礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年2月10日  「光が消えていないか」

聖書箇所:ルカによる福音書11章33〜36節
33「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。
35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。
36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

1.聖書の作者は神
(1)分かりにくい『人類の知的遺産』

 私たちが教会に来てまず手に取り、またこのように礼拝の中で共に耳を傾けることとなる聖書とはどのような書物なのでしょうか。一般の人はこの聖書をよく「人類の知的遺産」のと呼ぶことがあります。確かに人類の長い歴史の中でたくさんの人々にこれほど影響を与え続けて来た書物は他にはあまりないのかもしれません。そして日本のような信教の自由が許されている国ではこの聖書は簡単に本屋さんに言って購入することができます。しかし、実際に手にとって読み進めようとするとこの聖書は誰にでも簡単には理解することができないようないろいろな問題を持っていることが分かります。
 まず、最初に旧約聖書の創世記を開いて見ますと、そこには私たちが今まで学校の授業で習った知識とは全く違った人類の歴史が記されています。それを読んで多くの人はこの書物は古代人が記したおとぎ話のような感じを受けて、この本を読む価値がどこにあるのかと考えてしまうこととなります。しかし、さらに根気強く読み進めて見ると今度はイスラエル人、あるいはユダヤ人と言われるような特定の民族の歴史が長々と記され始めます。しかも、そこに展開される物語は私たち現代人の持っている価値観からすれば、とても野蛮で愚かな出来事が続いているようにも思えます。その上で、その後に始まる「律法」と言う決まり事の記述に至っては、もういったいこれらの事柄が何を言っているのか全くわからないと根を上げざるを得ないと言えるのです。
 「そうだ、旧約聖書から読もうとしたから、だめなんだ。もう一度、気を取り直して新約聖書を読んでみよう」。そう視点を変えて今度は新約聖書を読んでみます。すると真っ先に登場するのはあの聞き慣れないユダヤ人の名前の列挙された部分です。それでも何とか忍耐して、読み進めておそらく皆さんが興味を持つのはイエスが語られた「山上の説教」と呼ばれる有名なお話の部分からもしれません。しかし、それらのお話でさえ、簡単に私たちに理解ができると言えばそうではありません。これらのお話の背後にはやはりイエスがお生まれになり、活動されたユダヤ人たちの宗教や文化が深く結び合っています。そうなるとやはり、もう一度逆戻りして私たちは旧約聖書を学ばないと、新約聖書のイエスの言葉の本当の意味は分からないと言うことになります。こんなに分かりづらい書物が、どうしてこんな『人類の知的遺産』としてもてはやされているのか、どうして多くの人に影響を与え続けたのかと疑問に思う方も出てくるのではないでしょうか。

(2)神が人間を導いて記された書物=『聖書』

 私たちキリスト教会は聖書を『人類の知的遺産』とは理解していません。なぜなら、『人類の知的遺産』と言うものは人類が生み出した知識となってしまい、聖書はアリストテレスやプラトン、孔子などが記した書物と同じ人間の作品になってしまいます。実は教会はこの聖書を人類が生み出したもの、人の知識によって作られたものとは考えてないのです。簡単に言えば、聖書は神が私たちに人間に与えてくださった書物と教会は考えていますから、むしろそうだと聖書は「神の知的遺産」と言ったほうがよいと言えるのです。
 確かにこの聖書は直接には様々な人によって記されています。モーセやダビデ、あるいはイザヤやエレミヤ、たくさんの人間が記した文書を集めて旧約聖書は成り立っています。そして新約聖書も同様です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと言う最初の「福音書」と呼ばれる部分に記されている名前は皆、この書物を書き記したと考えられている人々の名前です。また新約聖書のかなりの部分に渡って収められている「手紙」と呼ばれるものは、現在私たちが使徒言行録と言う書物を読んで学んでいるように伝道者パウロによって記されているのです。それではどうしてこのように様々な人々によって書かれた書物の集りである聖書を私たちは神の言葉だと信じるのでしょうか。そのことについて新約聖書のテモテへの手紙二の3章16節にとても重要な言葉が記されています。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」。

