語った指導者たちを思い出せ」と語ります。彼らの信仰の模範に従えと言うのです。そして、その模範の最高の代表者はイエス・キリストなのです。なぜならばイエス・キリストは父なる神から与えられたご自身の人生の目標に向かって地上の生涯を歩み続けられた方なのです。その点で彼はこの地上の人生の中でその目標を一度も見失うことが無かったのです。

2.教会に与えられた目標
(1)教会設立とその後の教会

 私たち信仰者には天の都を目指して歩むと言う高き目標が与えられています。そしてその信仰生活の模範としてイエス・キリストの生涯が私たちに示されているのです。それではその私たちが今集っている教会の目標とは何なのでしょうか。先ほどのローズンゲンの言葉では教会は信仰者が目的地に向かうことを妨げる小さな砦となってはならず、その目的地に向かう助けをしなければならないと語っています。
 私たちの東川口教会は2009年の4月に教会独立を果たし、伝道所から教会となりました。この教会独立とは私たちの教会が政治的にも、経済的にも自立すると言うことを意味しています。政治的には教会を運営する役員、長老や執事がその群れの中から選ばれなければなりません。また、経済的にはその群れの人々が自発的に献げる献金によってすべての教会の運営費用が満たされなければならないのです。現在、東川口教会では政治的には小会、執事会が熱心に教会のため働いていま。そこで選ばれた長老や執事達は貴重な労力と時間を主に献げて熱心な奉仕をしているのです。また、教会員が献げる教会の献金額の合計は年々、その額を増やし、自給率を上げています。このように私たちの教会では選ばれた役員だけではなく、すべての教会員が教会を支え続けていることが分かります。

(2)教会は目的を果たすために存在する

 それでは、私たちはなぜこの教会を支え続けなければならないのでしょうか。そのことについて少しここで考えて見たいのです。先日、私はP・F・ドラッカーと言うアメリカ人が書いた『マネジメント』と言う本を書店で買って読み始めました。聖書とは全く分野違いの書物ですが、たまには視野を広げたいと思い、前から知っていたこの書物を実際に読み始めたのです。私はこの本の最初でドラッカーが現代人は「あなたはどんな組織に属しているか」と言うことに関心を持つが、「あなたは何をしているか」と言う質問が重要であるとは思っていないと言う文章に出会い、これは何を言っているのかなと頭を抱えました。しかし、その疑問はこのこの後すぐに書かれているドラッカーのマネジメントについての説明の文章から理解することができました。
 なぜならドラッカーがとても大切だと考えているのは、「組織自身は目的ではなく、目的を果たす手段に過ぎない」と言うことだからです。つまり、「組織を維持するために何かをする」と言うのは誤った考え方であり、「目的を果たすために組織が必要」なのだと言うことです。そしてマネジメントとは組織がその与えられた目標を達成させるための必要なものなのだと言うのです。
 もし、この考え方を教会に当てはめるとしたら、教会は神様から与えられた目的を果たすための手段であることになります。つまり、「教会(組織)を維持するために何々をしよう」と考えるのは教会を目的化してしまう誤りであると言えるのです。つまりたとえば「教会を維持するために伝道しよう」と考えるのは完全な誤りであると言えるのです。むしろ、教会は神様がその救いをこの地上の人々に与えるために設けられた組織なのですから、「伝道するために教会」があると言っていいし、そう考えなければならないのです。
 そして教会の年間聖句のヘブライ人の手紙の言葉が伝えようとすることを今の論理で考えるなら、神は与えられた伝道と言う目的を果たそうとする教会に真の休息、自由、慰めの場を与えてくださると言えるのです。このことは微妙な言葉の違いではないかと思われる方がいるかもしれません。しかし、実際にはそうではありません。皆さんは教会を維持するための手段としてここに集められているのではないのです。皆さんは神に愛されているからこそここに集められているのです。そして、神に愛されている私たちは、この神の愛をたくさんの人に伝えるために伝道をするのです。私たちは神の愛の目的としてこの教会に集められているのです。

3.聖徒の交わりについて
(1)神との縦の関係

 先日のウエストミンスター信仰告白の学びの中で「聖徒の交わり」と言う項目を学びました。聖徒の交わりとは神によって選ばれ、信仰者とされた私たちの共同体のことを語っています。実際にはこの共同体は教会と言う組織と重なる部分がありますが、それ以上の広がりを持つものであるとも言えます。しかし、この聖徒の交わりについて信仰告白が教えている内容は教会がその与えられた目的を果たすためにとても大切なこと、つまり教会のマネジメントを語っていると言っていいかもしれません。
 まず聖徒の交わりにとって大切なのはそこに集る人一人が信仰によって神とつながっていると言う縦の関係です。どんなに活発で優れた活動をしている教会でも、そこに集める人たちとこの神との関係がなかったとしたら、それは世に存在する様々な人間の集団や共同体と全く変わりのないものになってしまうのです。そして教会がそうなってしまったら神が与えてくださった目的を教会は果たすことができません。ですから教会の礼拝やその他の諸集会は私たちと神との関係を深めるために最も大切な働きであると言えます。この活動がおろそかになれば、教会は全くその目的を果たすことができないのです。

