礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年4月14日  「キリストに結ばれて歩む」

聖書箇所:コロサイの信徒への手紙 2章6〜7節(新P.370)
6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
9 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、
10 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。
11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、
12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、
14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。
17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。
18 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、
19 頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。

1.何が変わり、何が変わらないのか
(1)信仰生活への疑問

 キリスト教を信じると自分の生活はいったいどのように変わってしまうのでしょうか。教会員になったら何かいろいろと難しい決まりを守らなければならないのでしょうか。教会生活や信仰生活についてまじめに考える人は必ずそのような疑問を抱くものです。私たちは今まで自分が慣れ親しんできた習慣や環境が変わってしまうところに不安を覚えます。だからと言って信仰生活にせっかく入ったのに何も変わらないのならば、それでは信仰を持つ意味がどこにあるのか分からなくなってしまうと言ってもよいでしょう。なぜなら、私たちはやはり「新しい人生を始めたい、今までの希望の無かった人生から離れて、喜びと希望に満ちた人生を始めたい」と願うからこそ、信仰に関心を持つからです。はたして、私たちがイエス・キリストを信じて、信仰生活を始めるならば、私たちの生活の何が変わり、何が変わらないのでしょうか。そのことについて今日はこの礼拝で皆さんと少し考えてみたいと思います。

(2)キリストに結ばれた生活

 まず、私たちが信仰生活に入って、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れることで何が変わるのでしょうか。今日のパウロの言葉は私たちにそのことを教えています。
「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」。
 ここでパウロは信仰を持った私たちの人生は「キリストに結ばれた」ものに変わると語っています。言葉を換えれば私たちは信仰生活で私たちの命がキリストの命に結びつけられ、そのキリストから豊かな恵みをいただきながら人生を送ることができるようになると言うのです。どんなに科学が発達しても、自動車を走らせるためにはガソリンや電気が必要です。人間の人生も同じだと言えます。肉体は確かに食物の補給によって維持することができます。しかし、私たちの霊的な命はこのキリストから与えられるのです。ですから、キリストに結ばれるとはこの霊的な命がいつも私たちに補給されている状態を語ると言ってよいのです。
 ヨハネによる福音書はこの私たちとイエス・キリストとの命の関係をぶどうの木とその枝にたとえて次のように説明しています。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(15章5節)。

 もちろん、キリストを信じていない人たちもいろいろなことをすることができます。むしろ、その人達の中には人類に対して立派な業績を残した人たちもたくさんいるはずです。しかし、ここで「できる、できない」と言っているのは、そのような一般的な事柄を言っているのではありません。簡単に言ってしまえば、ここで語られていることは私たちと神との関係から言われていることなのです。どんなに優れた才能や力を持っていても神に喜ばれるような業を、私たちは自分の力ではなすことができません。そして私たちの業が神に認められないと言うことは、私たちは救われないと言うことになります。実は今日の言葉が登場するパウロが記したとされるコロサイの信徒への手紙の中で問題になっているのはそのことです。パウロはキリストに結ばれていなかったら、その人が何をしたとしても、それは自分たちを救うものとはなり得ないと教えるのです。そして誰でも救われるためにはただキリストを信じ、キリストと結びついて生きなければならないと教えているのです。

2.救いのためにキリスト以外のものは不必要

 そもそもパウロはなぜこんなことをこのコロサイの信徒への手紙の中で取り上げなければならなかったのでしょうか。この言葉の後に次のようなことばが続けてパウロによって語られています。

「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(8節)。

またこの言葉の後にも次のような言葉が記されています。

「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。…偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっている」(16〜18節)。

