礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年3月10日   「生きている者の神」

聖書箇所:ルカによる福音書20章38節(新P.150)
27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
30 次男、
31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
32 最後にその女も死にました。
33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。
40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

1.生きている人間には信仰は無縁なのか

 牧師をしているといろいろな人から教会での結婚式についての質問を受けます。また教会とは全く無関係のない人から電話があって「教会で結婚式を挙げたいのですが」と言う問い合わせを受けることがあります。このような場合、私は「教会ではなく、結婚式場を探されたほうがいいですよ。どの結婚式場にもキリスト教式で結婚式を行えるような準備がありますから」と答えることにしています。どうも、話を聞いていると多くの人々は、「教会は結婚式を挙げるところであり、牧師はそのために働いている」と思い込んでいるようなのです。つまり、それ以外のときには教会も牧師も自分たちの生活からは無縁の存在であると考えられている訳です。ところが実際に私は牧師になってから今まで結婚式はわずか二回しか司式をしたことがありません。
 まだ、キリスト教会は良い方だと思います。多くの人のお寺や、仏教に対する知識はおそらく、「葬儀を行うところであり。お坊さんはそのために働く人だ」と言う印象しかないのではないでしょうか。私たちキリスト教会の牧師はよく、病気の人を病院に訪ねてお祈りをしたりします。しかし、お坊さんが病院に行って病気の人のために枕元でお経をあげたとしたら「縁起でも無いことはやめてください」と怒られてしまうはずです。
 いずれにしても、多くの人々はキリスト教や仏教と行った宗教、あるいは信仰と言うものは一生懸命生きている自分たちとは無縁な存在でしかないと思っている傾向があります。たとえば、私たちが友人や知人に対して伝道しようとするなら、「今は生活を支えることで精一杯なので、もっと余裕ができてから、信仰のことについて考えることにします」と言う返事が返ってくることもあります。信仰は生活に余裕がある人が持っている一つの道楽のようなものだと考えられているのです。
 もちろん、キリスト教であっても仏教であっても信仰と言うものは今を賢明に生きている人たちのものであるはずです。ですからそれが多くの人々に誤解されてしまっているのは、既に信仰を得ている私たちの側に責任の一端があるのかもしれません。
 今日私たちが取り上げようとしている聖書の言葉はイエスが語らえた言葉の一節です。そしてこの言葉がイエスの口から語られたきっかけは、キリスト教信仰の重要な要点の一つである「復活信仰」についてそれに反対する人々との間に起こった問答の中に登場しているのです。「復活」などと言う言葉を聞くと、もしかしたら「それは私たちが死んだ後のことでしょう。わたしはまだまだ長生きするつもりですから。今はまだ間に合っています」とおっしゃる方もおられるかもしれません。はたして、聖書の語る「復活」信仰とは私たちの死んだ後のことだけを語るものなのでしょうか。それは今を賢明に生きようとする私たちには無縁な事柄なのでしょうか。そのことについて聖書から少し学んでみたいと思います。

2.子供に救いを求めるサドカイ派
(1)サドカイ派の信仰

 まず、今日の聖書箇所には「サドカイ派」と言う名前を持った宗教家のグループが登場しています。新約聖書に多く登場するのは「ファリサイ派」と言う宗教グループですが、彼らに反してこのサドカイ派と言う名前のグループの人々はあまり聖書の中に多くは登場しません。なぜなら、このサドカイ派と言うグループに属していた多くの人々は当時、エルサレムにあった神殿で働く祭司たちが主だったからです。ですから、このエルサレムの神殿が紀元70年頃にローマ軍によって徹底的に破壊されてしまうと、このグループ自身も歴史の中から消滅してしまいます。ですから私たちが現在、「ユダヤ教徒」と呼んでいる人々はファリサイ派の流れに属する人々であり、サドカイ派の伝統は絶えてしまっているのです。そのためにこのサドカイ派の人々の信仰がいったいどのようなものだったのか、今では正確には理解できません。私たちはかろうじて聖書の中に残されている彼らの主張から彼らが持っていた信仰の内容を垣間見ることができるだけなのです。
 サドカイ派はきわめて保守的なグループで、聖書に記されている事柄だけを信じ、そこに新たな解釈を加えることを拒んだ人々であったと考えられています。さらに彼らが聖書として信じているのは私たちが知っている旧約聖書の中に収められている最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の「モーセ五書」と呼ばれている書物だけでした。ですから、彼らは「死人が生き返る、つまり復活などと言う信仰の内容は聖書のどこにも記されていない」と主張したのです。一方、彼らと敵対するファリサイ派の人々は「復活」と言う出来事を自分たちの信仰の大切な要素として考えていたのです。

