礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年4月7日  「回心の次第を証しするパウロ」

聖書箇所:使徒言行録21章37〜22章21節(新P.257)
37 パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。
38 それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」
39 パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」
40 千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。

[ 22 ]1 「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」
2 パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。
3 「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。
4 わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。
5 このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」
6 「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。
7 わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。
8 『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。
9 一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。
10 『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。
11 わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。
12 ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした 。
13 この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。
14 アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。
15 あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。
16 今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」
17 「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、
18 主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』
19 わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。
20 また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』
21 すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」

1.パウロの使命とパウロの賜物
(1)流暢なギリシャ語を語る


 この礼拝での前回の使徒言行録の学びではエルサレムに到着したパウロが、神殿で彼を殺害しようとする者たちの陰謀に陥り、命を奪われる危機に遭遇したこと、そしてそのパウロがエルサレムに進駐していたローマの軍隊により助けられたと言う出来事まで取り上げました。この後、パウロはエルサレム神殿で起こった騒ぎの次第を取り調べたいと考えたローマ軍の千人隊長の命令により、ローマ兵が駐屯しているエルサレムの町の北に建てられていた兵舎に連行されることになりました(21章27~36節)。今日はその続きの部分を学びます。
 この部分でパウロは自分を殺そうとして兵舎の前まで追いかけてきたユダヤ人の群衆に対して千人隊長の許可を受けた上で弁明の言葉を語りかけています。ここで大変に興味深いのはパウロの持っていた豊かな賜物がここで生かされていると言うことです。パウロは最初、自分を逮捕したローマの千人隊長に対して流暢なギリシャ語を使って話しかけています。そして千人隊長はパウロの語るギリシャ語を聞いて、「ギリシャ語を話せるのか」(37節)と驚いています。もちろん、ギリシャ語は当時の世界の国際語で、つまり現代の英語のような役目をしていましたから、エルサレムの住民も全く知らなかった訳ではありません。しかし、私たちが英語を熱心に勉強しても、英語を流暢に話すことができるほどには行きません。その点でアメリカなどで育ち、日本に帰国した「帰国子女」と呼ばれる人たちの英語は全く違います。パウロのギリシャ語はこの「帰国子女」と同じように大変流暢なものだったので千人隊長はその言葉を聞いて驚いたのです。なぜなら、彼は当時のローマの植民都市であったキリキア州のタルソスの町で育っていて、子供の頃からギリシャ語を話す環境で生活していたからです。

(2)ヘブライ語を用いて語る

 ただ、「帰国子女」と呼ばれる人の中には肝心の日本語がどこかあやしい人もいます。しかし、ギリシャ語を流暢に話すパウロは、もう一方で正しいヘブライ語を語ることもできたことが今日の箇所でも分かります。なぜなら群衆は「パウロがヘブライ語を話すのを聞いて、…静かになった」(22章2節)と語られているからです。当時、イスラエルから離れて海外に住むユダヤ人のほとんどはギリシャ語を話す一方で、ヘブライ語を自由に語ることができなくなっていたと言われています。ですから、彼らが旧約聖書を読むことができるようにとヘブライ語からギリシャ語に訳された「70人訳聖書」がこの時代では多くの人々に用いられていたのです。私たちがエルサレム教会の事情で学んできたように、エルサレム教会にはヘブライ語を話す信者のグループとギリシャ語を話す信者のグループがあり、二つのグループは微妙な関係にあったのですが、これは言語の違いが大変大きな障害になっていたことを現しているのです。
 ところがパウロは自分の経歴の中で「そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け(た)」(3節)と語っているように、早い時期にこのエルサレムにやって来て有名な律法学者ガマリエルの門下生となり徹底的にヘブライ語で律法についての訓練を受けました。だから、彼はエルサレムに子供の頃から住んでいるユダヤ人と同様にヘブライ語を自由に話すことができたのです。
 ギリシャ語とヘブライ語を自由に使い分けて話すことができる、しかも二つの文化の知識も十分に理解していたパウロがキリスト教をエルサレムから世界へと伝える伝道者とされたことのは、彼が持っていたこれらの賜物のせいであると考えることができます。
 神は私たちの人生に意味のないことは与えられないと言うことを私たちは信じています。私たちが今まで身につけた経験や知識を神はご自身の計画をこの地上に実現させるために十分に用いてくださる方なのです。私たちはパウロのような世界宣教のための働き手として立てられることはないかもしれません。しかし、神は私たちに既に与えられている賜物を通して、私たち一人一人が今でもキリストの教会に仕えることを熱心に望んでおられるのです。ですから神に仕えるために大切なことは、私たちが無理をして人のまねをすることではなく、自分に与えられた賜物を通して神と教会のために何ができるかを考えることだと言えるのです。

