礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年2月24日  「エフェソの長老たちとパウロ」

聖書箇所:使徒言行録20章13〜38節(新P. 254)
25 そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。
26 だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。
27 わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。
28 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。
29 わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。
30 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。
31 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。
32 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。
33 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
34 ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
35 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
36このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
37 人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。
38 特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。

1.パウロの語った別れの説教
(1)ミレトスにエフェソの長老たちを招く

 前回も学びましたように、パウロはギリシャやアジアの諸教会の代表者と共にエルサレム教会への旅に出発しました。この旅の目的は貧しいエルサレム教会の兄弟たちの生活を支えるために集められた諸教会からの献金を彼らに手渡すためと、イエス・キリストの福音の真理を堅持し、それぞれの教会に使徒たちを遣わすことで霊的な奉仕を行っているエルサレム教会の人々に異邦人教会からの感謝を直接会って告げるためでした。使徒言行録20章の16節の言葉によるとこのときパウロはエルサレムの町に「五旬祭」までには到着していたいと言う願いを持っていたようです。そのためにパウロは自分が手塩にかけて育てたと言う特別の思い入れがあるエフェソ教会に旅の途中で立ち寄ることを断念しています。おそらくパウロがエフェソに立ち寄れば、彼の指導を仰ぐ人々が大勢いて、そのためにかなりの時間をこの地で費やす恐れがあるとパウロが判断したからでしょう。
 パウロは海路でこの地域を通り過ぎミレトスと言う港町にやって来ていました(17節)。ミレトスはエフェソの町から南に50キロほどの所にありました。ところがここでパウロはエフェソの教会の長老たちに使いを送ってこのミレトスの町に彼らを呼び寄せています。今申しましたようにミレトスからエフェソまではかなりの距離がありますから、それを考えるとエフェソの町の長老たちをここに呼び集めれば、パウロはこの町に最低でも二三日は滞在する必要が生まれます。それを考えるなら最初からパウロはエフェソの町を通過していた方が簡単に済んだはずです。どうやらパウロはここで自分の計画を変更して、エフェソの教会の長老たちを招くことにしたようです。その理由として考えられることは次のようなパウロの言葉から明らかになります。

「そして今、わたしは、"霊"に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(22〜23節)。

 パウロは先にも言いましたようにこのときエルサレムに向かって旅を急いでいました。ところがそのエルサレムでパウロを待っているものは「投獄と苦難」であると言うことを彼は旅の途中で知ったと言うのです。なぜなら聖霊が「どこの町でも」そのことをはっきりとパウロに告げ知らせたからです。おそらくパウロがこの旅のために立ち寄った町々で、聖霊はパウロにこれから彼に起こることを告げていたのだと思います。しかも、それは一度や二度ではなく、「どこの町でも」であったと言うのですから、くどいほどに聖霊はこのことをパルに語ったことになります。そしてパウロはこの聖霊の働きかけによって、決心を固めることになったと言うのです。
 この聖霊のみ告げの通りパウロはこの後、エルサレムで逮捕され囚人としてローマに護送されると言う境遇になります。パウロは自分が自由に活動できるときは、あとわずかでしかないと考えていたのです。だからこそこのときパウロは、どうしてもエフェソの教会の長老たちに会って伝えたいことがあると考え、それを実行したのです。