(2)家督を絶やさないための結婚

 そこで彼らは当時、人々の人気の的とまでなっていたイエスに対してもこの「復活」と言うことをどう考えるか、サドカイ派の人々はここで論争をしかけているのです。先ほども言いましたように彼らは旧約聖書の中でもモーセ五書と呼ばれる書物に記された言葉しか信じていません。そこでここでは彼らが大切にする申命記25章の内容から復活についての信仰は正しい聖書の教えと矛盾するものだと主張したのです。
 申命記25章ではもしその家族の主人が子どもを残さずに死んでしまったら、その主人の妻であった女性は主人の兄弟と再婚して、子どもをもうけ、生まれた子供を死んだ主人の養子としてその家督を相続させるように教えられています。そこでサドカイ派の考えた問題はもし、長男、次男、三男と次々と七人の兄弟が亡くなっていく度にこれらの兄弟たちに嫁いだ一人の女性は復活した後、その兄弟の内の誰の妻になるのかと言う質問です。もし、復活と言う出来事を信じるのであれば、モーセはここで重婚を勧めているということになってしまいます。しかも、このモーセの教えは大変に強制力があったようで、もし女性が亡くなった夫の兄弟と結婚することを望んでいながらも、男性の側がその女性の申し入れを拒んだ場合には町の長老達がその男性を説得し、それでも応じない場合にはその男性は人々から激しい非難と冒涜を受けることなっていました(7〜8節)。
 そうなるとモーセはそれほどまでして地上の家督が絶えることを恐れ、この戒めを残したと言うことになります。もし、復活と言う出来事が事実であと考えるなら、これほどまでして地上の家督を存続させる意味がなくなるともサドカイ派の人々は考えていたのです。
 先日、テレビで最近の中国で問題になっていることが話題とされていました。中国ではだいぶ以前から人口の爆発的増加を防ぐために産児制限、「一人っ子政策」が進められています。誰も二人目の子どもを産むことは法律で固く禁じられてきたのです。するとこんな問題が生まれて来ます。病気や事故で死んでしまった子どもの両親達は老後の自分たちの面倒を見てくれる子どもがいなくなってしまうのです。このことで不安を感じる子どもを失った人々が「自分たちは政府の行った政策の犠牲者だ」と政府に抗議し、その保護を訴えていると言うのです。イエスの時代に同様な問題があったとは考えられませんが、モーセの教えを大切にしたサドカイ派の人々は、ある意味でこのような問題が生じないために聖書の教えがあると考えたのです。彼らにとっての最大の関心事は、自分たちの受け継いできた家督をどのように残していくのかと言うところにあったからです。

3.生ける神と私たちの命
(1)アブラハム、イサク、ヤコブは生きている

 これに対してイエスの答えは明解です。

「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(34〜36節)。

 復活した人々にとってもはや「めとったり嫁いだりする」婚姻制度は存在せず、不必要なのだとイエスは語るのです。もともと神は創世記の中で最初の人間であるアダムを創造されたときに、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(2章16節)と語り、アダムのパートナーとしてエバを創造されました。つまり、人はこの時点では「独りでいるのは良くない」、独りでは不完全な存在であり、それを一組の夫婦が補い合って生きるために結婚制度が神によって定められたのです。そこでイエスは「復活にあずかる者」は「天使に等しい」、「神の子」となると言っています。つまり、人はやがて復活のとき完全に完成された者となり、すでにそこでは不完全を補い合うはずだった結婚制度はもはや不必要となるとイエスは教えているのです。
 その上でイエスは興味深い論理を展開して聖書から新たな問いをサドカイ派の人々に投げかけます。

