礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年3月31日  「復活の証人として選ばれた婦人たち」

聖書箇所:ルカによる福音書24章1〜12節(新P.159)
1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

1.空虚な墓

 今日は主イエス・キリストの復活を記念する礼拝です。この日曜日の朝、時間は場所によって異なりますが、全世界の教会でこの復活祭を記念する礼拝を献げ、神の大いなる御業をすべてのキリスト者がほめ称え、讃美するために集まります。この復活祭にとって大切なことはイエス・キリストが今から2000年前に墓から甦られたと言う過去に起こった出来事を記念すると言うだけではなく、このイエスは今も生きて私たちと共にいてくださっていると言うことの素晴らしさを覚えることにあります。私たちにとって主イエス・キリストは歴史の中に登場した偉大な人物の一人ではなく、今も生きて私たちを導いてくださる方である「主」であることがとても大切なことであり、私たちの喜びでもあるからです。
 私たちはこの今も生きておらえる主イエスと私たちとの関係を、今日の礼拝で取り上げられている聖書の箇所を通して学んでみたいと思います。このテキストの中ではイエス・キリストが甦られたその日曜日の朝の出来事から報告されています。主イエス・キリストの死後、そのご遺体は当時のユダヤの宗教議会の議員の一人であったアリマタヤのヨセフによって引き取られ、彼の持っていた墓に金曜日の夕方に急いで葬られています。ユダヤの暦では、日が暮れると次の日、つまり土曜日の安息日が始まることになっていました。ですからアリマタヤのヨセフはこの安息日が始まる前に主イエスの遺体を墓に葬ったのです。そして今日の出来事はこの安息日が開けた翌朝の日曜日から始まっています。
 この日曜日の朝の出来事については四つの福音書が共に、その報告の仕方はかなり違っていながらも同じように取り上げています。ところでこの四つの福音書を読んで気づくことは、いずれの福音書も主イエスが甦られた、つまり復活された姿を直接には何も記していないと言うことです。きっと現代の映画制作者ならば、その場面を特撮か何かを使って興味深く描きたいと思うかも知れません。しかし、不思議なことに福音書はそのイエスの復活の場面を直接に紹介するのでなく、主イエスが復活された後に残った空の墓、空虚な墓の状況を報告しているのです。この空になった墓の上に現在もエルサレムにある「聖墳墓教会」が建てられたと考えられています。そこに行けば、誰もがイエス・キリストの遺体がなくなってしまった空の墓を確認することができるのです。しかし、主イエスの復活の出来事について誰もが確認できるのはこの空になった墓までです。なぜなら、このあと実際に復活されたイエスに出会っている人々は特定の人に限られているからです。聖書を読んでみるとこの復活された主イエスと出会っている人々と主イエスは特別な関係で結びつけられていることが分かります。これは主イエスの復活と言う出来事は確かに人間の歴史の中に起こった客観的な事実であると言えますが、同時にその出来事を本当に理解するためには主イエスとの特別の関係、つまり信仰の関係が必要であることを教えているのです

2.復活の証人として選ばれた婦人たち
(1)イエスの十字架と復活に立ち会った婦人たち

 それでは主イエスの復活の出来事を最初の日曜日に体験した人々と主イエスとはどんな関係で具体的に結ばれていたのでしょうか。そのことを今日の聖書箇所からもう少し詳しく考えて見たいと思います。この日曜日の朝、主イエスのご遺体が葬れている墓にまず最初に向かったのは今までずっと主イエスに従って来ていた婦人たちです。福音書が描き出す主イエスの受難と復活と言う出来事の中で特徴的なのはその登場人物の多くが婦人であると言う点です。主イエスの逮捕を境に今まで従っていた男性の弟子たちのほとんどは自分の身を案じて逃げ去ってしまいます。かろうじて弟子ヨハネだけは主イエスの死の際に十字架の近くで立ち会い、主イエスの母マリアの世話を頼まれたと聖書は報告しています(ヨハネ19章26〜27節)。しかし他の弟子たちの存在はそこにはありません。それに反して婦人たちはイエスの処刑の際もそれを遠巻きに見守り、またアリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を引き取って自分の持っていた墓に葬った際にも、婦人たちはその有様を見届けたと記されています(23章55節)。そして彼女たちは主イエスの遺体に塗る香料と香油を準備して安息日の開けるのを待っていたのです(56節)。