2.パウロの熱心さとその転換点
(1)賜物を誇る人に起こる障害

 さて、確かに神は私たちがその人生で身につけた経験や知識を用いて下さる方です。しかし、私たちがその賜物を本来の意味で神のために用いることができるためには、私たちが体験しなければならないこと、私たちが知らなければならないことがあることを今日のパウロの物語は教えています。
 人間は自分の持っている賜物、つまり才能や力が豊かであればあるほど、それで何でもできると言う万能感を持ってしまいがちです。そのためにむしろその賜物が邪魔をして、神と自分との正しい関係を理解させることを邪魔することにもなりかねないのです。キリストに出会うパウロの場合もそうであったと思います。また、彼だけではなく、聖書には同じような問題を持った人が何人か登場しています。
 金曜日のフレンドシップアワーでは旧約聖書のヨセフの生涯を終え、前回からモーセの生涯の学びに入りました。実は私は今、同じ出エジプト記の箇所の内容を改革派が発行する聖書日課「リジョイス」のために解説する文章を書いています。そのため、私は今このモーセの生涯を読み返している途中なのです。このモーセの生涯を学ぶとき、実は今私たちが取り上げているパウロと同じような事情がそこに記されていることが分かります。

(2)モーセの犯した失敗

 モーセはエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を救うために神によってその民のリーダーとして選ばれています。モーセはイスラエルの民のリーダーとしてエジプトの王のファラオの元に何度も赴き、彼と交渉を重ねています。モーセがなぜ、こんなに自由に、また大胆にファラオと言葉を交わすことができたのかは、実はモーセ自身が子供のときからファラオと同じエジプトの宮廷に育ち、ファラオと宮廷のことを熟知していたから可能だったのです。そして、もう一方ではモーセは物心がつくまではエジプトの王女からモーセの乳母として任じられた実の母親、つまりヘブライ人の元で育てられています。このような条件の下で育てられたモーセですから、リーダーとしての素質を十分に身につけていたことは確かです。
 ところが、そんなモーセにも大きな人生の転換点が訪れます。なぜなら自分の能力や力に過信するモーセは、その自分の力だけでエジプトで苦しめられているヘブライ人を救おうとしたからです。そのため彼はエジプト人を殺害し、その罪の故に逃亡者とならざるを得なくなってしまいます。しかも、ヘブライ人はそんなモーセを誰一人として支持することはなかったのです。モーセが犯したこの失敗は彼の人生の計画を変える大きな転換点なりました。この後、モーセは逃亡者としての生活の中で神と出会い、今度は神の力によってイスラエルの民をエジプトから解放するためのリーダーとして立てられるのです。つまり、モーセは一度、自分の才能や力を本当に用いることができるのは自分自身ではなく、神であると言うことを徹底的に知る必要があったのです。

(3)パウロに起こった出来事

 実はパウロの人生にもそのような転換点が訪れたことが今日の箇所の中でも示されています。ここでパウロは自分が経験したダマスコ途上での主イエスとの出会いと、それ以後、自分がどのようにしてこのイエスに従う者となったのかと言うことを語っています。イエスに出会う前に、パウロは自分の能力や力を過信し、自分がすべてを変えて見せると言った熱心さを抱いて行動しました。それが教会を迫害し、信者達を殺害するという熱心さとして現されたのです(4〜5節)。
 ところがそのパウロの前に復活された主イエスが現れると言う出来事が起こります。そして自分の才能や力に自信を持っていたパウロはそこで自分が持っていた自信を打ち砕かれてしまいます。今まで自分の立てた計画通りに行えば、何もかもうまくいくと考えていたパウロでしたが、それが全くの誤りであったことがこの主イエスとの出会いによって彼に示されたのです。そこで彼が次に発した言葉は「主よ、どうしたらよいのでしょうか」(10節)と言うものになりました。つまり、ここでパウロは主イエスと出会い、自分が打ち砕かれることで、初めて主に従うことを本当の意味で学んだのです。
 主イエスとの出会いで始まった新しいパウロの人生の歩みが彼の計画ではなく、神の計画に従う人生であったことを特徴的に表す物語がこの同じ箇所に記されています。それはパウロがエルサレムの神殿で幻の中で出会った主イエスと彼との対話です。このとき主はパウロに「急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々は受け入れないからである」(18節)と語ります。するとパウロは次のように答えます。

