礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年3月24日  「パウロ、神殿で逮捕される」

聖書箇所:使徒言行録21章27〜36節(新P.257)
27 七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、
28 こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」
29 彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。
30 それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。
31 彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。
32 千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。
33 千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。
34 しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。
35 パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。
36 大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。

1.パウロの逮捕される
(1)神殿内でパウロを発見したエフェソのユダヤ人

 前回はエルサレムにやってきたパウロがそのエルサレム教会の代表であるヤコブや他の長老たちと面会して、そこで話し合われた内容について学びました。当時のエルサレム教会のメンバーの構成は大きく分けて二つあり、一つはギリシャ語を話すユダヤ人、そしてもう一つはヘブライ語を話すユダヤ人であったことをそのときお話したと思います。このとき、パウロについてエルサレム教会の中で大きな勢力となっていたヘブライ語を話すユダヤ人たちは彼が「子供に割礼を施すな。慣例に従うな」と教えていると言うような噂を聞いていて、警戒していました。そこでヤコブたちエルサレム教会の代表たちはパウロに四人の請願者たちの手助けをして、その費用をパウロが負担することで彼が「ユダヤ人の守っている慣習」を尊重している者であることを人々に示すようにと求めたのです。そこでパウロはこの勧めに従ってエルサレム神殿で四人の誓願者のためのいけにを献げることになったと言うところまで学んだはずです。
 今日のお話はこの七日間の誓願の期間が終わろうとしていたときに起こっています(27節)。そのとき「アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ(ようとした)」と言うのです。ここに登場する人々は「アジアから来たユダヤ人」たちと説明されています。この後の記事で彼らは「エフェソ出身のトロフィモ」(29節)を知っていたと語られています。そこで彼らはアジア州のエフェソからやって来たユダヤ人であり、彼らはかねてよりパウロに対して良からぬ計画を持っていて、彼を罠に陥れる機会を狙っていたと考えることができます。そして彼らはその機会を神殿の境内の中で見つけ出したのです。ここで彼らはパウロを次のように非難し、エルサレムの民衆達を扇動して、彼を捕らえようとしたのです。

「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」(28節)。

(1)神殿で騒動が巻き起こる

 パウロがエルサレムに到着したのはユダヤ人の祭り「五旬祭」の期間中であったと考えられています。このときエルサレムの町には神殿で礼拝を献げるためにユダヤ全土はもちろんのこと、海外からも沢山のユダヤ人たちが集って来ていました。つまり、この時期はエルサレムの町に様々なところからユダヤ人の伝統を重んじる愛国主義者たちが集って来ていたと言うことになります。パウロを陥れようとする人々はこの人々の愛国心を巧みに利用しようとしたのです。当時、エルサレムに建っていた神殿はイエスのクリスマス物語に登場するヘロデ大王が建設したものでした。ヘロデはこの神殿の一番外側に「異邦人の庭」と言うものを建設し、神殿に異邦人がある程度の範囲内まで近づくことができるようにしたのです。これはヘロデがユダヤ人だけではなく、異邦人の人気も得ようと考えた苦心の結果だったと考えられています。しかし、異邦人はその異邦人の庭のさらに内側には入ることは決して許されませんでした。ここで聖書が「神殿の境内」と言っているのはこの内側の庭、つまり異邦人が入って来てはいけないとされる場所を指していると考えることができます。
 異邦人の庭と神殿の境内を区切る場所には「この境内の内に異邦人が入った場合は死刑に処せられる」という立て札が掲げられていたようです。そしてパウロはこの境内に異邦人であるギリシャ人を連れ込み、聖なる場所を汚したとこのとき訴えられたのです。アジア州から来たユダヤ人たちは「エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである」(29節)と語られています。つまり、彼らは実際にはトロフィモがエルサレムの町でパウロと共にいるところを目撃したのであり、この境内にトロフィモがいるのも発見した訳ではなかったのです。しかし、そんな事実は彼らにとってはどうでもいいことでした。彼らはこのとき、とにかくパウロに不都合な事実をでっち上げさえすればよかったのです。案の定、彼らの計画はここで成功したかのように見えました。このことで「都全体が大騒ぎになり、民衆が駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きづり出した」と言うのです。民衆がパウロを境内から引きづり出したのは「都の外に引きずり出して」そこで石打ちの刑とされたステファノ(7章58節)と同じように彼を死刑にするためでした。