(2)今を大切にするパウロの信仰

 そこで今日の箇所で取り上げられているのが、パウロがこのミレトスの町でエフェソの長老たち語った「別れの説教」です。使徒言行録の中に記されているパウロの説教は主に福音をまだ受け入れていない人々に語る「伝道説教」が中心でした。しかし、この説教はすでに福音を受け入れて教会生活に入っている人々、特にその教会を指導している長老たちに語られている点で他のパウロが語った説教とは性格を異にしています。そのような意味ではパウロが様々な教会の人々や信者たちに送った手紙と同じような役割をこの説教は果たしていると言っていいのかもしれません。
 このパウロの説教を読むと「そして今」(22、25、32節)と言う言葉が何度も登場していることが分かります。聖霊によってこれから起こる困難な出来事を告げられても、パウロは決してそこから逃げることはありませんでした。パウロにとっては自分に神から与えられた使命を果たすことができない人生は意味がないと分かっていたからです。しかも、彼は将来、自分の人生に起こるべきただならぬ出来事を前にして、その出来事を心配してそのことで今の時を費やしてしまうと言うことはありませんでした。パウロはいつも今自分は何をなすべきなのかを考え、行動しているのです。
 神に自分の人生を委ねて生きる信仰生活とは決して、「何でも神様にお任せすればばいい」と言って、「自分では何もしなくてもよい」と言う人生ではありません。むしろ、その人生はパウロがここで私たちに模範を示してくれているように、「今」と言う時を大切にして、私たちに可能なことを為していくと言う人生なのです。つまり逆に言うならば、今を大切に生きるためには、私たちは自分の人生を神に委ねる必要があるのです。

2.パウロの語った言葉に従え
(1)エフェソの教会に起こる困難

 パウロはここでエフェソの長老たちに対して語っておかなければならない言葉を残しています。なぜなら、エルサレムでは投獄と苦難がパウロを待っているように、エフェソの町の信徒たちの上にも様々な困難が待っていることをパウロは知っていたからです。パウロはそのことについて次のように語っています。

「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」(29〜30節)。

 このパウロの言葉が具体的にどのようなことを意味するのか詳しくは分かりません。おそらくパウロが去った後、違う教師がやって来て「パウロが教えたことだけでは足りない」、「キリストを信じるだけでは足りない」と律法主義のような教えを語って人々の心を惑わす出来事が起こることを言っているのかもしれません。また、問題はこのように外部からやってくる人々だけではなく「あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」とも言われています。キリスト者はいつも人里離れたところに暮らしているのではありません。特にパウロが伝道した教会は大きな都市に作られました。ですから、そこには様々な思想や宗教が入り乱れ、当然にそこに住む信仰者たちに影響を与え続けます。これは私たち現代社会に生きる者たちも同様です。私たちは知らず知らずの間に、この世の様々な思想に影響されて生きています。そのような影響の元で信仰が危うくなってしまわないようにとパウロはここでエフェソの教会の人々を指導しているのです。

(2)わたしには責任はない

 それではこのような問題に備えるためにエフェソの人々は、そして現代に生きる私たちはどうすべきなのでしょうか。パウロが語る言葉に耳を傾けましょう。まず、パウロはここで自分は教えるべきことはすべて教え、語らなければならないことはすべて語ったと言っています。

「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです」(20〜21節)。

 パウロは私たちがキリストの救いにあずかり、信仰者として生きて行くために必要なすべての知識を「一つ残らず」教えたとここで断言しているのです。だから彼はこのようにまで語っています。

「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません」(26節)。

 パウロが出し惜しみをして何か大切なことを人々に教えていなかったとしたら、その責任はパウロに残ります。何か問題が生じれば「パウロがそのことを教えてくれなかったから」と言えるからです。しかし、パウロは「そんなことを言うことはできない、責任は自分が教えたことをその通りに受け入れることができなかったあなたたちにある」とここで言っているのです。
 ですから教会は人が救われるために必要な知識はすべて聖書の中に記されていると信じて来ました。しかも、その聖書の言葉を理解するのは専門の学者たちではなく、普通の教育を受けた者なら誰でも可能だと信じているのです(ウエストミンスター信仰告白第1章6、7節)。
 初代教会を悩ました異端的な教えに「グノーシス主義」というものがあります。このグノーシス主義の特徴は聖書の言葉では言い表されてはいない真理があると教え、それを知らなければ人は真の救いにあずかることができないと教えたのです。「聖書の教えだけではなく、何らかの神秘的な体験をしなければ人は本当には救われない」。現代でもこれと同じようなことを語る人々もいます。ですから、そのような誤った教えに対する私たちの一番の備えは、私たちが聖書に記されている神の言葉に信頼を置くことであり、その言葉に耳を傾け続けることなのです。