 「ここに聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれた」と説明されています。つまり、聖書は神の霊、聖霊によって導かれた人たちが記した書物だと言っているのです。神はご自分の言葉を私たち人間に知らせるために、この聖書を直接に記した人々を用いました。ですからこれを記した人の人生も、またそのときの歴史的出来事すべてを用いて神はご自身の言葉を私たち人間に知らせてくださったのです。だからこそ私たちはこの書物を神の言葉と信じているのです。
 それでは神はこの聖書の言葉を通して私たちに何を伝えようとされているのでしょうか。聖書と言う書物の主題はいったい何なのでしょうか。それはイエス・キリストによって実現した私たち人類の救いと言う出来事です。神はこのイエス・キリストによる救いの出来事を私たち人類に知らせ、また私たちが実際にその出来事を信じて、救いにあずかることができるようにとこの聖書を私たちに与えてくださったと言えるのです。

2.ユダヤ人の間違い

 さて、今日私たちが取り上げている聖書の言葉、ルカによる福音書の11章35節の「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と言う言葉はイエスが語られたものです。この言葉だけを読むと何か自分の目が「希望を失って、死んだ目なっていないか気をつけろ」、イエスはそんな風に私たちに向けて言われているように思われるかもしれません。しかし実際は、この福音書を記したルカはそのような意味でこのイエスの言葉をここに記しているのではありません。むしろ、この言葉は今私が申しましたように聖書の伝えているイエス・キリストによる救いの出来事に対して、あなたはどのような姿勢を持って受け入れているのかとイエスが尋ねている言葉となるのです。そしてその姿勢次第では、私たちは目は光を失い、また私たちの人生自身も光をなくして、暗闇をさまよわざるを得ないと言うのです。しかしその逆に、私たちがこのイエスの救いを受け入れているのなら、その救いの光と希望が私たちの人生を照らすと教えているのです。
 それではどうしてイエスここで私たちが聖書の言葉を受け入れることの重要性を語っているのでしょうか。それはこのルカの福音書の文章の流れを理解するとによって分かって来ます。まず興味深いのはこの少し前に記されているイエスとユダヤ人たちとの間に起こった『ベルゼブ論争』と言う物語です(14〜23節)。ここでイエスは悪霊に支配されて苦しんでいる人たちを助けるためにその悪霊を追い出されています。イエスはなぜ悪霊を追い出すことがおできになったのでしょうか。それはイエスが悪霊をも支配する力を持っておられる方、つまりイエスこそ神が遣わしてくださった救い主であることを示しているのです。ところが当時のユダヤ人たちは「イエスはそんな人物ではない」と言う前提を持ってこの出来事を解釈しようとしました。そして彼らはなんとその自分たちの結論を正当化するために「イエスは悪霊の頭だからこんなことができるのだ」と言う解釈を導き出したのです。これはもうイエスを信じたくないためにだけ考えられた屁理屈でしかありません。
 その上で当時のユダヤ人達は「自分たちを説得したいなら、もっとちゃんとした証拠を持って来て私たちに示せ」とイエスに迫ったのです。そしてその人々にイエスは「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(29節)と語られたのです。ヨナの物語は旧約聖書に登場しています。ヨナは不思議な預言者で、神の命令に背いてしまって罰を受け、大きな魚に飲み込まれて三日三晩その魚の中で暮らしたと言う経験を持つ人物でした。しかし、その魚からはき出されたヨナの告げる神からのメッセージをニネベの町の人々は信じて、悔い改め、神の救いを受けることができたのです。ニネベの町の人々は本来、真の神など知らない、むしろ悪行を続けていた人々でした。しかし、ヨナの伝える神のメッセージを聞いたとき彼らは彼にその証拠など求めることはありませんでした。彼らはただヨナの語る言葉が神の言葉と信じたのです。だから彼らは神からの厳しい裁きを免れて救いを受けることができたのです。
 イエスは十字架にかかり、三日目にその死から甦られた救い主であると聖書は語っています。だからこそ、私たちはイエスに何かの証拠を求める必要はなく、ただ、その言葉に従えば神の救いを受けることができるとことをヨナの物語は私たちに教えているのです。