「主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです」(19〜20節)。

 この言葉を読むとパウロは当初、自分はこのエルサレムでユダヤ人に伝道することがふさわしいと考えていたようです。なぜなら、エルサレムのユダヤ人はパウロのことをよく知っていたからです。神のためだと言って、かつてキリスト教会を激しく迫害した人物が、その教会のメンバーとなりイエス・キリストを証ししていると言う姿は確かにたくさんのユダヤ人の関心を呼び起こすものだったのかもしれません。しかし、神はこのパウロの計画を否定して「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」(21節)と語られます。パウロのことなど全く知らない異邦人に伝道するのがあなたに与えられた使命であると神は語られたのです。そしてパウロはその命令に従ったのです。もちろん、この出来事は私たちが自分たちのために伝道の計画を立ててはならないと教えているのではありません。しかし、本当に実を結ぶ伝道とはこの神に計画に沿ってこそ実現することを私たちは覚えるべきでしょう。だから、私たちの当初の計画がたとえ失敗に終わっても、私たちは気落ちしてしまうことなく、伝道を続ける必要があるのです。そして神はそのような働きを続ける私たちに必ずその御心を示してくださるからです。

3.わたしたちの先祖の神が正しい方に合わせた

 さて、今日の部分のパウロの発言は「パウロの語る弁明」(22章1節)と言う形をとっています。「弁明」とは他人から訴えられている自分が、その自分のために申し開きをすること、つまり自己弁護のための発言です。しかし、この文章を読んでみるとパウロは自分の行動を弁護するために語るのではなく、主イエスの福音を証しするために語っていることがわかります。
 特に彼はユダヤ人の伝統に忠実であり、神殿での礼拝を厳格に守る人々に、その信仰とキリストの福音がどのように関係しているのかをパウロは自分の証しを通して語っています。そのことは主イエスに出会い目が見えなくなってしまったパウロの元に遣わされたダマスコのアナニヤの言葉からも理解することができます。

 このときアナニアはパウロに次のように語っています。「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです」(14節)。

 アナニアはここで「わたしたちの先祖の神」と語ります。この表現は具体的にはイスラエルの歴史の中でご自身を明らかにしてくださった神、つまり旧約聖書に教えられ、ユダヤ人たちが神殿で熱心に礼拝を献げている神と同じ方だと言っているのです。ですから、もしユダヤ人の慣習に熱心で、神殿の礼拝を大切にしているならば誰でもこの神の声とそのみ業に心を向ける必要があると語っているのです。
 アナニアはイエスについてこう語ります。「あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです」。パウロはダマスコ途上で確かにこの言葉の通り、イエス・キリスト、「正しい方」の口から出る声を聞いたのです。ユダヤ人は皆、神と共に生きるために「正しい者」とならなければならないと考え、そのために律法に熱心に従っていました。しかし、私たちがいくら努力しても私たちは自分の力で自分を「正しい者」とすることはできないのです。むしろ、私たちを「正しい者」とするために唯一「正しい者」であったはずのイエス・キリストが私たちのところに来てくださり、十字架にかけられ命を捨てられたが故に、私たちはその恵みによって「正しい者」とされたのです。ですから、誰も神の前で自分を「正しい者」とすることが出来る者はいません。しかし、神から遣わされた救い主イエスだけは唯一の「正しい者」だったがゆえに、私たちを「正しい者」とすることができるのです。
 旧約聖書のメッセージは私たちに正しさを求めます。神と共に生きるためには確かに私たちは神にふさわしい「正しい者」とならなければなりません。しかし、それを可能にするのは私たちの力ではなく、イエス・キリストの力なのです。パウロはそのような意味でユダヤ人たちに対して、この救いの道を自らの弁明の機会を通して大胆に語ったと言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
あなたは昔も今も私たち一人一人を生かし、知識と経験を与えてくださいます。私たちに与えられている賜物はそれぞれ違いますが、あなたはその賜物を用いて教会とあなたに仕える道を与えてくださいます。私たちが自分の力に過信して、誤ってこの知識と経験を用いることなく、あなたに従って本来の意味でそれらの賜物を使うことができるようにしてください。そして私たちがそれぞれの人生を通して、あなたを証しし、あなたが示して下さった福音を人々に豊かに伝えることができるものとしてください
主イエス・キリストの御名によって祈ります。