(2)不十分のままで墓に向かう

 他の福音書ではこの婦人たちが日曜日の朝、主イエスの葬られている墓に向かったとき一つの問題を持っていたことが説明されています。なぜならば、当時のユダヤ人の墓は山の斜面に掘られた横穴式であり、その墓を守るために入り口は大きな石で閉じられていたからです。その石は婦人たちの力では到底動かすことができないようなものだったのです。だから彼女たちは「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(マルコ16章2節)と心配していたと言います。
 この問題を紹介するある説教者は私たちが主イエスに出会うためには、自分の持っている条件が十分に整えられているかどうかを心配することはないと言っています。たとえ今、自分たちの持っている条件が不十分であっても、主イエスに会いたいと願う人々に対して、神自らが墓の石を動かし、主イエスとの出会いを準備していくださることがこの物語から分かるからです。つまり、信仰と言うのは自分の持っている条件が十分に整ったから教会員になるとか、洗礼を受けると言うのではなく、どんなに自分は不十分であると感じていても「主イエスを信じたい」と思えるならそれでよいのであって。あとは神にお任せして信仰生活を始めればいいのです。そうすれば必要なことを神がすべて整えてくださるからです。

(3)生きておられる方を死者の中に捜してはならない

 この婦人たちが墓に向かうと石はすでに墓のわきに転がされていました(2節)。そこで婦人たちが墓の中に入ると驚いたことにそこにあるはずであった主イエスの遺体が見あたらなかったと言うのです(3節)。このため途方に暮れる婦人たちの前に「輝く衣を着た二人の人」がそこに現われます(4節)。この「輝く衣」と言う表現はそこに現われた人々が神の使い、天使たちであることを示しています。この二人は婦人たちに次のように語ります。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(5〜7節)。

 この天使たちのメッセージのポイントは二つあります。一つは、主イエスは「生きておられる方」であると言うことです。だから主イエスを「死者の中に捜す」ことは無駄なものと言えるのです。主イエスを歴史上の偉人の一人と考え、その言葉や行動に感動を覚える人は現在でもたくさんいます。しかし、イエスは今も生きておられる方なのです。そのような意味で第二のポイントである「(イエスが)お話になったことを思い出しなさい」と言うことが大切になります。なぜなら聖書に語られている主イエスの言葉を私たちが思い起こし、そのイエスが今も生きて働いておられる方であることを私たちが信じるとき、私たちの信仰生活に主イエスが聖霊を送り、私たちの信仰生活を祝福してくださるからです。

3.主イエスの愛は変わらない
(1)神に選ばれた婦人たち

 さて主イエスの墓に赴き、空になった墓の事実を確認し、この出来事の本当の意味を天使たちから教えられた婦人たちはすぐに帰って十一人の「使徒」と呼ばれる特別な弟子と他の弟子たちに報告します(9節)。ところがこの出来事を婦人たちから知らされた弟子たちは「この話をたわ言のように思い、婦人たちを信じなかった」と言うのです(11節)。当時のユダヤ人のしきたりでは婦人や子供の証言は裁判では有効な証拠として取り扱われなかったと言います。確かに死んだ人が甦ったなどと言う話を人は簡単に信じることはできません。その点では弟子たちのこのときの反応は人間として当然であったとも考えることができます。しかし、もしかしたら弟子たちがこのとき婦人たちの言葉をまともに受け入れなかったと言う事実の背後には、当時のユダヤ人が持っていた女性に対する偏見が加わっていたのかもしれません。しかし、不思議なことに神は当時のユダヤ人社会ではこのような偏見を抱かれていた女性をわざわざイエスの復活の最初の証言者として選ばれているのです。実は神のこのような御業はこの復活の出来事に限られたわけではありません。主イエスの誕生を知らせるクリスマスの出来事の中でも重要な証言をするのはイエスの母となったマリアでした。
 ただここで重要になるのはこの主イエスの復活の最初の証言者が婦人たちであったと言うことには彼女たちの性別の問題えはなく、他に大切なことがあったと考えることができます。マタイの福音書では主イエスの墓に言ったのは「マグダラのマリアともう一人のマリア」(28章1節)となっており、マルコでは「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」(16章1節)と紹介されています。そしてこのルカによる福音書では「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」(24章10節)となっているのです。更にヨハネでは「マグダラのマリア」(20章1節)だけが登場人物として取り扱われています。ここから分かるのは四福音書が共通して取り上げている人物はマグダラのマリアと言う女性であり、彼女の存在がとても大切であると言うことです。その証拠にヨハネがこの空の墓の出来事の直後にイエスがこのマグダラのマリアに会われた一部始終を詳細に報告しています。