3.キリストを受け入れる者の生活
(1)光か闇か。それは自分が選び取った結果

 それではこの救い主イエス・キリストによって神のメッセージがはっきりと伝えられているのに、その言葉に屁理屈を並び立てて信じようとしない人々を何にたとえることができるのでしょうか。イエスはそこでこう語っています。「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」(33節)。せっかくともし火があっても、そのともし火を穴蔵の中や、ますの下においたら、ともし火の意味がありません。そんなことをすればともし火があっても、不便な暗闇の中で生活せざるを得ないのです。それではともし火を持っているのに「暗い、暗い」と不平を言いながら生活せざるを得ない、これほど愚かなことはありません。イエスによって示された救いの出来事、福音を知らされながらそれを信じようとしない人は、このともし火を隠してしまった人に似ているというのです。ですから、その人の生活に希望が見いだせないのは、また暗闇の中で絶望しながら生きなければならないのは、決してその人のことを神が見放している訳ではなく、その人自身がそうなることを選び取ったと言うことができるのです。
 さらにイエスは続けてこのように語ります。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」(34節)。「目が澄んでいる」とは私たちが神の言葉を受け入れ、イエスの救いを受け入れていると言うことです。私たちがこのキリストの福音を喜んで受け入れるなら、私たちは以前のように闇に支配されることはありません。神の救いの光が私たちを照らし、全身を明るくすると言っているのです。

(2)自分はどうなのかと自己点検せよ

 さてこのような言葉の後イエスは、今日の言葉である「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と語り、その言葉に続けて「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」(36節)と語られているのです。

 ですから、ここで語られている「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と言うイエスの薦めの言葉は、私たちが聖書の語る言葉に対して、その言葉が示すキリストによる救いの出来事、福音に対してどのような姿勢を持っているかを確かめなさいと私たちに教えていると言えるのです。
 ユダヤ人たちは聖書をよく読んでいながら、その聖書の主題であるべきイエス・キリストに対して「彼は聖書の約束する救い主ではない」と言う前提を持って拒否しました。「それが本当であると言う証拠を示せ」とイエスに迫ったユダヤ人はともし火を隠してしまった人と同様に、むしろ彼らは「イエスが救い主ではない」と言う材料を拾い集めて、自分たちの主張を正当化し、聖書の語る真理を覆い隠すことに力を注いだのです。そして、彼らは結局、神が与えてくださった救いの機会を拒否し、自らを暗闇の世界、絶望と裁きへと導いてしまったのです。
 それでは私たちはどうしたら聖書の言葉が神の言葉であり、真実な言葉であることを理解することができるのでしょうか。また、そこに提供されている希望をどうしたら自分のものとすることができるでしょうか。イエスは私たちに勧めています。聖書の言葉を受け入れなさいと、その言葉を信じて生きなさいと。そうすればあなたの人生にその言葉自身が光となって照り輝き、あなたの全身は輝くと教えます。神の言葉はもともと光ですから、それを受け入れれば私たちも光の中で生きることができるのです。

(3)聖書に対する二つの姿勢

 聖書を読み解く姿勢には二つのものがあります。一つは「聖書は神の言葉ではない」と言う前提を持ってその結論にふさわしい材料を集めながら聖書を読んでいく方法です。「世界にはこんな矛盾がある」。「神が愛なら、なぜこんな事が起こるのか」。数限りない証拠がそこでは動員され、結論的には「聖書は神の言葉ではない」と言う前提がさらに固められていきます。しかし、この読み方では結局、自分も世界も何一つ変わることはありません。
 もう一つの読み方は、ニネベの町の人々がヨナの語る言葉を神の言葉と信じて、悔い改めた方法です。「聖書に語られている言葉は神の言葉である」と信じて読んでいく方法です。私たちが聖書をそのように読めばどうなるのでしょうか。聖書の言葉は神の言葉です。それは暗闇に光をもたらすともし火と同じです。ですから、必ずその言葉を信じて生きる人にはこの神からの救いの光がもたらされるのです。たとえ私たちは、闇の支配するこの世界に生きていたとしても、決してその闇に飲み込まれることはありません。なぜなら、神ご自身がその言葉を信じる私たちを守り導いてくださるからです。聖書の言葉を神の言葉として確かに証明してくださるのは、その言葉の真実性を私たちに示してくださるのは神ご自身です。
 「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」。このイエスの言葉は、私たちが聖書の言葉を神の言葉と信じ、その神の言葉の光の中に喜んで生きようとしているかを点検させようとする言葉だと言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちに神の言葉である聖書を与えてくださったことを感謝いたします。あなたの導きなしには救いに対する知識を何も知り得ない私たちです。私たちが喜んでこの言葉を受け入れることができるように聖霊をもって導いてください。そして私たちの生活の中に、また私たちの人生の歩みの上にあなたの上からの光が豊かに与えられるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。