礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年3月17日  「パウロとヤコブとの申し合わせ」

聖書箇所:使徒言行録21章17〜26節(新P.256)
17 わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。
18 翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。
19 パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。
20 これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。
21 この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです
。22 いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。
23 だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。
24 この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。
25 また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」
26 そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。

1.エルサレムに到着するパウロ
(1)イエスに倣うパウロ

 今日の聖書箇所ではパウロがいよいよエルサレムの町に到着してからのお話となっています。パウロは今まで海外の異邦人教会の代表者たちと共に、各地の異邦人教会で募ったエルサレム教会への献金を携えてエルサレムに向かう旅を続けて来ました。私たちはその旅路の途中で、パウロがエルサレムに入城することは危険であると言う自分に対する神の預言を様々な教会の兄弟たちから聞いていたことを学びました。そのような危険が待っているエルサレムでありながら、それでもパウロがこの計画をやめようとしなかったのは、自分に与えられた使命を最後まで遂行しようとする彼の固い使命感に基づくものであったとも考えることができます。そしてさらに注目すべきなのはパウロがこのエルサレムに向かう自分の身の上を主イエスのエルサレム入城に倣うものと考えていたことです。イエスはご自分がエルサレムに入城することによって、ご自分の上に起ころうとする苦難をあえてご存じの上で、その歩みをやめることはありませんでした。そして、その主イエスの固い決意に基づくエルサレム入城が、十字架と復活の出来事を実現し、自分たちの救いの根拠となったことをパウロはよく知っていました。パウロはこのイエスを知っていたからこそ、自分のエルサレムの苦難が決して無意味に終わることなく、神の計画の中で用いられることを確信していたのではないでしょうか。

(2)神の御旨と私たちの決断と行動

 今日の部分ではエルサレム入城後に、パウロがエルサレム教会の当時の代表者であったヤコブと面会したことが語られています。このヤコブは既に殉教していた十二使徒の一人のヤコブではなく、「主イエスの兄弟」と呼ばれるヤコブです。そのヤコブにパウロが会って、彼から助言を受けていることがここでは紹介されています。この出来事からパウロの上に示された明らかな預言にもかかわらず、教会の仲間たちは必死になってパウロを守ろうとしていたことが分かります。
 神の御旨や神の計画を「運命論」のようなものと勘違いしてはなりません。運命論とは自分の意志とは全く無関係に物事は「神々」が最初から決められたようにしか進まないと考え、自分から何かを決断し、行うことは無意味だと考える思想です。しかし、ここで登場する教会の人々が信じている神様の計画はそのようなものではありません。神の御旨が示されていても、いえ、神の御旨が示されているからこそ、彼は今自分たちが何をすべきなのかを最善を尽くして考え、それを行動に移して行ったのです。なぜなら、神の御旨は私たちの意志と行動を通して実現していくことを私たちは知っているからです。
 今日の部分でのパウロが取った態度は私たちが彼の普段の行動や彼が書き記した手紙の内容から見ると一見、不自然に思われるとことがあります。キリストによる救いを徹底的に解き明かし、そのキリストの救いに反する主張をする律法主義者たちと激しく論争を戦わせたパウロの姿とはまた違った姿がここで示されているように考えられるからです。しかし、よくよくこの部分を読んでいくならば、パウロが信仰によって最善を尽くし、自らの決断を持ってこれらの行動をなして行ったことが分かるのです。今日はそのことについて聖書から少し学んでみたいと思います。

2.パウロはユダヤ人の伝統に反対していたのか
(1)エルサレム教会の二つのグループ

 パウロがエルサレムに到着すると教会の兄弟たちは喜んで彼を迎えました。少し注意して読んでみると、この兄弟たちはこの後に登場するヤコブやエルサレム教会の長老たちとは違ったメンバーであることが分かります。今日の部分を理解するために私たちがもう一度思い出す必要があるのは、このエルサレム教会に集う人々の構成です。実はエルサレム教会のメンバーを大きく分けて二つのグループに分かれています。使徒言行録はそのことを6章のステファノと言った七人の執事たちが選出された理由の中で紹介しています。