 どうやらこれを読むとパウロはこの手紙の受取人であったコロサイの信徒たちの中に救いに対する理解の混乱があり、その混乱を鎮め、彼らを正しい信仰生活に導くためにこの文章を書いていることが分かります。
 つまりこの手紙の直接の受取人たちは「人間の言い伝えにすぎない哲学」、「食べ物や飲み物」、「祭り」などなどいろいろな影響を彼らは受けて正しい信仰生活を見失ってしまっていたのです。それが具体的にどのようなものだったか今は正確なことは分からなくなってしまっています。おそらく彼らは当時の社会に流布されていた思想や様々な宗教に影響されて信仰生活に混乱が生じていたと考えることができます。その結果、彼らの信仰は確かに「キリストを信じている」と口先では言いながら、そのキリストによる救いだけでは足りないと考え、様々思想や宗教の教えを自分たちの信仰生活に取り入れて、かえって混乱してしまっていたと言えるのです。
 パウロはそこで彼らに救いのために必要なものはキリストしかないと教え、もし、信仰によってキリストに結ばれているのならば、そのキリストから自分たちの救いに対して必要なものはすべて与えられるので、他の何者の助けも必要としていないと教えているのです。だから信仰生活に入ることで私たちの人生で根本的に変わることはこのキリストとの関係です。彼と結ばれ、彼を頼りとする生活、それ以外のものに自分の救いのために何かを求めることはなくなると言うことをパウロはここで力説しているのです。

3.キリストによってすべてのものはよきものとされる
(1)神が与えてくださったものを否定してはならない

 しかし、ここで皆さんに注意してほしいのは、この手紙の中でパウロが警告しているのは私たちが救われるためにはキリスト以外のものは一切必要ない、その救いは完璧なものであると言うことを教えていますが、私たちが日常の生活を送るためにキリスト以外の一切のものは必要ないと言っているのではありません。
 ときどき信仰を誤って理解して、おかしな主張をする人がいます。たとえば病気を抱えて苦しんでいる人に「神様に癒していただけるように祈りなさい」と教えます。もちろん神に癒しを求めると言う考えは正しいものだと言えます。ところがその後が問題です。「医者に行ってはいけない。神様以外の何かに頼ろうとするのは不信仰の現れだ」。そう教える人がいるのです。実は私も何度かこういうことをまじめに語っている説教者のお話を聞いたことがあります。そして病気を抱えて苦しんでいる人の心を迷わすようなことをするのです。
 しかし、このような教えの根本的な誤りは信仰と医学を対立的にとらえ、あたかも医学に頼るのは熱心な信仰生活とは相容れないと語るところにあります。そしてこのような立場の人が非難するのは医学だけではありません。信仰以外のこの世が提供する一切のものは人間に害を与えるものであり、そこから信仰者は身を引かなければならないと教えたりもするのです。このような教えに従えば、その信仰生活はこの世の人々の生活とはかなり違ったものとなることは必然です。
 しかし、このような主張は聖書から見て正しい教えとは言えません。なぜなら医学をはじめ、すべてのよきものは神が私たちのために与えてくださるものだと聖書は教えるからです。神は信仰者にもまた信じていない人にも太陽の光を与えてくださるように、私たちの生活を助けるためにこの地上によきものを与えてくださっているのです。もちろん、私たちを癒すのは神であることは確かです。しかし、神はその癒しのために医学を用いて私たちの健康を回復させてくださることもありますし、それ以外の特別な方法を持って癒してくださることもあると言うのが正しい理解だと言っていいのです。もちろんいずれの場合でも大切なのは、私たちが病の癒しのために神に祈ることです。そしてその上で神が私たちのために与えてくださっている医学やすべてのよきものを感謝して用いることにあると言えるのです。