(2)イエスに愛され、イエスを愛した婦人たちとイエスの復活

 新約聖書にはイエスに従った婦人も弟子たちのことをあまり詳しく記してはいなのですが、このマグダラのマリアと他の婦人たちについて次の様な解説がこの同じルカによる福音書の8章に紹介されています。

「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(2〜3節)。

 この記事から理解できるのはイエスに従った婦人たちの多くはイエスによって悪霊を追い出され、また病気をいやされた人々であったと言うことです。特にここで紹介されるマグダラのマリアはイエスによって「七つの悪霊を追い出していただいた」人物であると紹介されています。悪霊の数が特別に「七つ」と紹介される詳しい理由はわかりませんが、おそらく、この表現はマリアのそれまでの人生がどんなに悲惨で救いようのないものであったかを示す言葉であると考えられます。このあとルカによる福音書は同じ8章で悪霊に取り付かれて暴れ回り、一人で墓場に住んでいた男性を紹介しています(26〜39節)。ここで興味深いのは悪霊に取り付かれた男性の口から語られる言葉は彼自身の言葉ではなく、悪霊が彼の口を通して語る言葉であると言うことです。悪霊に取り付かれている人は自分の気持ちを一言も言葉に出すことさえ出来ないのです。悪霊に苦しめられているのに、自分では「助けてほしい」とも言うこともできない悲惨な状況の中に生きる人、もしかしたらマグダラのマリアも彼と同じような境遇にあったのかもしれません。しかし、主イエスだけは言葉にならないマグダラの本当の心の叫びを聞き分けて、彼女から悪霊を追い出し、彼女の人生を彼女に取り戻すことができる方だったのです。
 だからマグダラのマリアのそれ以後の人生は、主イエスに取り戻していただいた自分の人生を主イエスのために使いたいと思うものに変えられたのです。そしてその主イエスとの関係はこの日、墓にやって来ていた他の婦人たちも同じだったと思われます。皆、イエスに自分の人生を助けていただたい経験を持っていました。だから彼女たちはそのイエスにどこまでも従いたいと願ったのです。
 男性の弟子たちの中には主イエスが王になったとき、自分たちはその国の高官として選ばれるかもしれないという期待があり、そのためにイエスに従った人たちもいたようです。しかし、この婦人たちはそうではありませんでした。利害関係でも、義務感からでもなく、ただイエスに対す愛が彼女たちを突き動かしていたのです。だから彼女たちはどんなに危険を冒しても、たとえイエスが死んでしまっても自分たちはイエスの元を離れることができないと考え、その思いに駆られながらこの日、主イエスの墓に向かい、そこで主イエスの復活の事実を知らされたのです。
 このように考えるとき主イエスの復活と言う事実はこの婦人たちに取って特別な意味を持っていたことが分かります。なぜなら主イエスの復活は彼の死で終わってしまったかのように思えた主イエスの自分たちへ愛が決して終わってはいなかったことを教えるものだったからです。
 ここに語られている話は何度も言うように私たちにとって昔話ではありません。イエスは今も変ることなく私たちを愛してくださいます。そしてイエスはマグダラのマリアを悪霊の支配から解放したように、私たちの人生を悪の支配から解放し、神の支配の中で生かしてくださるのです。そして私たちもまたこの主イエスへの愛に動かされて、イエスに従う信仰生活を送ることができるようにされるのです。

【祈祷】

天の父なる神様。
この復活祭の礼拝を今年も祝うことができたことを覚えて感謝いたします。私たちを愛する主イエスはご自身を十字架にかけることで、私たちを罪の支配から救い出してくださいました。そして主の復活はその愛が私たちに変わらず向けられ、私たちの人生をその主が導いてくださることを教えています。どうか私たちも主イエスの墓に最初の日曜日の早朝に向かった婦人たちと同様に、あなたの愛に応えて生きる者としていください。そして私たちもこの主イエスの復活を喜びを持って人々に伝えることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。