「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」(37節)。

 この時代の聖書には私たちが使っている聖書のように章とか節は割り振ってありません。ですから、人が聖書の言葉を引用するときには、その言葉の近くに記されている有名な箇所が目印とされたのです。ですから「モーセの『柴』の個所」とは出エジプト記3章を指し示しています。そこでモーセの前にご自身を示された神はモーセに対してご自分を「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(6節)と自己紹介されているのですえ。そして旧約聖書からこの言葉を引用されたイエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によっていかされているためである」(38節)と語られています。つまりアブラハムやイサクやヤコブという人々のよく知っている旧約聖書に登場する信仰者たちは死んでどこかにいってしまったので、いなくなってしまったのでもなく、今も神と共に生きていると答えるのです。彼らも今も神ともに生きていて、やがて訪れる復活のときを待っていると言うのです。
 これはおもしろい論理の展開です。本来、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言う言葉は「あなたの知っている先祖達が信じた神とわたしは同じ神だ」と言うことを意味したと考えられます。つまり、イエスはこの聖書の言葉を本来の読み方から離れて、別の意味をそこに読み込んでいるのです。しかし、イエスはこの言葉を通して彼らが死んでいないこと、彼らの命は今もなお、神とともにあり、神の元で生きていると言うことを証言されたのです。なぜなら神の元から遣わされてこの地上にやって来られたイエスだけは、神の元で彼らが今も生き続けていることを知っておられるからです。だからイエスはこのような論理を通してもこの世の人間には隠された信仰の事実を人々に示すことができたのです。

(2)私たちの命は神によっている

 さてここで重要となってくるのはイエスの語られた「すべての人は、神によって生きているからである」と言う言葉です。なぜならこのイエスの語られた言葉こそが私たち人間が持っている命の本当の秘密を語っているからです。私たちの人間は神によって創造され、その命は神から与えられたのであると聖書ははっきりと語っています。つまり、私たちの命は本来、神のものであり、私たちはこの神によって生きていると言ってよいのです。だからこそイエスはこの神と共にある者は決して死ぬことがなく、今も生きているとここで断言されているのです。そして私たちが持っている信仰とはこの神と私たちを結び、この命の関係を維持させるものなのです。
 聖書が私たちに熱心に教えるイエス・キリストによる救いは、私たちがこの神と共に生きるために、その破れかけた関係を修復するものです。私たちはこのイエスの成し遂げてくださった救いによって神と共に生き、その本当の命に与ることができるのです。そして聖書の語る「死」とはこの命の関係から人間が切り離されてします状態を指しています。そのような意味で私たちの信仰とは死んだ者のためのものではなく、私たちが本当の命を得て、生きるためのものなのです。なぜなら、神が共にいてくださらなければ、私たちは死んだ者と同じであり、やがては本当の意味で死んでしますからです。しかし、この神を信じる者には今このときにも真の命を得ることができるからです。
 私たちがこの真の命に与り、生き生きとした命を生きるためには救い主イエス・キリストを信じて、神と共に歩む人生を送る必要があるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と主イエスは私たちに教えてくださいました。そして、それは神の御子であり、地上と天上のすべての出来事を知っておられるイエスだけが教えることができる真理です。イエスはこの真理に基づき、私たちが神と共にいきることができるために、その命をこの地上で献げられました。私たちはこの四旬節の季節に再びそのキリストの尊い犠牲を思い起こす時が与えられています。私たちがあなたを信じ、神によって生きることがでる者としてください。 
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。