(2)「二元論」の誤り

 パウロがこの手紙の中で「人間の言い伝えにすぎない哲学」に注意しなさいと教えています。実はこの「哲学」は当時の社会に大きな影響を与えていた「グノーシス主義」という哲学、宗教ではなかったかと推測されています。このグノーシス主義と言う哲学はもともといろいろな思想が混ざり合って作られたもので一言では説明することができません。ただこの「グノーシス主義」と聖書の教えが根本的に違う点は、「グノーシス主義」は私たちの住むこの世界は良い物と悪い物によって成り立っていて、二つのものは最初から相容れないとはっきり分けて考えるのです。つまり世界を二つに分けてしまう「二元論」と言う考えで成り立っているところです。たとえば人間で言えば、人間の魂は良いものだが、肉体は悪い物だと考えます。そして、彼らはこの世に存在するものはよい神が作り上げた良い物と悪い神が作り上げた悪い物で成り立っていると考えるのです。そして人が救われるためにはその人は一切の悪い物から遠ざかることが大切なのだと考えるのです。
 しかし、聖書を読んでみると分かるように、聖書はこの世のすべてのものは、ただお一人の真の神によって造られたと教えています。そしてその神が造られたものはすべてよいものであると言っているのです。つまり聖書は「二元論」ではなく「一元論」を私たちに教えてことになります。それではこの神が創造されたこの世界になぜ悪が存在し、また私たちはそのために苦しまなければならないのでしょうか。実はこの点に関して、聖書は詳しい説明を私たちにしていません。なぜなら、聖書はこの世の悪の真相を究めるために書かれた書物ではなく、その悪に勝利し、私たちに救いをもたらしてくださるキリストを指し示すために書かれた書物だからです。しかし、このキリストによる救いを教えるために、聖書はこの世の悪の問題の一部を教えます。
 神が創造されたものすべてはよきものであり、それらは本来、私たち人間の生活を豊かにし、幸せにするために神が造ってくださったものです。しかし、それを悪くしてしまうのは私たち人間なのです。その点では私たち人間がこの世に悪を生み出す元凶となっているとも言っていいのかもしれません。しかし、それではなぜ人間は神が作られた良いものを悪いものにしてしまうような愚かな誤りを犯すのでしょうか。聖書はその原因を私たち人間が神から離れてしまったこと、人間が犯した罪によって神との命の関係を失ってしまったことにあると教えるのです

(3)キリストの救いによってすべては変わる

 そして神はその人間を救うためにイエス・キリストをこの地上に遣わしてくださったのです。このキリストによって失われてしまった人間と神との命の関係を回復してくださったのです。聖書はよきものを悪いものにしてしまう人間の罪によって、人間だけではなく万物が苦しんでいるとも教えています。ですから、人間が救われてキリストに結ばれて生きるなら、万物も救われると言うのです。なぜなら、キリストに救われた私たちは、神が与えてくださったものをよきものとして本来の意味で用いることができるようになるからです。神が万物を創造された本来の状態がこの人間の救いを通して回復すると教えるのです。
 私たちの信仰生活はこの世の様々な思想や文化と対立するものではありません。確かにキリスト以外のものは私たちの救いには役立ちませんし、必要ありません。しかしこのキリストによって救われた私たちが信仰生活は、神が私たちのために与えてくださったものを本当によいものとして用いることができるようにするのです。
 キリストを救い主として受け入れている私たちもこの世が提供する様々なものを大切にしています。なぜなら文化も学問もすべて神が私たちのために与えてくださったものだからです。その点で、信仰者の生活も世の人々との生活と変わることはありません。しかし、私たちが信仰によってキリストと結ばれる生活に送ることにより、そのすべてのものは、本当の意味でよきものと変わるのです。その点で最も大切なことはパウロが教えるように私たちがキリストに結ばれて歩むことであることだと言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちにイエス・キリストを与え、そのキリストに結ばれて生きる信仰生活に導いてくださったことを感謝たいします。人間が罪を犯し、あなたから離れてしまったとき、私たちはあなたが造ってくださったものを正しく使う能力をも失ってしまいました。しかし、あなたはキリストに結ばれて生きる私たちに今やその能力を回復させ、あなたが私たちのために与えてくださったものすべてを通じて喜びを持って人生を送ることができるようにと導いてくださいます。どうか私たちをますますキリストに結びつけ、この地上の生活にあってもあなたに毎日感謝を献げることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。