礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年3月3日  主の名のためならば

聖書箇所:使徒言行録21章1〜16節(新P.255)
1 わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島に着き、そこからパタラに渡り、
2 フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。
3 やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。ここで船は、荷物を陸揚げすることになっていたのである。
4 わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは"霊"に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。
5 しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、
6 互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。
7 わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。
8 翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。
9 この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。
10 幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。
11 そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」
12 わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。
13 そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」
14 パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。
15 数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。
16 カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれた。ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から弟子であった。

1.パウロの計画と神の計画
(1)中止要請に応じないパウロ

 今日の使徒言行録の記録もパウロのエルサレムへの旅の記録が続いています。ここに登場するいくつかの地名、コス、ロドス、パタラはトルコの西側にある町々で、地中海に面した港町や島々の名前です。パウロは最初、小さな船に乗船して旅をしていたようです。小さな船は陸地周辺の浅瀬を航行しながら、これらの町々に立ち寄って行ったようです。そしておそらくパタラの港でパウロは大きな船に乗り換えたと考えられています。ですから彼はこの港からは一気に海路で直接シリア州に向かい、フェニキアの港町ティルスに到着しています。
 今日の箇所ではエルサレムに向かう直前に立ち寄った場所でパウロがその地に住むキリスト者たちと交わりを持ったことが記されています。その上でエルサレムで彼を待つ苦難についての預言を受けた人々からエルサレム行きを中止するようにという忠告をパウロが受けたことが報告されています。結果的にパウロはこの忠告にも関わらずエルサレムに赴き、そこで預言で示された通りに逮捕されて、囚人としてローマに護送されるということになります。どうしてパウロは人々の再三の忠告を無視してもエルサレムに赴かざるを得なかったのでしょうか。その理由を告げるパウロの言葉が今日の部分に記されています。

「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」(13節)。

 パウロの固い決心は彼の「主イエスの名のためならば」と言う言葉で言い表されています。パウロは「主イエスのためになる」とこのエルサレム行きの旅を確信していましたから、再三の人々の中止要請にも応じずに旅を続けたのです。

(2)主イエスの名のために進む

 それではなぜ、パウロは自分のエルサレムでの逮捕とその後の出来事が主イエスのためであると考えていたのでしょうか。パウロがこの出来事についてどれだけあらかじめ詳細に知らされていたのかは分かりません。しかし、結果的にはパウロのこの逮捕は、彼自身が持っていた今後の伝道計画と矛盾せず、むしろそのために用いられるものだと確信していたのです。
 パウロが記したローマの信徒への手紙は、彼がこのエルサレムの旅の途中で書かれたものだと考えられていると言うことを皆さんにすでにお話しました。パウロはこのローマの信徒への手紙の中で自らローマに行きたいと熱望していることを語っているところがあるのです。

「こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます」(15章22〜25節)。

 パウロはここでイスパニア行きの計画を示し、その計画の途中でローマに立ち寄りたいと願っていることを披露しています。そしてその計画が実現できるように祈ってほしいとローマの信徒達に願っているのです(30節)。確かにパウロが描いた計画はその言葉通りには実現しませんでした。しかし、意外なことにエルサレムでの彼の逮捕は、ローマに赴いて人々に福音を語ろうと考えていたパウロの計画を違った形で実現することになったのです。ローマに囚人として護送されたパウロでしたが、見方を変えれば彼は自分の命を狙っている反対者たちの陰謀からローマの公権力に守られてローマに旅することができたと言うことになるのです。これはパウロの願いを神が聞いてくださったことにもなるわけです。

2.神の御心と人の判断
(1)神に応答するための自由

 さて今日の部分で興味深いのは神が人々に示された御心と、その御心をどのように受け止め、また行動するかと言うこととの関係です。なぜなら、ここに記されている出来事を読むと神の御心と人間の判断の関係はかなり自由であることが分かるからです。一端、神の御心が示されれば人間はその御心に抵抗することなく、絶対に従わなければならないと言う関係ではないと言うことでは決してないことがここで語られているからです。
 まず、ティルスに七日間滞在してその地に住む信仰者たちと交わりを持ったパウロは、「"霊"に動かされ、エルサレムへ行かないように」と言う示しを受けた人々からエルサレム行きを止められると言う出来事に遭遇しています。ここに「"霊"に動かされ」と書かれていますが、この霊は聖霊のことであると考えることができます。聖霊はティルスの人々にパウロがこれからエルサレムで逮捕され苦しみを受けると言う預言を与えています。そこでティルスの人々は「愛するパウロにそのようなことが起こってほしくない」と考え、彼のエルサレム行きを中止するように要請したのです。ここではパウロの反応が詳しくは書かれていません。おそらく彼はティルスの信徒達に自分のエルサレム行きの固い決心を伝えたのだと思います。だから彼らは一家総出でパウロを町外れまで送り出し、そこでひざまずいて祈ったのです。おそらく、ティルスの人々は「パウロの上に神の助けがあるように」とここで熱心に祈ったのでしょう。
 ここには神の御心に対して、一方ではだからパウロのためにその計画を止めるようと判断する人々があります。またその一方で神の御心を聞いた上で、あえてエルサレムの都に行こうと決心するパウロの存在があります。このように私たち人間は自分たちに示された神の御心に、どのように従うのか、それを判断し、実行する自由が神から与えられているのです。
 このことはこの後に登場するアガポと言う預言者との出来事においても同じです。アガポは実際にパウロの帯を取り、自分の手足を縛って「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す』」(11節)と告げています。そしてここではその預言を耳にした土地の人、つまりカイサリアの信徒達だけではなく、パウロのエルサレムへの旅にここまで同行していた人々、そこにはこの使徒言行録を記した著者まで含まれているので「わたしたち」と言う言葉が記されています。そのすべての人々がパウロを心配して「エルサレムに上らないように」としきりに頼んだと言うのです(12節)。ここでパウロは先ほど最初に引用した言葉を語り、人々に自分がエルサレムに行こうとする固い決意を再度告げているのです。