「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」(1節)。

 エルサレム教会には最初からユダヤ地方で生まれ育ったヘブライ語を話すユダヤ人と、海外で生まれ育ってこのエルサレムに戻ってきていたギリシャ語を話すユダヤ人の二つのグループがあり、その二つのグループで教会は構成されていました。もちろん彼らは同じユダヤ人であり、同じ主イエスに対する信仰を持っていました。しかし、言語の違いや育った環境の違いと言うものはそうは簡単なものではありません。私は神学校のときに始めて故郷の茨城県を離れて、神戸の神学校で生活することになりました。同級生には同じ関東の出身者も何人かいましたが、東北や関西、九州と様々な地方の出身者が神学校に集まっていました。そのとき、私が関西出身の神学生に言われたことは「関東の言葉は、冷たくて、きつい」と言うことでした。どうも彼らから聞くと、私たち関東の出身者たちが何気なく語っている言葉にはあまりよい印象が持てないと言うのです。こんなこともあってよく慣れていない最初のころはコミュニケーションの行き違いで様々なトラブルになったことを思い出します。今日のお話に登場するエルサレム教会ではそれ以上の問題があったようです。なぜなら、ここで最初にパウロを歓迎した人々はギリシャ語を話すユダヤ人たちで、後半部に登場する人々はヘブライ語を話す教会のメンバーたちであり、この二つのグループはパウロについてそれぞれ違った印象を持っていたからです。

(2)ヘブライ語を話す人々の信仰生活

 パウロたちはエルサレムに到着した最初の日にはギリシャ語を話す人々の歓迎を受け、その次の日にヤコブを訪ね、他のエルサレム教会の長老たちとも面会しています(17節)。パウロは彼らに挨拶をした上で、「神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した」、つまり宣教報告を行っています(18節)。ところがこの後、エルサレム教会の人々はパウロに対する危惧を抱いていることを彼に告げています。かつて、エルサレム教会の中心はペトロをはじめとする十二使徒でしがたが、ここでは彼らの姿は全くといいほど登場していません。彼らに代ってエルサレム教会を代表しているメンバーはここでパウロに彼らが語った言葉からも推測することができます。
「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています」(20節)。この言葉によって分かることは当時のエルサレム教会の大部分の人々はヘブライ語を話す信者たちで、もともとはファリサイ派のような律法主義者から回心して信仰を持った人々であったと言うことです。もちろん、彼らもまた主イエス・キリストを信じることで人は救われるのであり、律法では救われることができないことを知っていました。しかし、子供のころから熱心に律法を守っていた彼らの生活はキリスト者になっても変ることはありませんでした。むしろ彼らは自分が主に救われたと言う喜びを律法に従うという仕方で表現しようとしたのです。
 これについてここに登場する「主の兄弟」ヤコブは自らが記した手紙の中で興味深いことを語っています。「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」(ヤコブの手紙2章24節)。これだけ読むと「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と主張したパウロと全く逆のことを言っているように思えます。しかし、このヤコブの手紙の言葉は「行いの伴わない信仰は死んでいる」と言う言葉から続いて語られたもので、その真意はキリストの素晴らしい救いに与った者の生き方に何の変化も起こらず、感謝の応答が見られないことを疑問視し、その感謝の応答が「行い」として現れることが大切であることを語っているのです。おそらくエルサレムのヘブライ語を話すユダヤ人たちはその感謝の応答を自分たちが慣れ親しんでいる律法に従う生活を通して表現しようとしていのだと思われます

(3)パウロに対する誤解

 このように彼らの信仰生活はギリシャ語を話すユダヤ人や、またそれ以上に異邦人からキリスト者になった人々の信仰生活とはかなり違っていたと言うことが想定できます。そこでこんな問題が起こっているとヤコブをはじめとするエルサレムの長老たちは語ります。