2.神殿冒涜の罪?
(1)イエスも裁かれた同じ罪

 このようにパウロは神殿を冒涜する罪を犯したと言うことで、あわや石打ちの刑に処せられる危機にまで追い込まれます。もちろんこのときパウロはそのような罪を犯してはいませんでしたが、大騒ぎになった民衆は冷静になって物事を正しく判断することはできません。このような状況は最近、中国で起こった反日デモの騒乱と同じであり、誰のコントロールが効かなってしまうのです。
 ところでパウロはここで神殿を冒涜する罪によって民衆に裁かれようとしていました。実はかつて主イエスも同じような罪を犯しているとエルサレムの最高議会で裁かれたことがありました。今週は教会暦で主イエスの受難を記念する受難週に入っています。かつてイエスは自分を陥れ、亡き者としよとする多くの人が待ち構えているこのエルサレムの町にその事実を知りながら入場されました。そして、主はここエルサレムで捕らえられ、人々の裁きを受けられたのです。ユダヤ人の宗教議会である「最高法院」の席でイエスは「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と訴えられています。確かに以前、イエスは神殿についてこのような発言をされたことがあります。そしてその言葉がイエスから実際に語られた理由はヨハネによる福音書2章に次のように説明されているのです。
 「イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(19〜22節)。

(2)伝統を破壊するのではなく、同胞の救いを願い求める

 このイエスの言葉から理解できることはエルサレムの神殿は救い主イエス・キリストの救いのみ業を指し示すためのモデル(予型)に過ぎないと言うことです。ユダヤの人々はこの神殿を通して自分たちは神と親しく交わることができると考えていました。そしてそこで献げられている生け贄が自分たちの犯した罪を償い、神との間の関係を修復するとも考えていたのです。しかし、実際に私たちの罪を償い、神と私たちの関係を回復するものはただ一つイエス・キリストの十字架の死と復活だけなのです。そのような意味で、誰でもエルサレム神殿の指し示す神の祝福を自分のものにするためには地上に建てられ神殿ではなく、このイエス・キリストを救い主として信じ、受け入れなければならなかったのです。
 パウロにとって実際のエルサレム神殿はこのイエス・キリストの十字架と復活の出来事を示すためのものであり、もはやこのエルサレム神殿で執り行われている儀式は意味のないものになっていたことも確かです。しかし、だからと言ってパウロはその神殿を軽んじたり、ユダヤ人の伝統を破壊しようとはしていません。むしろ彼は、ユダヤ人たちが本当の救いを得ることができるようにと祈り願ったのです。
 私たちキリスト者はキリストの福音を信じ、すべての人々がキリストによって救われることを祈り願っています。しかし、決して「伝統破壊主義者」ではありません。ですからお彼岸にお墓に行って、先祖達の霊を供養する人々を非難することはありません。かえって先祖達の霊を大切にしようとする人々の心に敬意と尊敬を払うのです。しかし、私たち自身は先祖達の霊が墓にではなく、神の御許にあることを知っています。ですから、私たちにとっては先祖崇拝は意味のないものなのです。そして私たちにとってもっとも大切なことはその先祖達の霊は御許において支配される神を信頼し、礼拝することなのです。ですから私たちは、このような人々と共にあるとき、彼らと形ばかりの行動を合わせることだけで満足するのではなく、心から彼らの救いのために神に祈り求めることが大切であることを覚えたいのです。

3.ローマ兵の出動と神の計画
(1)命の危機から救い出されたパウロ

 さて、このようにエルサレムでの騒動が起こるとすぐにそこに出動して来るのは当時のユダヤを支配していたローマの軍隊です。特に彼らは特に五旬祭のような祭りの祭にエルサレムの町が愛国主義者で一杯になり、ナショナリズムの機運が高まって、それがローマへの反乱に結びついていくことを恐れていました。だから、彼らはこの時期、多くの兵隊をエルサレム神殿の周りに配置して、ユダヤ人たちの動静をうかがっていたのです。

「彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた」(31〜32節)。

 ローマの兵士の役目は群衆の混乱を静めエルサレムの秩序を回復することです。そこで彼らはまず騒乱を鎮めるために、その騒乱を巻き起こした原因を作ったと考えられるパウロを捕らえて、彼を二本の鎖で縛ります。これによってかつて明らかにされていたパウロが縛られて、異邦人の手に渡されると言うアガポの預言が実現しています(11節)。しかし、このとき真相を究明しようとするローマ兵に対して群衆は騒ぐばかりでどうにもなりません。そこで結局彼らはパウロを自分たちの駐屯している兵営へと連行することになりました。

「パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった」(35節)。

 パウロはこの時点で、群衆からかなりの暴力を受けていたと推測することができます。ですから、「兵士たちが彼を担いで行かなければならなかった」と言うのは彼が自力で階段を上ることができないほどにけがをしていたのではなかと説明する人もいます。いずれにしても、パウロはこのローマ兵達の登場によって重大な危機を脱することができたのです。彼らの到着があともう少し遅れていたら、パウロの命は無かったかもしれません。

(2)神の計画の確かさ

このパウロの逮捕の出来事を境に、使徒言行録は今後、囚人として護送されるパウロの物語を綴り始めます。しかし、使徒言行録の著者はこの囚人となったパウロの身の上を記すことで、パウロの人生に起こった悲劇を語り、読者の同情を集めようとしたのではありません。そうではなく、囚人として護送されるパウロではありましたが、神はこの出来事を通して、パウロをローマに行かせ、ローマの都に福音を伝えることを可能にしてくださったことを教えているのです。そのような意味で今日の物語の部分も大変興味深いことを私たちに教えていると考えることができます。
 ヤコブをはじめとするエルサレムの長老達はパウロのためにと考え、神殿で行われる誓願の儀式に参加するようにと彼を促しました。しかし、結果的にはそのことでパウロは彼と敵対するユダヤ人の企てにはまり、命を落とす直前にまで追い込まれます。ヤコブ達の提案はパウロにとって逆効果な結果をもたらしたのです。このときパウロを助けるために現れたのはローマの兵士たちでした。そして、パウロはこのローマの兵士達に捕らえられることで、囚人としてではありますがローマへの最後の伝道旅行へと旅立つことになるのです。
 ここには人の計画では分かりかねるような、神の計画が明らかにされています。パウロはこのことについて自らの記したローマの信徒への手紙で次のように語っています。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(8章28節)。

 パウロがこの手紙を書き記したのはこのエルサレムに到着する前のことであったと考えられています。つまり、パウロは様々な危険が待っているエルサレムの町に赴こうとするとき、このような信仰的な確信を抱いて入って行ったのです。そして、パウロの生涯に起こった出来事は、この聖書の言葉が確かに真実であることを私たちに証ししています。
 「万事が益となるように共に働く」と言う言葉は、すべてのことが自分に都合のいいように進むと言うことではありません。この言葉は、イエス・キリストが十字架と復活によってもたらしてくださった救いが必ず私たちの人生に実現することを明らかにし、神がそのために私たちの人生の上に働いてくださることを約束している言葉なのです。確かに私たちのそれぞれの人生にも様々な事が起こり、私たちの心を騒がさせ、また心配を抱かせます。そしてそんな私たちだからこそパウロの言葉は私たちに語りかけています。神が私たちの人生を救いの勝利へと導いてくださることを信じて、この人生の歩みを続けていきたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
あなたは私たちを愛し、私たちを罪から救い出し、あなたと共に生きることができるために、救い主イエス・キリストをこの地上に遣わしてくださいました。今週はその主の受難と十字架の死を記念する受難週を迎えます。私たちに聖霊を遣わし、この受難の出来事を通して示されたあなたの私たちに対する愛を覚えさせてください。そして、そのあなたが私たちの人生に起こるすべての出来事を用いて、救い主イエス・キリストがもたらしたすべての祝福を私たちに与え、またこの世界に与えようとするあなたのみ業に信頼して、生きていくことができるように、私たちの信仰を強めてください
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。