礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年2月3日  「都合が悪い聖書の教え」

聖書箇所:使徒言行録19章23〜40節(新P.252)
23そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。
24 そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。
25 彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、
26 諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。
27 これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」
28 これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。
29 そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。
30 パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。
31 他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。
32 さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。
33 そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。
34 しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。
35 そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。
36 これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。
37 諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。
38 デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。
39 それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。
40 本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。

1.売り上げ不振

 今日の箇所は先日学んだ、ユダヤ人の祈祷師たちが起こした事件の余波によって新たにエフェソの町で起こった出来事を紹介しています。ユダヤ人の祈祷師たちの事件によってエフェソの町の人々にパウロが教える主イエス・キリストに対する恐れと、驚きが巻き起こりました。これによってたくさんの人々が新たに教会に加わったのですが,それ以外の人々の上にも違った影響がもたらされたのです。

「そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた」(23〜24節)。

 以前、お話しましたようにこのエフェソの町には女神アルテミスを祭った神殿があり、その神殿を目指して各地からたくさんの参拝客がこの町を訪れていました。私は子供の頃、よく父に連れられて成田山や川崎大師に行きました。少し前の日本では神社仏閣に参拝することは人々のあつい信仰心を表わす行為と言うよりは、娯楽の一つであったような気がします。子供のときに行った成田山にはたくさんのお店が並んでいました。ウナギを上手に店先でさばくうなぎ屋さんの光景や、お土産の羊羹を売る店が建ち並んでいた成田山の町の風景を今でも思い出します。また川崎大師では店先でトントントンと棒状の飴を切っていく飴屋さんや、お土産として売られているくず餅を売る店が建ち並んでいたように記憶しています。こういう町のほとんどは神社仏閣への参拝客があってこそ成り立つ商売をしているお店が立ち並んでいる訳です。そして、このエフェソの町でも同じように、アルテミス神殿への参拝客を狙った商売がたくさんあったようです。その中でこの物語に登場するのはこのアルテミス神殿の模型を銀で造って利益を得ていた銀細工商人です。

 ここで銀細工職人のデメトリオと言う人物は自分と同じ商売をしている銀細工職人の組合仲間を集めてこのようなことを語っています。

「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう」(25〜27節)。

 デメトリオが語るようにパウロが熱心に伝えている聖書の教えによれば「手で造ったものなどは神ではない」、つまりそれは人間が造った愚かな偶像に過ぎないとされています。その上でそのような偶像には私たち人間を救う力はないとはっきり教えられているのです。そこでデメトリオはこんな教えが人々に伝えられれば大変なことになると語ったのです。このままでは女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、女神のご威光さえ失いかねない状況になってしますと彼は警告します。このデメトリオは言葉では「女神アルテミスのご威光」や「アルテミスを祭る神殿」が蔑ろにされていることを心配しているように語っています。しかし実際にはデメトリオは自分の造っている銀で出来た神殿のミニチュアが売れなくなって、商売が成り立たなくなってしまうことを心配していることは一目瞭然です。

 しかしデメトリオはここで「女神アルテミスのご威光」や「神殿が蔑ろにされている」と言う言葉を使うことで、自分たちと利害を一つにする同業者だけではなく、町の人々を巻き込んで反キリスト教会のキャンペーンを起こそうとしたのです。そして確かにこのキャンペーンは一見成功したかのように物語は進んでいきました。

2.混乱する人々

「これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。そして、町中が混乱してしまった」(28〜29節)。

 デメトリオの策略によって町の人々がこの騒動に巻き込まれていきます。ここで「町中が混乱した」と記されていますが、その混乱ぶりは32節で詳しくこう語られています。「さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった」。まるで間抜けな主人公たちが登場する落語を聞いているような有様がここでは展開されています。

 群衆はパウロの同行者でマケドニア人のガイオとアリスタルコを捕まえて野外劇場になだれ込みました。ローマの古代遺跡でよく見るような円形競技場がこのエフェソにもあり、そこではたびたび住民たちによる集会が開かれていたようです。そしてこの混乱を聞きつけたパウロが野外劇場に集まる群衆の中に入っていこうとすると、彼の友人の「アジア州の祭儀をつかさどる高官たち」、つまりローマ皇帝崇拝のための祭儀をつかさどるローマの役人たちがパウロがここに加わるとさらに混乱が複雑になると心配し、彼を野外劇場の外に押し留めたのです。
 しかし、この集会は混乱するばかりで、容易に収まりが気配はありません。そこでエフェソの町の書記官が登場しこの群衆をなだめることになりました。彼は興奮した群衆たちをなだめるために語りました。彼の論点は、第一に女神アルテミスのご威光は誰も否定することができないのだから、そのために騒ぐ必要はないと言うことです。その上で、パウロたちキリスト教会のメンバーは神殿を荒らしたり、女神を冒涜する具体的な行動をしたわけではなく、刑事罰の及ぶような罪を犯していないと、彼らを弁護しています。そしてもしデメトリオたちが「自分たちはパウロやキリスト教会によって不利益を被っている」と考えているなら、正しい手段で裁判所に申し立てるべきだと説得しています。つまり、今回のように役所へのことわりもなく、町の人々が競技場に集まって不法な集会を開くこと自体が違法であって、ここに集まっている人たちこそが「暴動罪」の罪で裁かれることになると彼は教えたのです。そしてこの書記官の訴えにより、群衆たちは集会を解散し、この事件は収束したのです。