3.誰が助けてくださるのか

 さて、このようにパウロは自分が去った後にエフェソの教会の人々が困難な出来事に出会うと言うことが分かっていました。余談ですが、ヨハネの黙示録を書いたヨハネはこのエフェソの教会のために働いていた人物であると言われています。そのヨハネの活動した当時のエフェソ教会のメンバーが対峙しなければならなかった相手は、ローマ帝国であったと言われています。なぜならば当時のローマ帝国は支配地域の人々を従わせるためにローマ皇帝を神として祭り上げ、その皇帝への礼拝を強要していたからです。
 それまでキリスト教会はユダヤ教など他の宗教を信じる人々との争いや弾圧を受けることがありました。しかし、このローマの皇帝崇拝は他の宗教との争いとは全く性格が違っています。なぜならここでの相手は政治的な権力を持っている人々だからです。キリスト教会はこの時代、ローマの政治権力によって弾圧され、苦しめられました。ヨハネはそのためパトモス島と言うところに島流しにされたと言われています。
 このような困難を前にして教会は何に頼るべきなのでしょうか。パウロはこのような困難に出会わざるを得ないエフェソの教会の人々を誰に委ねようとしたのでしょうか。パウロは次のように語っています。

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(32節)。

 パウロはここでエフェソの教会の人々を「神とその恵みの言葉とに…ゆだねます」と言っています。神が必ず彼らを守ってくださるとパウロは信じていました。それならどうして神が彼らを守ってくださるのがわかるのでしょうか。すでにそこには神が語られた恵みの言葉、聖書の言葉があるからです。それは言葉を換えて言えば、神の私たちに対する約束の言葉です。神はご自分が語られた約束の言葉を必ず実行してくださるのです。だから私たちはその神に信頼することができるのです。
 現在、教会のフレンドシップアワーでは毎週、旧約聖書の創世記に記されているヨセフについての物語を学び続けています。先週はちょうどエジプトの大臣になったヨセフの元に、兄たちが訪ねて来て、「食料を売ってほしい」と、ヨセフを拝したと言う部分を学びました。これはヨセフが嘗て見た夢、兄たちの刈った麦束が自分の刈った麦束にお辞儀をすると言うことが現実になった出来事でした。
 このヨセフ物語には様々な人々が登場します。彼らは神を信じていると言いながらも、人をだましたり、裏切ったり、恨んだりと様々な悪事を企み、誤りを犯します。そしてその罰を受けて彼ら自身も苦しみます。しかし、この物語の中で一貫して変らないのは神の態度です。人間がたとえどのように変ってしまったとしても、ご自分が明らかにした約束を必ず実現するために、神はすべての出来事を用いて人々を導くのです。
 パウロはこのご自分の語った約束をどこまでも変らずに忠実に果たしてくださる神を知っていました。そしてその神がキリストによって明らかにしてくださった救いの出来事を知っていたのです。だからこそ、パウロはこの神の約束にどこまでも信頼しています。私たちに人間は変ります。しかし、私たちに明らかになったキリストによる救いは変ることがありません。そして神はその救いが完全に実現するようにと私たちを導き守ってくださるのです。私たちもこの神と神の恵みの言葉を確信し、信頼して、今日与えられた私たちのそれぞれの使命を忠実に果たしたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
あなたに自分の人生を委ねて、今の時を忠実に生きようとしたパウロと同じように、私たちの信仰をも強めてください。また、困難の中にあってもあなたとあなたの示してくださった恵みの言葉を信頼し、イエス・キリストによってもたらされる救いの出来事を仰ぎつつ生きることができるように私たちを助けてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。