(2)主イエスの模範が私たちのガイド

 私たちは神のロボットではありません。だから示された神の御心に自分がどのように応答するのか自分で判断する自由が与えられているのです。もちろん「自由」であると言うことは、その一方で私たちに責任が委ねられているということも言い表しています。私たちは自らが下した判断に対して神の前で責任を負っているのです。だから逆に私たちは自らの下した判断の結果に対して、神に責任を求めてはならないのです。
 それではこのような重要な判断について、私たちはどのようにその判断を下して行けばよいのでしょうか。私たちが神の御心に対して正しい判断をくだすためにはどうしたらよいのでしょうか。私たちは見ず知らない町に赴こうとするとき、あらかじめその町のガイドブックや地図を用意します。神の御心に従おうとするときの私たちにはそのような助けはないのでしょうか。実は私たちにも確かにガイドブックが渡されているのです。
 パウロのこのエルサレム行きの判断を見ていくとき、私たちが気づく点は、かつて主イエスがエルサレムに向かおうとする旅で経験された出来事と似ている部分があると言うことです。主はご自身に与えられた大切な使命を全うするためにエルサレムに向かおうとするとき、ご自分にどんな大変なことが待っているかを弟子達に告げました。父なる神の御心に従ってエルサレムに向かおうとされるイエスに対して、弟子達はどのような反応を示したのでしょうか。弟子達を代表する人物であったペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスをいさめたと言われているのです(マタイ16章22 節)。だから、主イエスはこのペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われ、エルサレム行きの固い決意を示されたのです(同23節)。
 このような出来事を思い出すとき、パウロは確かに自分の行動の確かなガイドとして主イエスの模範に従おうとしたことが分かるのです。

3.神の御心を実現させる力

 私たちが神の御心を正しく判断するためのガイドブックとして主イエスの示された模範があることを、私たちはこのパウロの行動から学ぶことができます。ただ、私たちがここで忘れてはならないことがもう一つあると思います。それはこのガイドブックは単に私たちに目的地までの道順を教えるためだけのものではないと言うことです。なぜなら、主イエスはご自身の模範に従って歩もうと決心する人々にその方法だけではなく、それを成し遂げることができる力を与えてくださるからです。
 使徒言行録はパウロの生涯を後半部分で大変詳細に記しています。私たちはこのパウロに関する記述からパウロが有能な伝道者で、命を惜しむことなく主イエスに従うことができた立派な信仰者であったということを学ぶことができます。しかし、私たちはここでもう一度、この使徒言行録の主人公が誰であるかを思い出す必要があります。実は使徒言行録の描き出そうとする主人公は主イエス・キリストなのです。福音書が主イエスの地上での生涯を記したように、この使徒言行録はその主イエスが天から使徒達に聖霊を送り、彼らを通してこの地上で何をされたかを私たちに教えるものとして記されているのです。
 そう考えると私たちは使徒言行録に登場する立派な信仰者たちの歩みを賞賛するだけではいけないことが分かります。むしろ私たちはここでパウロを通して働かれた主イエスに目を向け、その働きのすばらしさに賞賛を向けるべきなのです。なぜならば主イエスの送られる聖霊こそが、主イエスの模範に従おうとするパウロの歩みを確実なものとすることができたからです。
 私たちが主イエスの模範に従おうとするとき、主は私たちに聖霊を送って私たちを助けてくださいます。その主イエスと私たちとの命の関係を私たちはこのパウロの物語からも理解すべきなのです。主イエスの御力は今も昔も変わりなく私たちの上に聖霊を通して働きます。ですから私たちも聖書を通して示される神の御心に対して、主イエスの模範に従って応答することが可能なのです。確かに私たちの前にも困難な出来事が待ち構えているかもしれません。しかし、私たちは主イエスが私たちに聖霊を送ってくださり、その困難な出来事に立ち向かわせてくださることをここでもう一度覚えたいのです。

【祈祷】
天の神様。
私たちにも日々、聖書を通してその御心を豊かに示してくださるあなたのみ業に感謝いたします。どうか私たちがその示された御心に正しく従うために、主イエスの模範を思い出すことができるようにしてください。そして、その模範に従う私たちが主イエスが聖霊を送ってくださり、困難な出来事の中にあってもそれを成し遂げる力を私たちに与えてくださるこを信じて歩むことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。