3.誰が守るのか
(1)真理には従うべきである

 この一連の物語を読んで、私が気づくのはこの長文の記録の中でパウロたちキリスト教会のメンバーは僅かにしか登場していないことです。その上彼らはここでは一切何も弁明したり、語っているところはないのです。そしてここには神が直接に引き起こしたような奇跡的な出来事も記録されていないのです。この物語に登場するのは自分の利益が失われることを恐れた銀細工職人たち、そしてその銀細工職人たちの策略に乗せられてしまい、混乱の渦中に巻き込まれていくエフェソの町の人々、さらにはこの出来事を何とか治めてエフェソの町の治安を回復しようとするローマの役人たちの姿です。
 はたして、この聖書の箇所は私たちに何を教えているのでしょうか。一つはっきりしているのはキリスト教宣教が行われるところでは、新しい信仰者が起こされて、キリスト教会の勢力が拡大して行く一方で、その社会自身にキリスト教宣教は何らかの影響を与えざるを得ないと言う現実です。
 日本ではキリスト教会の影響力は残念ながら大きいとは言えません。そのため教会と社会が衝突するという出来事は現在の日本では希であるかもしれません。しかし、私たちの身近ではこれと同じ混乱が起こることはたびたびあるはずです。たとえば、私たちがよく遭遇する冠婚葬祭の出来事などです。聖書は真の神以外の神の存在を認めません。ですから神に献げられるべき礼拝を神以外のものに献げてはならないと教えているのです。ここで既存の価値観を持つ地域や親族と言ったコミュニティーと私たちキリスト者との間に衝突が起こります。「キリスト者は神仏を敬わない」とか、「先祖を蔑ろにしている」と非難されることが起こるのです。
 この点で確かに日本に生きる私たちにとって聖書の教えは都合が悪いと言うことになります。しかし、だからと言って私たちは聖書の真理を曲げることはできませんし、私たちが何を考え言おうとも聖書の教える真理は決して誰にも変ることは不可能なのです。おそらく、私たちがこの聖書の真理を巡って何か余計なことを考えたり、企てたりするなら、ちょうどこの物語に登場する銀細工職人のデメトリオと同じ過ちを犯すことになりかねません。彼は自分の利益を守るために聖書の教える真理は都合が悪いと考え、行動を起こしたのです。確かにデメトリオの場合なら彼は信仰を持っていない人でしたから、自分で自分の利益を守ろうとしたことは納得がいきます。しかし、信仰を持つ私たちはどんな困難や不利益の中でもそれを守ってくださるのが神であると信じるのが大切なのではないでしょうか。だからこそ、都合の悪い聖書の真理に従うことこそが私たちの出会う困難な出来事を守る最上で、唯一の方法であることを私たちは忘れてはいけないのです。

(2)神の言葉を擁護するのは聖霊なる神の御業

 もう一つ、この物語から私たちが学べる点は真の神の権威を守るのは神ご自身であって私たちの業ではないと言うことです。先ほどの話に戻れば違った価値観を有する地域や親族のコミュニティーの中でも、私たちが聖書の真理に従うと言うことは大切です。しかし、その一方で、キリスト教信仰を持たない人々が神社仏閣を敬い、先祖崇拝を大切にしている姿を私たちは無用に攻撃する必要はないのです。むしろその人たち自身の持っている様々の価値観は重んじる必要があると言えるのです。間違っても、聖書の教えを信じない人々の存在が、またその教えに反対する人々の存在が神の権威を蔑ろにするなどと考えて行動することを私たちはすべきでないのです。
 アメリカでは聖書の記述にもとづいて人類の歴史の姿を教える創造科学博物館と言うものがあると言います。彼らは聖書の教えに基づかないと考えて、既成の科学や学問を否定して、独自の科学を打ち立てようとしているのです。一見これらの試みは聖書の真理を擁護しようとする敬虔な態度から生まれてきているように見えます。しかし、私は実際にはそうではないと思えてなりません。真の神の権威、またその聖書の教えが正しいことを人間が賢明になって守ろうとするこの姿は、神の権威が人間の助けなしには守り切ることができないと言う不信につながるのではないかと思えるからです。
 もちろん、人間の作り出した科学が正しくて、聖書の教えは間違っていると言うのではありません。なぜなら人間の科学は神の創造された世界のほんの一部を垣間見えることしかできないものだからです。それに対して、聖書の真理はこの世界を創造された神が私たちに直接に教えてくださったものなのです。だから私たちはこの聖書の教える真理を受け入れているのです。そして、私たちはこの聖書の真理を守るのは私たちではなく、神ご自身であること忘れてはならないのです。なぜなら聖霊なる神はこの聖書の真理に耳を傾ける私たちに直接働きかけ、その言葉が真実であることを証明し、また擁護してくださるからです。だから、私たちにとって大切なのは、この様々な価値観の入り乱れる現代社会で、他の思想や信仰を否定したり、攻撃することではなく、聖書の語る真理、イエス・キリストの福音を正しく語り続けていくことなのです。
 そして神の言葉が正しく語られるところには、必ず神の力が現れること、神の御業が実現することを私たちはもう一度、ここで確認しながら、この困難な日本の状況の中でも忠実に神の言葉を伝える伝道の業に励みたいと思うのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
あなたはいつもあなたの言葉が語り伝えられる場所で、その力を豊かに表わしてくださいます。そしてあなたはその言葉に従って生きようとする私たちの信仰生活自身を守り支えてくださる方であることを覚えます。私たちがそれぞれ置かれている場所で、大胆にあなたの言葉を語り伝えることができるように助けてください。今、信仰の故に困難に遭遇している人々にふさわしい助けを与え、励ましを与えてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。