「この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします」(21〜22節)。

 これはパウロに対する流言飛語、つまり根拠のないでたらめな噂でしかありませんでした。しかし、パウロに会ったことがなく、彼を直接に知らない人々はこのような噂を聞いて、パウロを危険な人物として警戒していると言うのです。
 ご存じのようにパウロが割礼やモーセの律法について厳しく語ったのは、これらの伝統を持ち得ない異邦人のキリスト者に対してだけでした。なぜなら、パウロと違った考えを持つ者たちが、「異邦人でも、救われるためには割礼を受け、モーセの律法に従わなければならない」と彼らに教えたからです。つまり、この主張を語った人々は「誰もまずユダヤ人にならなければ神の救いを受けることができない」と教えたのです。それに対してパウロはキリストを信じるならば、異邦人は異邦人のままで、そしてユダヤ人はユダヤ人のままで神の救いに与ることができると教えたのです。逆に言えば、パウロはユダヤ人たちが「割礼を受け、モーセの律法を守っていたら、救われることはできない」などと言うことは一切教えてはいないのです。

3.ヤコブたちの提案とパウロの決意

 もちろんヤコブをはじめとするエルサレム教会の長老たちもこれがパウロに対する根も葉もない誤解であることを知っていました。だからこそ、彼らはこの誤解を解き、パウロを守るためにはどうしたらよいかを考え次のように彼に提案をしたのです。

「だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります」(23〜24節)。

 ここに登場する「誓願」と言うのは旧約聖書の時代から伝わっているユダヤ人の習慣です。神のために自分の人生を特別に捧げると言う決意を示す行為がこの「誓願」と言うもので、その誓願を行った人々を「ナジル人」と呼ぶことがありました。古くは旧約聖書の士師記に登場するサムソンがナジル人であったことは有名です。そしてパウロもまたケンクレアイと言う町で誓願を立て、髪を切ったと報告されています(使徒18章18節)。

 エルサレム教会の長老たちはパウロにちょうどエルサレム教会にはこれから誓願をする四人の人々がいるので、その人々の面倒を見て、その費用を負担する姿をパウロが人々に示せば、彼が「ユダヤ人の習慣や伝統を非難している」と言う誤解を解くことができると考えたのです。
 もちろんこの提案は強制的なものではありません。ですからパウロは自らの意志でその提案に従い、彼らの言葉のように行動したのです(26節)。それではパウロはこの提案に対してどのような考えを持って従おうとしたのでしょうか。「この提案に従わなければ大変なことが起こる」と心配したからそれをしたのでしょうか。そうではありません。パウロはこのときの行動の原理を自らの記したコリントの信徒への手紙一で次のように語っています。
 「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(9章19〜23節)。
 パウロはキリストに救われた者として、自分に与えられた「自由」を人を救うために、すべての人たちと共に彼が福音に与るために用いるとここで語っているのです。つまり、パウロはすべての人を救いたいと願う主イエス・キリストの愛にもとづいて、自らの行動を考え、それを実行していたのです。
 私たちの教会では使っている言語を異にするグループがあるわけではありません。しかし、それぞれの育った習慣や、育った年代の違いにより、自分がキリストに救われたことに感謝を表わす方法も微妙な違いが生じる可能性はあります。そのようなときに、私たちはどのような態度をとり、また何をしていくことがよいのか自ら考え、決断していく必要性が生まれます。そのときの私たちに今日の出来事に示されるパウロの態度と決断は有効な助けを与えるのです。私たちもまたキリストの示された愛にもとづいて行動したパウロと同じように行動するとき、キリストの体である教会を建て上げることができることを覚えたのです。

【祈祷】
天の父なる神様
神の計画を信じながらも、最善を尽くして考え、行動しようとしたパウロやヤコブの姿を学ぶことができて感謝します。あなたはその計画を実現されるために、ここに集められている私たちを用いてくださいます。どうかそのために私たちがいつも、キリストの愛を覚え、その愛の上に立って自らの行動を判断し、実行していくことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。