(2)賜物によって互いを立てあげる横の関係

 この点に関して、忘れてはならないのは神が私たちに与えてくださる賜物です。神は私たちに豊かな賜物を与えてくださいます。そしてそれはこの神と私たちの関係、礼拝を中心する生活の中で与えられると言っていいのです。
 そしてこの賜物に関して信仰告白はたいへん大切なことを言っているのです。神から私たちに与えられた賜物はこの聖徒の交わりを構成する私たち一人一人がお互いを信仰者として立てあげるために与えてくださるものだと言うのです。地上の組織では自分が持っている能力を他人と競い合わせて、その競争関係によって組織を発展させようとします。しかし、私たちに与えられた賜物はお互いに競うためではなく、助け合うために与えられていると言うのです。そしてその賜物はお互いを立てあげようとするときに最もすばらしい能力を発揮し、また豊かにされていくのです。
 皆さんはもしかしたら自分に与えられた賜物はわずかで、何の役にも立たないと思っているかもしれません。確かに、そう思って私たちが自分の賜物を何も使うことなく、地中に埋めてしまえば、そうなってしまうかもしれません。しかし、私たちに与えられて賜物は実際に教会と言う聖徒の交わりの中に持って言って、使おうとするときその賜物の本当の価値が分かり、十分にその能力を発揮することができると言うのです。
 そうだとすれば、私たちは教会での他の兄弟姉妹の働きや、賜物や能力のなさを批判するのではなく、むしろその不足した部分を自分に与えられた賜物で補うことを神から求められているとい言えるのです。
 教会がその目的である伝道をするために、皆さんがそれぞれ神から与えられている賜物は重要です。皆さんがその賜物を地中に埋めてしまったら教会の働きも祝福されないのです。言葉を換えて言えば、皆さんは「一人一人が伝道者である」と言えるのです。この伝道者の役割は画一的なものではなく、皆さんに与えられた賜物が多様であるように、多様な働きによって伝道を行うことができるのです。

4.目標を見失わない多様性と柔軟性

 私がまだキリスト者になったばかりのころ、他の教派の人から「改革派教会の雰囲気は冷たい」と言う批判の言葉を何度か聞いたことがあります。最近はこのような批判を聞くことがなくなりました。それは改革派教会の雰囲気が昔より暖かくなったのか、それとも他の教派が改革派と同じように冷たくなったのかどちらなのでしょうか。ただ、この「冷たい」、「暖かい」と言う評価はきわめて主観的なもので、はっきりとした判断の基準がありません。ですから信頼できる評判ではないのです。おそらく改革派教会がそのように言われる理由の一つは、私たちが聖書や教会の教理の学びを重んじているからかもしれません。牧師が丹念に聖書の言葉を解説し、また教会に与えられている信仰問答や信仰告白と言った教理を詳しく教える教会は日本ではそんなに多くはありません。もちろん、教会の活動はそれだけではありません。ただ、改革派教会がこれらの学びを重要視してきたのは、やはり教会がその目的を見失うことなく、忠実に神の愛を世の人々に伝えるためだとも言えるのです。
 言葉を換えて言えば、教会が聖書や教会の教理を学びその目的を見失うことがないならば、教会はもっと多様で、もっと柔軟な働きができると言えるのです。たとえば教会はそこに集る人々の必要に答えて活動する場所ではありません。もし、教会の活動が人間の様々な期待に応えるだけの組織となってしまったら教会は教会ではなくなります。教会は何よりも神に仕える組織なのです。しかし、教会が神に仕え、神から与えられた目的に忠実であろうとするなら、教会はそこに集る人々にとって最も必要なものを与えることができるのです。それはキリストが十字架上で勝ち取ってくださった救いであり、その救いがもたらす祝福された永遠の命です。世に存在する他の集団は確かに、人間の要求に応えて様々なものを提供することができます。しかし、この救いは神が立ててくださった教会でしか、そこに集められている私たち信仰者しか世に提供することができないのです。
 私たちはこのことを覚え、神の与えてくださった「高き目標を目指して歩む信仰生活」を教会のテーマとして、また一人一人に神が与えてくださった賜物を生かすことで、神の愛を世の人々に伝える伝道する教会として今年一年の活動を始めたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちを愛し、私たちをこの教会に集めてくださったあなたに感謝を献げます。そしてあなたは私たち一人一人に賜物を与え、その賜物を持って教会に使えるようにと召してくださいました。この教会があなたの愛を地上の人々に伝え伝えることができるようにしてください。救いを待ち望む人々に福音を伝えることができるようにしてください。私たちが互いに与えられた高き目標に向かうためにすべての教会の活動を祝福していください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。